わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫です。私の枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。 ヨハネの福音書15章1〜2節・12節・11節
(このコーナーはコロナウィルスにより木曜祈祷会が休止中の為、水曜祈祷会の様子をご報告し、合わせてキリスト様のご臨在とその恵みをお分かちし、教会員の方々が自宅でのデボーションの参考にと作成されました。皆様の祝福をお祈りいたします。)
 
 2024年  5月  
 5月20日 (近況報告)
 日ごとに湧く泉を使用して現在教会祈祷会はzoomにより6名から9名くらいの方々が参加されております。
参加者が増えたため、近況報告タイム等をまとめることが困難になりつつあります。
シンプルな形でまとめられる様に良い方法を現在祈りつつ検討させていただいております。
近況報告タイム等は皆さんの色々な恵みのお証や祈祷課題等が提出されて、とても恵まれた時間となっております。今後も一人でも多くの参加者が増えて毎週の生活が充実したものとなることを願っております。
祈祷タイムは2〜3組のセルグループに分けてそれぞれのグループで互いに祈り合い、教会の敬愛する兄弟姉妹方の為にも祈り合う時となります。
祈祷会報告コーナーが祈祷会へ参賀できない方々の為にも、楽しい分かち合いのコーナーになればと願っておりますが、良いまとめ方が与えられるようにお祈りください。
こういう訳ですのでしばらくはこのコーナーはお休みとなりますことをご承知願います。
 
 2023年  8月  
 8月2日  日ごとに湧く泉7月第5週「いつも主と共に歩もう」
雅歌2:8〜13
5名参加のzoom祈祷会
1.近況報告タイム
O神学生:イザヤ書1:3「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶けを知っている。・・」より神様が多くのことをして下さっておられたことに気づかず忘れていたことを思い出すことが出来ました。18節では「さあ、来たれ。論じ合おう・・・」と行ってくださる神様に感謝いたしました。
O兄:雅歌は夫婦愛の絆を教えて下さっていると思います。神様がアダムとイブをお造りになられた時に本来は雅歌のような生き方が理想的であったことを思い感謝しています。
本多牧師:雅歌を読むと夫婦関係に色々な面で新しい光を与えて下さいます。昨日娘さんの薫さんご夫妻の弟子訓練がありましたが、本多牧師は弟子訓練を始めたときから御自身の夫婦関係も変わり、最後に病の中にあった奥様にお仕えできた幸せをつくづく思わされたそうです。
しかし注意しなければならないのは弟子訓練をされていた他の先生にも落とし穴があったことも知っておりますので、今はご自身麻溝台キリスト教会で働く喜びに満たされていますが、こうした時こそ落とし穴があることもあるので注意できるように皆様にもお祈りをお願いいたします。
2.聖書学習タイム
本多牧師は、雅歌の場面のシュラムの位置はエルサレムとガリラヤ湖との中間の山間部であることを教えて下さいました。
小澤:かもしかや鹿が表現されているのは山を越え川を越え強い勢いでイエス様の愛が表現されているからかもしれないと思いました。
本多牧師:ハドソンテーラーさんの本ではこの個所はキリスト様と花嫁の関係を語っており、せっかくキリスト様の救いに与った花嫁が離れたところにおり、心配してくださっている様子を表現していると解釈されているそうです。もう一度悔い改めて出ておいでという意味だそうです。
O兄:雅歌の解釈の一つとして、この場面はまだ出会っていない状態で主は私達を愛しておられることを教えて下さっておられるのではないかと思います。エペソ人への手紙1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」と書かれているとおりです。
本多牧師:黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」の場面と同じであり、当時のラオデキア教会がキリスト様を締め出して、人間本位の教会であったことを思い、愛の教会づくりとはキリスト様を締め出した人間的なものだけで結び合うものではない様にしたいものです。
3.祈祷タイム
S兄弟が健康の定期検査で再検査が必要となっているのでお祈りしました。また、8月5日の麻溝台地区お祭り参加の賛美チームの祝福の為にお祈りを致しました。その他日曜学校やCSKキャンプの為のお祈りが必要です。祈りましょう。
M.O
 
 2023年  7月  
 7月26日
 日ごとに湧く泉7月第4週「真理のためともに仕えよう」
ヨハネの手紙第三1:2〜12
5名参加のzoom祈祷会
1.近況報告タイム
O兄:雅歌は夫婦の関係を語っているので参考になります。
本多牧師:雅歌は夫婦関係と神とキリスト信者との関係を語っているので両方にとって大切な聖書個所と言えると思います。
T兄:先週火曜日に8月5日の地区おまつり会での賛美練習に教会へ来ました。その時あまり賛美をギターで練習するのに気持ちが進まないため、部屋を見渡すとカホンという太鼓が置かれており、今まで一度も叩いたことが無かったのですが試しに叩いたところがとても気持ちよくリズムカルに叩けて楽しかったです。今週の礼拝後に賛美チームと一緒に賛美をするときにK兄姉が出席出来なかったのでT兄がカホンを担当することとなりました。以前はギターの奏者が2人いるため自分の奉仕の出番が重なるのでこうしたご奉仕が教会のお役に立つのか、ご自身がこの教会へ来ることが神様の御心に叶っているのか不安になったこともありますが、神様が全てを最善にお導きくださっておられるのであることを理解できてとても感謝でした。
2.聖書の学びタイム
本多牧師:教会のアイデンティティを守ることの大切さを語られました。雅歌の解説書としては本多牧師の蔵書で「主イエスとの一致と祈り(ハドソンテーラー/著)」があることを紹介していただきました。教会は神の体ですので教会員それぞれが夫々に与えられた賜物を用いて協力して活動できることがとても大切であるという事です。
O神学生:麻溝台キリスト教会は小さな教会ですが、多くの献身者や宣教師の方々の為に祈りや献金のご奉仕をされていることに驚きました。
本多牧師:私も麻溝台キリスト教会へ赴任した時に同じように多くの献身者の方々へのサポート体制があることにびっくりしましたと言われていました。大切なことですね。朝顔教会からの伝統と思いますが大切な恵みであることを語られておられました。O兄弟が以前にご自身で教えていた日曜学校の聖徒が大人となり結婚して、その子供が教会へ通っているというご経験をされたそうですが、この事などもとても深い神様の祝福であることをお話しくださいました。アーメンですね。
佐藤宣教師やO神学生と共に教会が歩めていることも、教会の深い祝福であることを語られました。
3.祈祷タイム
2グループに分けてお祈りいたしました。
O神学生:教会員一人一人状況に合わせて、具体的に心を込めてイエス様の守りと祝福をお祈りされました。こうして一人一人を大切にして、具体的にその一人一人の課題について執り成しのお祈りをすることが、本来の教会の祈祷会のあるべき姿であることをつくづく学ばせていただけて感謝いたします。
本多牧師:8月5日地区おまつり会へ招待を受けたことも、今まで地区の方々の救いの為に祈ってくることが出来た恵みの表れであり、賛美奉仕者が守られ祝福されてご奉仕に当たることが出来るようにお祈りされました。またご聖霊様の深い御計画があると思いますので、将来の救われる方々、求道者の方がこの集会に参加出来るように具体的にお祈りくださいました。とても大切なお祈りでした。感謝申し上げます。

M.O
 
7月19日  日ごとに湧く泉7月第3週「神様の愛を実践しよう」
ヨハネの手紙第一4:7〜16
7名参加のZOOM祈祷会
1.近況報告タイム
O兄:最近奥様の病気の癒しの為に、み言葉を得て祈られたそうです。癒しと思われる回復が与えられたそうです。感謝ですね。ご聖霊様の賜物は癒しや預言、異言等がありますが、こうした賜物を与えられることは信仰成長にも役立ちますので、今後も祈り求め続けてまいりましょう。
O神学生:藤沢教会での集会で、兄弟姉妹に対するご自身の会話において、ご自分では信仰的で良いと思っていた会話が実は自分勝手な思い込みのケースに気づき、反省されたそうです。クリスチャンは常に聖書に基づいて御言葉により、その対応がよいかどうかを常に反省しながら進む事がとても大切であると思います。そうでないと自分の高慢から勝手な行動に出てしまう事があります。O神学生が今後牧会されるようになると更にこうした慎重さが大切になる者と思われます。お祈りいたしましょう。ヨハネの手紙では「本当に愛しています」の御言葉に改めて注意が向き「本当に」という意味の深さや愛の深さをひしひしと思わされて恵まれたそうです。
M姉:御自身は「兄弟姉妹が祈り合う」という聖書の御言葉の中で、私なんかの為に祈っていただくという事が申し訳ないと日頃思っていたそうですが、学校でテストが現在なされているのですが、祈っていただくことの大切さに気付かされたそうです。お母さんにも電話でお祈りを要請できたそうです。良かったですね。
T兄:第一ヨハネ3章16節ではイエス様のなされたように兄弟姉妹のために命を捨てるべきであることが書かれていて、ビックリしました。50周年記念礼拝の時は前日が出勤の為御自身の体調の事ばかり祈っておられたそうですが、他の兄弟姉妹方の為に祈っていなかったことに気づかされて反省をされたそうです。8月5日の地区のお祭りに賛美チームとして参加予定ですが、今度は参加される兄弟姉妹の為に祈ることを目指したいというお証がありました。
S・M姉:最近自然の素晴らしさを写真にとられたそうで、牧師宛てにメール送信されているそうです。
聖書の学びタイム
牧師:シンドラーのリスト(第2次世界大戦中のドイツでユダヤ人達を救った人)のお話がありました。日本人でも当時リトアニアに駐留していた外交官の杉原千畝さんのお話がありました。この方はポーランドなどから逃げて来た貧しいユダヤ人達に財産の有無を問わずに2000人以上の方にロシア鉄道を通って日本経由で脱出できるようにパスポートを、ご自身の信仰に基づいて、(千畝さんの奥様にはこの時「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼子の命のために、主にむかって両手を上げよ」(エレミア「哀歌」)が心に浮かんだそうです。)国の考えを越えて発行しつづけて下さったキリスト教徒です。杉原千畝兄の墓碑には「一人の人間を救う人は世界を救う」(タルムードの言葉)という言葉が書かれているそうです。神の愛は第一に先行する愛であり、無条件の愛と言うことです。教会とは互いに愛し合う者同士の集まりであることを本多牧師は強調されておられました。アーメですね。
祈祷タイム
2グループに分けて祈祷タイムを持ちました。
O神学生の今後の牧会の学びのため、M姉の学校でのテストの為、また教会の兄弟姉妹方の為にお祈りが出来ました。
M,O
 
 7月12日  この日は本多牧師のパソコンのZOOM設定が上手く働かずに、調整することとなり、祈祷会はお休みとなりました。
情報機械やソフトは数年で更新されるのが現在では自然な流れとなっていますので時々パソコンの修正等が必要になる時代であると思います。
便利な情報社会ではありますが、こうした機器を上手に活用できるように今後も祈ってまいりましょう。
M.O
 
 7月5日  日ごとに湧く泉7月第1週「光なる神様との永遠の交わり」
ヨハネの手紙第一1:5〜10
7名参加のZOOM祈祷会
1.近況報告
O神学生:50周年記念礼拝で初代佐藤宣教師のお証があり、宣教師が朝顔教会から派遣されて相模原へ赴きましたが、信徒が一向に集まりません。祈り続けた中で「この街には私の民が沢山いる」という御言葉をいただき、ひたすら祈り続けている中で次第に不思議に日本全国から信徒の方が少しずつ集まって来られて、その方々を中心にやがて求道者が集まり始めると言うことがあったそうですが、開拓伝道の苦難の中、諦めずに祈り続けていく中で神様の不思議な方法に導かれて教会設立されて来た経緯が証され、神学生御自身が来年から新しい教会へ派遣されることの中でとても良い学びとなったそうです。
ヨハネの手紙では信徒の方が罪を犯してしまったら、執り成して下さる義なるキリスト様がおられることを語っておりますが姉妹も信仰が委縮して苦しい時がありますが御言葉に励まされて心身共に再び光を受けて進めるようにして下さるイエス様がおられることを感謝しておられました。
O兄:ヨハネの手紙第一前半は罪を犯さないようになるための御言葉ですが、12節以降は既に救われた者の証の形で御父を知っていること、罪が赦されたこと、悪い者に打ち勝ったことなど、光の内を歩むことの素晴らしさを説明しており、大変恵まれました。
本多牧師:昨日は川口夫妻との弟子訓練の日でしたが、娘さんに教えることは心理的に難しいところがあり祈られていたそうですが、ヨハネの手紙により既に罪赦されたもの同士として信徒同士として学ぶことが出来てとても感謝だったそうです。娘さんは昔の本多牧師を知っておられるので今の本多牧師との違いが良く分かるそうです。
M姉:日曜日以降体調が悪くなり寝込んでおられたそうです。昨日癒されて学校へ来ることが出来たそうです。良かったですね。50周年記念礼拝では3代目・4代目の牧師先生等のご努力により今日がある事を学びとても恵まれたそうです。
御自身も苦難困難の後ではとても恐怖を感じてしまうそうですが、イエス様は必ず御手を伸ばして下さるという事であり、その信仰を持つためにも、これからも更に聖書を学ぶ事の大切さがあることを考えておられるそうです。
T兄:50周年記念礼拝では土曜夜勤の中で当日体調良くむかえられた事を感謝しておられました。第一ヨハネ2章10節「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」より、ご自身が相模原に勤務に来られた当初、不安と期待があったそうですが、教会探しも4つくらい回られたそうです。この教会を選ぶ中で重要視したことは神の家族を愛する教会であることでした。牧師先生が礼拝で病の中にある信徒の方の為に祈っている姿があり、そうしたことはこの教会だけであったことが選択の重要な点であったそうです。今後も更に兄弟姉妹一人一人と知り合いながら、神の家族として愛し合って行ける事と思います。感謝ですね。
2.聖書の学びタイム
本多牧師:私達の交わりとは第一に神様との交わりです。次に兄弟姉妹との交わりの事です。御言葉を分かち合い、お祈りを通して励まし合います。麻溝台キリスト教会では・・・互いに体調など具合の悪い人を心配したりしております。
O兄:O神学生が教会で色々な方々といつも交わりをもつようにして下さっておられるのがとても素晴らしいです。兄弟姉妹間でも同じような光景が見られるようになってきております。こうしたことは昔は無かったことなのでとても感謝です。
ご聖霊様の働きが着々と進み始めているという事でありましょう。感謝申し上げます。
O神学生:神様の本姓が光であられることについて、ご自身の信仰が揺らんだ時、心が暗くなった時、神様の光に出会うと、心も体も光で満たされる事が経験されます。光をお与えくださる主を讃えます。
4.お祈りタイム・・今日は2グループに分かれてお祈りの時を持ちました。
(1)50周年記念礼拝が守られ豊かな祝福を戴けたことを感謝申し上げましょう。
(2)入院中だったT姉妹が退院出来ましたので感謝申し上げました。T姉妹が再び教会礼拝参加をご希望されていますので祈り続けましょう。
(3)O兄のお孫さんの詩歩ちゃんのご家庭でコロナ感染があるため、詩歩ちゃんに移らないようにお祈りいたしました。
(4)8月5日(土)の麻溝台地区のお祭りに教会でも参加ご依頼の話があったそうですが、ご奉仕可能の兄弟姉妹がおられるかどうか未知数です、もしできる事なら賛美のご奉仕が出来る兄弟姉妹が与えられます様にお祈りいたしましょう。・・公園にはいつも3人前後の子供達が遊んでいますが、お祈りをさせていただいていますので何か神様の導きがあるかもしれません。たとえ30分でも参加して賛美や聖書のお話や子供達には紙芝居等も可能かどうか今後教会内で相談される予定ですので、皆さんのご都合もあるので無理はできませんが、御心であれば参加出来るようにお祈りを致しましょう。
M.O
 
   2023年  6月  
 6月28日  日ごとに湧く泉第4週「逆転の恵みを心に刻もう」
エステル記9章20〜32節
7名参加のZOOM祈祷会でした。
聖書学びタイム
ハマンの策略により、ユダヤ民族が殺害される予定日に、主の御計画によりモルデカイとエステルの信仰により逆転されて死から命へと救われました。この日を記念してプリムの祝日としてユダヤ教では祝われております。この日には同じユダヤ人どうして贈り物をし合い。貧しい人に施しを行います。
本多牧師:教会ではごちそうは食べ物だけではなく、教会員同士が祈り合い、励まし合い、恵みの分かち合いをなしあいます。これが霊的なごちそうです。
また、この日は親から子へ信仰を伝える日でもあります。クリスチャンホームの大切な使命でもあります。
T兄:母親からは「やさしく生きなさい」と言われたそうです。父親からは「チャレンジして生きなさい」と伝えられたそうです。
M姉:神様を信じることを伝えられたそうです。
家族に信仰を伝えてゆくことの大切さを今日まなびました。
お祈りタイム
今日は参加者のお祈りの為のグループ分けシステムが上手く稼働しませんでしたので、参加者それぞれ消音設定をしてから全員で一緒にお祈りをお捧げ致しました。(このような方法も良いことと思いました。)
1.7月2日の麻溝台キリスト教会50周年記念礼拝の祝福の為にお祈りいたしました。(60人くらいの参加が予定されています。)
2.8月5日の地域のお祭りに教会としての参加を打診されているそうです。今後もこの為にお祈りしてまいりましょう。
M.O
 
 6月21日   日ごとに湧く泉6月第3週「神様が高く上げてくださいます」
  エステル記6:1〜12
 7名参加のZOOM祈祷会でした。(最近教会へ参加されているT兄が参加することが出来ました。)
1.近況報告タイム
本多牧師:最近なかなか寝つきが悪いので病院へ行き、睡眠導入薬を飲んだそうです。今日は昼間頭がぼんやりしていたそうです。ご奉仕が忙しくなると緊張したり、夏の暑さなどの問題もあり、体調管理が難しいかと思います。牧師先生には元気で長生きをしていただき楽しく牧会生活を末永くしていただきたいと思いますので、皆様のお祈りをお願いいたします。また、川口ご夫妻が最近2週間に一度弟子訓練を始めることになったそうです。感謝ですね。長女のご家庭ですので難しさがあるかなと思われたそうですが、祝福を受けておられるそうです。
小澤:最近、長女が高齢者施設に障害者枠で就労が決まりました。お祈りを感謝申し上げます。長期間働くことが出来ればと願っております。
T兄:今週・来週は土曜の夜間勤務が続くそうです。礼拝出席が難しくなるのではないかと話されておりましたので、祈りました。
2.聖書学びタイム
1.本多牧師:ハマンの高慢が自ら破滅を導いており、高慢はクリスチャンにとっても注意が必要であることを話されました。御自身も今泉教会時代に小さな教会でしたが人数が増え始めたため、自分も大したものだなと思ったとたんに次の週から教会内に分裂が生じたそうです。いつでも神様第一に栄光をお捧げして行かないとこうした失敗をするので注意いたしましょうと言うことでした。小澤も昔似たような経験があり高慢は注意しないとならないことであるとつくづく思われました。
2.M姉妹:昔自分が苦難にあった時に、周りのお友達を見て幸せそうな様子に辛い思いをされたことがあったそうです。その時に聖書を開いて御言葉を読むと平安が戻って来た経験があられるそうです。アーメンですね。
3.お祈りタイム
今日は7人参加ですので、zoom画面を2分割して2組で独立してお祈りタイムを持つことが出来ました。祈祷会では教会員の方々の為に心を込めてお祈りしますので、全員が祈ると時間がかかりますので、このように2組に分けてお祈りタイムを持つことは良いことと思いました。とても楽しいお祈りタイムでした。感謝申し上げます。
M.O
 
 6月14日 6名参加のZOOM祈祷会でした。日ごとに湧く泉からエステル記を学んでいます。話題が豊富で楽しい聖書の学びが出来ております。イエス様に感謝いたします。  
 6月7日  6名参加のzoom祈祷会でした。日ごとに湧く泉からエステル記を学んでいます。教会員の2姉妹が参加されています。  
 2023年  5月  
 5月 日  小澤の手術は無事に完了し、しばらく静養後に復帰できそうです。皆様のお祈りに感謝申し上げます。  
 5月 日  5月10日に担当小澤が大腸がんにより手術入院の為、しばらく祈祷会はお休みさせていただきました。  
 5月3日  2022年5月以降の祈祷会報告書は担当者が忙しくなり、報告をまとめる時間が不足するようになったために、申し訳ありませんがしばらく休止とさせていただきました。(執事会でも了承済み)・・・zoom祈祷会へは担当者は基本的には参加させていただいておりますので、今後は時間の許す限りの範囲でご報告を簡潔にまとめて記載できる時に行う方法を取ることとなりますので、ご理解願います。zoom祈祷会はご聖霊様の働かれる、とても楽しいひと時ですので、どうぞ一人でも多くの方が参加されます様にお祈りいたします。(現在は、本多牧師を中心に「日ごとに湧く泉」を使用して、信徒兄弟2人と神学生姉妹一人の3ーO(「オー」苗字頭文字)チームで参加しております。感謝申し上げます。)  
 2022年  4月  
 4月27日  ヤコブの手紙3章1〜12節「口の危険性」

2名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師は77歳になられます。・・弟子訓練を今後も目指します。詩篇144編12節「私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。」・・・若い人を育てる使命を深く思っておられます。・・M姉妹が今週から本多牧師のもとで聖書の学びをLineで行う事となりました。現在はK姉妹と同居しておられますが、今はご自身の家族になじめない状況があるそうです。ご両親ともに良き方でありますが、それぞれのご家庭にそれぞれの問題がありますので祈り続ける必要があるという事でした。また、何よりも聖書の学びをこうした若い姉妹が始めることが出来ることは深い神様のご計画があることを覚えて感謝しました。祈り続けましょう。
(2)N兄との聖書の学びは家族の愛というテーマで進めておられるそうです。N兄の御家族への愛が更にイエス様のご愛により実践されます様に。
(3)小澤・・最近本多牧師のメッセージにあったニコライさんの伝記を図書館でお借りして読み始めました。私が学生時代に通っていた駿河台にはニコライ堂があり名前は知っておりましたがどの様な方かは知りませんでした。今回伝記を読んでびっくりしました。20歳代の若さで日本の人々にイエス様による永遠の命があることを伝えなければならないと心に思い、1年くらいかけて日本の北海道へたどり着き、伝道を始めますが、それこそ多くの苦難困難の時代であり、そうした中でコツコツと伝道に励む姿には驚かされます。・・・そもそも中国伝道のハドソンテーラーさんも20歳代で単身中国へ渡り宣教活動を始めますが、日本にも若い献身者や伝道者が是非与えられる必要があることを教えられました。・・ニコライさんにしてもテーラーさんにしても自然が大好きで、自然の中で励まされ学ばされるていることが多く見られます。・・またニコライさんのこの本ではドストエフスキーさんの事にも触れられており、幼い長女を亡くした悲しみで鬱状態でお墓へ行った時に蜜蜂の羽音が聞こえて、その時にはっと我に返り元気が出てきたというお話がありました。神様が何が大切かをおそらく教えて下さったのであろうと思います。私なども自然の中で動植物と共に主を賛美する時、そして山や川と共に主を賛美する時にとても幸せでいっぱいになります。
(4)本多牧師・・昔は本多牧師も静岡の森の中で一人で大声で祈り賛美したことが多くおありになったそうです。北海道では森はあるのですが、クマが出没するため立ち入り禁止になっており、入山が出来ませんので残念であったと言われておられました。相模原でも一人で祈る森の様な所が見つからないな〜と言われていました。・・・静岡教会の時代には札幌でクリスチャンファミリーとして暮らしていた姉妹が夫を亡くし幼い子供を連れて静岡の教会へ戻ってこられたそうです。その姉妹はとても深く悲しみの中にあり何もする気にならず落ち込んでいたのですが、ある時ご自身の目の前に突然、燕が舞い降りてきてさっと横切るかと思えばそのまま空へ飛び上がっていったそうです。それを見た瞬間姉妹は今までの鬱状態が癒されてハット我に返り、それ以降は教会でしっかりと恵まれたクリスチャン姉妹として暮らされておられるそうです。真に主のなされる事は不思議としか言いようがありません。イエス様に感謝申し上げます。
(5)上記の他本多牧師は、ハドソンテーラーさんが始めて下さったCIM宣教団のこと、現在はOMFとして北海道を中心に日本中に宣教して下さっておられること、また現在のOMFでもドプテーション(宣教報告)の時はあっても献金のアピールはしないそうです。それはCIM時代からジョージミューラーさんと同じく祈りによってのみ主が全てを備えて下さるという信仰が今でも生きているからだそうです。こうしたことをご説明してくださいました。すごいですね。
(6)その他色々なお話があり、今回は時間の関係で、聖書の学びは行わずに祈祷タイムへと進む事となりました。このこともイエス様の御手にあり感謝申し上げます。
2.祈祷タイム
(1)岡田兄のお孫さんが九州でコロナに感染してしまいました。脳の障害治療中のもう一人のお孫さんに移らないようにと祈りました。
(2)求道者が多く与えられます様に。特に若い求道者やクリスチャンホームの方が何人も与えられることが麻溝台キリスト教会の成長にとても大切であるため、祈りました。
(3)インドネシアのY姉妹が礼拝をお休みのため、アパートを岡田姉妹と共にご訪問されたそうです。同じアパートに他の外国籍の方が何人か住んでおられるという事で、そうした方々が教会へ来て救われます様に祈りましょうという事になりました。詩篇146篇9節「主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。」・・・祈りましょう。
(4)日曜学校の子供達が集められて、救いへと導かれます様に。
M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 4月20日  ヤコブの手紙2章19〜26節「行いのない信仰は死んだもの」

2名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・時々牧師は悪魔の攻撃に合う事があり、失望落胆に襲われることがあり、先日日曜日の午後から心が何か落ち込んでおり、苦しい時を過ごしましたが、なんと先日、神学校時代からの60年来の友人牧師からケーキ・パン・ブラジルコーヒーとガリ版刷りの日本語とブラジル語の一年分の聖書箇所の解説書をご自身で作成した冊子が届いたそうです。群馬県での牧会はブラジル人が多いようでこのような形でプレゼントをお送り下さり、励まして下さったそうです。・・・また今朝JFKAの友人牧師からお互いの近況について、励ましのお電話がありとても感謝であったという事です。・・・詩篇139編12節「あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」とありますがその通りですね。イエス様に感謝申し上げます。
(2)ハーヨージュ牧師(韓国)も数万人を牧会されているそうですが、講壇に立った後に暗闇に襲われてくる事があるそうです。・・牧師・宣教師の方々の為にお祈りがいつも必要であるという事ですね。
(3)小澤・・教会図書「ハドソンテーラー」さんの伝記を読んでいますが、誰も試みたことの無い中国奥地の未宣教地区へ20歳代の若さで献身して、しかもその方法はジョージ・ミュラーさんと同じ信仰と祈りだけでだれにも頼らず神にのみ頼って進むという方法を取ります。勿論英国宣教会らの支援も得ますが、それだけで足りるものではなく、ひたすら祈りによって進んで行くという覚悟の前進です。しかし実際には若いテーラーさんは現地で既に活動して多くの苦難のなかを進んでいる何人もの宣教師達と祈りつつ心を合わせて協力して前進をしてゆく姿が書かれています。私はハドソンテーラーさんの事は詳しく知りませんでしたが本多牧師が教会図書室の閲覧棚の見やすいところに本を掲示して下さったので、「取りて読め」というイエ様のご指示であろうと思い読み始めてとても恵まれます。・・・・テーラーさんは単に英雄的な宣教をした個人であると思っておりましたがさにあらず、若いテーラーさんは未熟なことが数多くあり、多くの困難に合いつつ、その都度世界中の優れた宣教師仲間に助けられたり助けたりしながら共同して中国奥地へ何度も進んでまいります。‥こうした中でこの宣教により救われた中国の方がヨーロッパではいつからキリスト教が宣教されていたのかという問いに数百年前からですとのお話に、なぜもっと早く中国へ宣教に来て下さらなかったのですかというお話があります。この方の父も求道者で中国の宗教や孔子の教え等を色々と探しましたが何も得るものが無く、数年前に求道の心のままに亡くなられてしまったという事でした。・・世界中に求道の心を持つ方をイエス様は起こし続けて下さっておられることをつくづく教えられます。テーラーさんがみすみすキリスト様の救いを知らずに無数の人々が死んで行くのを放っておけないという、強い愛と信仰から進んで行くのですが、やがて独自の宣教団CIMという組織をつくるようになり、数百人の宣教師を中国各地に送る活動をすることになります。今日のOMFの前身の組織ですね。こうした積み重ねによる働きが現在の中国の地下教会を支える原動力となっていったことを知ることが出来ます。・・今回はこの事を通じても、宣教とは一人で行うものではなく、実に様々な日本中・世界中の兄弟姉妹と共に協力して始めてしっかりしたイエス様の栄光を表すことが出来るのでることをつくづく教えられました。・・本多牧師が多くの牧師仲間や世界中に友人をお持ちであることは深いイエス様の導きであるなとつくづくイエス様に感謝しました。
(4)小澤は数か月前に詩篇139編12節にある様に、暗闇について不思議な経験をさせていただきました。それまでは私は死ぬときは出来れば避けたいと願っていた事が一つありますが、それは炭鉱などの地下の暗い所に閉じ込められて真っ暗な闇の中で死ぬという事でした。何か不安があり、どうもあまり居心地が良さそうでない気がしていました。しかしある時、暗闇も昼もイエス様には同じであるという今日の御言葉を思い出し、真っ暗闇でも私の心の中に住んで下さっておられるイエス様がおられるではないかという思いが強く与えられて、自分でもびっくりする程暗闇が怖くなくなりました。それはいつも私の中に住んでおられるイエス様が「光よあれ」と言われれば真昼のように光が現れて全てを明るみの中に示して下さるという事を強く、単に頭で考えてただけでなく心の底から何か深く理解させていただけたからです。ですから今は暗闇だろうが何だろうが私にとって不思議に何も問題が無くなってしまったのです。・・こうした不思議な御言葉の力の経験をさせて頂き、とても深くイエス様に感謝申し上げました。
2.聖書学習タイム
(1)ヤコブ書ではアブラハムが言葉だけの信仰ではなく、イサクを捧げるという真に信じがたい行動に出ることを通して主がアブラハムの信仰を義と認めておられることが分かります。
(2)良い木から良い実が生じる・・という御言葉からもし私達が本当に良い木として単に接ぎ木されているだけでなく、命をイエス様からその都度与えられているなら自ら良い実が現れるものであることを本多牧師は語られておられます。ルターさんは単なる行動による救いというカトリックの教えを越えて信仰義認という事を聖書から学びプロテスタント活動を始めますが、同時に本多牧師は義と認められた人は行動が自ずから出て実がなるという事を話されておられました。・・クリスチャンになってもその生活が以前とまるで変わらないという事はどこかに問題があり、信仰は必ず自然に行動が伴う事を学ぶ必要があるという事でした。口で信仰を言うだけでなく、どこで実を結んでいるかがとても重要であるという事です。アーメンですね。
(3)本多牧師はN兄と聖書の学びを継続しておられますが、御家族への愛という事について、奥様の良い点を具体的に書くこと・ありがとうと言う言葉を日頃から常に言う事を心掛けることをお伝えになられているそうです。若いY姉妹との学習でも生活に結び付く信仰をお伝えしているようです。小澤もまた日々デボーションをもつとか、色々と工夫させていただいております。一つ一つ出来ることを祈りつつイエス様に守られつつ実践してゆくことはととても恵まれる秘訣でもあると思います。感謝であります。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師の霊性が守られ、末永く元気に主の導きによりご聖霊様に充満した牧会活動が楽しくできますように。
(2)Y姉妹との明日の学習が祝福されます様に。
(3)その他教会兄弟姉妹の祝福の為に祈らせていただいております。イエス様はお祈りをお聞きくださっておられますので必ず祝福をお与えくださる事と思います。イエス様に感謝申し上げます。
M.O
(聖書個所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 4月13日  ヤコブの手紙2章14〜19節「行いのない信仰は死んだもの」

2名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・詩篇133篇1節「見よ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」より、先日の礼拝後に本多牧師の新居(アパート)をオープンハウスとして信徒の方々に公開いたしましたが、花坂兄やヨランダ姉妹等色々な方が来て下さり、とても楽しい時が持てたそうです。感謝申し上げます。
(2)月曜日の西山兄との聖書学び会後に帰宅してLineで北海道の民生牧師や川崎の薫さんとも家族水入らずで話し合いの時が持ててとても良かったそうです。奥様の納骨式がまだ行われていないので、この夏、御殿場の墓地で御家族で納骨式をなされることになったそうです。
(3)小澤・・デボーション「今日の力」F.Bマイアー/著のローマ人への手紙15章32節「その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。」から、パウロさんが開拓した、ローマの教会がとても心休まる安息の教会でもあったことが分かります。本来の教会のあるべき姿は礼拝がキリスト様のご臨在溢れるものであることはもとよりですが、こうして兄弟姉妹が神の家族として、本多牧師の言われるように愛の教会、心休まる教会であることがとても大切なことが分かります。恵まれました。私達もそのような教会でありたいですね。
2.聖書学習タイム
(1)ヤコブの手紙1章4節では「その忍耐を完全に働かせなさい、そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」から信仰の成長を信徒の一人一人が目指して行きましょうということで、それは頭で考えただけの信仰ではなく、礼拝に出席しただけの信仰でもなく、愛の行動を伴う信仰であることを目指しましょうという事でありました。
(2)ヤコブの手紙2章14節「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」から・・・「と言っても」という言葉が重要であり、信徒一人一人が自分は礼拝を守っていると言ってももし愛が無ければそれはイエス様に本当に喜ばれる生き方でしょうか。もし聖書を理解していると言ってももし愛のある行動をしないならそれはクリスチャンとして良い人生でありましょうか。この事はとても大切なことであり、実践を通しての信仰がその人を育てその人を真のクリスチャンに育てることを語られておられました。
(3)教会では兄弟姉妹の間でも、一般的には信仰者は人を傷つけないように注意しますが、しかし本多牧師は真のクリスチャンは罪に対する態度に2種類あり、@しはいけないことをしないということとAしなさいと主が言われていることをしないという問題があるという事です。・・・教会でも愛の行動をとることは、相手のやり方や周りの方に誤解を受けることもあるでしょうが、心に示された愛の行動は失敗を恐れずに行動することの大切さを語られておられました。とてもクリスチャンにとって大切なことだと思います。・・聖書の中心メッセージも@神を愛しなさいとA隣人を愛しなさいの積極的愛の勧めを語っております。注意しなければならない事であります。
(4)弟子訓練を実施してきて本多牧師が気付いてきたことも、愛することの大切さを学んできたことです。
(5)日本の福音信仰の教会でも今まで学んでこなかった事があります。それは「信仰」と「聖さ」について(カルバンさんウェスレーさん)は多くを学んで来ているにもかかわらず。聖書の中心テーマである「愛」について学んできていないという事だそうです。牧師先生がたの中でも神学校でも「愛」について学んでこなかったことがあるそうです。・・今までの教会では消極的な愛「・・・してはいけない。」は学んできても、本来は「・・しなければならない」という積極的行動をもって愛をもって前進してゆくことが大切であると語られておられました。アーメンですね。
(6)小澤は教会図書館棚に牧師先生が配慮して掲示してくださっておられた「ハドソンテーラー」さんの伝記を読み始めました。ハドソンテーラーさんは中国伝道の中心的活動を歴史的にも行われた方で、名前と業績は少しは知っておりましたが伝記を読んだことはなかったのでとても勉強になっております。その中でテーラー牧師が中国に渡った頃には太平天国の乱というものがあり、これは当初は教会で聖書を学び当時の中国政府が問題だらけであり、改革が必要という中で起こって来た運動でもあり、クリスチャンが多くこの運動に参加するようになりますがやがて聖書の内容も詳しく知らない表面的理解しかしない人々が暴徒のように戦争を推進し始めて大変な時代となります。当初は英国もキリスト教布教に都合が良いと歓迎しますが、やがてテーラーさんらもこの戦争が無謀なものであることに気付くようになります。・・・そもそもキリスト者が戦争を行うという事がどういうこと意味があるのかを深く考えさせられました。聖書の教えを深く理解した人がむやみに戦争などを起こすものかどうか考えさせられます。・・・本多牧師はヨーロッパでも十字軍の時代があり平気で戦争を起こす人々が聖書の名のもとにこうした戦争を推進した時代もあり、日本でも太平洋戦争時代のクリスチャンが政府に先導されて戦争に積極的にかかわっていった時代があることを指摘しておられました。真の聖書の愛がいかなるものかは、マタイの福音書26章52節「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」から、戦争や争いがイエス様の御心でないことを語られておられました。・・この例として、@ナイチンゲールさん(敵味方なく介護する活動)Aマザーテレサさん(死にゆく貧しい人をサポートする)を示されておられました。
(7)ウクライナ戦争では、本多牧師は昔ロシアに旅行をした時にロシアのクリスチャンと暖かい交わりがあったことをお話されましたが、そうしたロシアの友人達には恐らく情報統制などにより、昔の日本のように一部しか情報が伝わらず、政府により統制されているのではないかとお話されておりました。難しい問題ですね。出来るだけ速やかに戦争が止んで、真実な愛をもっていつの日か互いに愛し合える日が来ることを祈りましょう。
3.祈祷タイム
(1)月曜日に本多牧師が歌子姉妹のお宅を訪問してくださいました。94歳になられていると思います。末永くイエス様の守りと祝福が与えられますようにお祈りいたしましょう。
(2)西山兄のご健康が支えられますように。
(3)菅沼兄の目が癒されますように。
(4)安先生のデアスポラ活動が守られ祝福されますように、
(5)その他を祈りました。
M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 4月6日  ヤコブの手紙2章1〜13節「教会内の差別」

2名参加のZOOM祈祷会でした。
本多牧師が引っ越しの為、忙しくて祈祷会がしばらく開けませんでしたが、久しぶりの祈祷会となりました。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・最近地震があり、新しいアポ―トに揺れがあったので、身を起こした時にいつもと違う方向に家具がセットされていたため、肩にぶつかってしまい、病院で打撲傷という事でした。・・本多牧師は何かあった時の為、近くに電話を置いておかれるそうです。これは教会員の方に何かあった時でも対応できるためですが、さすがですね。
(2)詩篇126篇4節「主よネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。」より、北海道にあるグレースコミュニティチャーチの益田良一牧師が昔アメリカ研修旅行中に一人一人で祈りの時を持つ様に言われて、祈っていた時に与えられた御言葉だそうです。当時は70人くらいの教会でしたが、現在は400名くらいの信徒の方がおられるそうです。この教会では家族を大切にと言う事とセルグループが活発に活動されておられるそうです。セルグループでのお話会で礼拝のお分かち合いもあるので、皆さん礼拝時にメモを取る等礼拝に集中して、眠る人はおられないそうです。すごいですね。また礼拝前に相互に挨拶をすることは、老若男女どなたも差別なく挨拶をすることを心掛けており、麻溝台キリスト教会もまた差別のない教会を目指していると言う事でした。この教会には10人くらいのセルが40以上あるようです。・・・麻溝台キリスト教会も現在は少人数ですが、将来のリバイバルを祈りましょうという事でした。
(3)小澤・・私が以前通わせていただいていた大和カルバリーチャペルでは、その昔、座間市に信徒の人が一人しかおられない貸家の教会であったことをお聞きしたことがあります。ホーリネス教団でしたので教団としてもこの教会は閉じようかと検討していたこともあるそうです。しかしアメリカから大川牧師がお戻りになり座間教会に着々とリバイバルが起こり始めて、現在は1000人を越える教会にまで成長することが出来ました。教会が大きくなることにより色々な問題も生じましたが、バランスの良い教会として今後も発展してゆくことを祈ります。・・麻溝台キリスト教会も優れた信仰と希望と愛をイエス様から与えられている兄弟姉妹が多数おられます。本多牧師が言われるように御言葉に従い、神の愛に満たされた教会として祈りと賛美の中で成長するビジョンをいつもイエス様から頂きつつ進んでまいりましょう。
2.聖書学習タイム
(1)ヤコブ書のこの個所では教会内でも差別が現実的に横行していたことが書かれていますが、牧師はこの事は他の教会でも色々な形で見られていた問題であることが新約聖書全体でも見られるそうです。・・いつの時代でも教会が解決しなければならない問題は生じるものと思いますし、そうした中でご聖霊様の導きにより教会員一人一人が真実に成長して、神の愛の教会へと一歩一歩進んで行くものと思われます。本多牧師は麻溝台キリスト教会でも信徒の方や求道者の方々が一人でも差別されない、愛の教会を目指してまいりたいとお話されておりました。
(2)ヤコブの手紙2章1節では「私の兄弟たち・・・」と呼びかけるところから始まりますが、本多牧師はこの個所が重要であり、救いにあずかる私達一人一人が兄弟姉妹であることを忘れないようにしましょうという事でした。
(3)フランシスシェーファー牧師(スイス・ラブリーの創設者)は昔学生が訪ねてきた時にその学生に対する挨拶が親切であり学生が驚いたという話があるそうです。その学生は求道者でしたがアウトサイダー的な生き方をしてきた方だったようですのでどの教会でも敬遠されていたようです。シェーファ―先生は人は誰でも神の形にデザインされており、尊い心の在り方を本来持っているのであり、その人の後ろにはイエス様がおられることを語られておられたそうです。アーメンですね。・・似たようなことはアメリカのチャックスミス牧師もまた、昔の教会にヒッピーが来た時に長老たちが絨毯が汚れると嫌ったにもかかわらず、絨毯と人とどちらが大切かと強く指摘してその方々を快く受け入れたというお話があります。アメリカのカルバリチャペルとして成長して、こうしたヒッピーの方々がやがて献身して牧師として全米の教会造りをしておられます。
(4)新島譲牧師は昔、目の不自由な方が部屋に入って来た時に、失礼しましたと言って背広を着直したというお話があるそうです。人は外を見ますが神は内を見ますという事がありますが、服装を見て差別しないことが大切であるという事の延長ですね。
(5)アメリカでは東部(背広)・中部(緩やかな服装)・西部(ラフスタイル)というような傾向が一般的に礼拝でもあるそうです。面白いですね。
(6)本多牧師はピりピ人への手紙2章3節「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」から牧会者としての御自身の考えを語られておられました。
(7)小澤は服装で差別する教会がどういうものかは不明でしたが、ハワイ等はアロハシャツで出席されているようですとお話しましたら、本多牧師はアロハシャツはハワイの正装ですという事でした、また沖縄などは半そでの「かりゆし」というものがありこれが正装だそうです。なるほど所変われば品変わるですね。勉強になりました(笑)。・・・昔私がお寄りしたことのある恐らく身体障碍を持つ三橋牧師の札幌キリスト福音館では皆さん背広でしたね。ウーム!
(8)福音書のヨハネさんが若いころボアネルゲと呼ばれ、誰が一番偉いかというお話をイエス様にしていたことを思い出しました。このような若い無鉄砲な者が何と90歳を過ぎたころには愛の使徒として全く変わっていることが福音書を読むと良く分かります。本多牧師は人は変わらないと言う人がいるが、私は変わることが出来ると思っているという事でした。福音書を読み、自分自身の体験から真にそのことを思います。これこそキリスト様の御業ですね。アーメンです。本多牧師の大切にしておられる弟子訓練の意味もここにあるものと思われます。
3.祈祷タイム(主な祈り)
(1)安先生の韓国でのディアスポラ活動については本多牧師も経験されておられるそうで、この働きは並大抵ではないという事でした。安先生がどのようなご苦労にも負けないで、この尊いご奉仕を全うできます様に、お祈りしましょうという事でお祈りいたしました。
(2)結愛ちゃんが礼拝賛美の後で受洗したいと言ってこられたそうです。天地がひっくり返る様な恵みですね。本多牧師の日頃の祈りをこうしてイエス様がお聞き下さっておられなとつくづく感謝申し上げました。毎週の牧師先生との聖書の学びが更に継続的に祝福されます様に。多摩川聖書学園中等部での入学式代表スピーチも最善がなされたそうです。イエス様に感謝申し上げます。
(3)西山兄がお忙しいので祈りました。サンレモが祝福されます様に。
(4)高橋兄の信仰と希望と愛の成長の為、また教会内でも神の家族として楽しく共に進んで行くことが出来ます様に。
(5)娘さんがアメリカの有名なチャーチの信徒である小原姉妹親子が麻溝台キリスト教会の礼拝に参加出来ましたことを感謝申し上げました。皆さんがいつもお祈りしている祈りがこうしてイエス様に聞き届けられて今後も信徒の方や求道者の方々が集められて、リバイバルが与えられます様に祈りました。

M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 2022年  3月  
 3月16日  ヤコブの手紙1章19〜27節「自分を欺いてはならない」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
 安先生最後の参加祈祷会となりました。
23日(水)は午前11時30分から本多牧師が安先生ファミリーを成田空港への途中まで送り届けられます。往復4時間くらいかかる行程ですので、この日は祈祷会はお休みにしましょうという事になりました。本多牧師がお疲れになり倒れらたら大変ですのでお祈りしました。また安全運転についてもお祈りいたしました。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記最終章になりました。初めの頃はモーゼの従者と呼ばれていたヨシュアが晩年に主の僕と呼ばれていることに注目されて、きちんと使命を果たして人生を進むという在り方を学ぶ事が出来たそうです。本多牧師も主にあって伝えるべきことを伝えながら、走るべき行程を走り抜きながら歩んで行きたいと話されておりました。
(2)小澤はこの個所から自分の使命を自覚して、そのことを全うして行こうとするヨシアさんは後のイエス様のお教えくださった、永遠の命の問題を深く理解していたのではないかと思われました。信仰の本質ですね。すごいことですね。
2.聖書学習タイム
(1)弟子訓練により本多牧師がそれまでの信仰生活全体がガラッと180度転換されたことをお証し下さいました。大変勉強になりました。北海道では初めて赴任した時は北海道で一番怖いと恐れられたいた牧師からも更に恐ろしい怖い牧師が来たと言われていたそうです。礼拝では自分のことは語らないという事が鉄則とされている教会牧師の考えを持つ所もあるそうですが、弟子訓練後に本多牧師は自由に自分の失敗談を語ることが出来るようになられたという事です。自分の弱さや弱点を語ることが自由に出来ること、御自身がイエス様に赦されていることを実践をもってお証し出来る様な成人状態、信仰と希望と愛の人に変えられて行ったことをお証しされておられました。本多牧師が参加された弟子訓練では、ご自身がどれくらい変わったかをお証する時があったそうですが、同席した牧師が本多牧師がこう変わった、ああ変わったと強くお話して下さったそうです。(笑)
(2)ヤコブの手紙1章19節には「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」とありますがこれも聞くだけでなく実行する事の大切さを示しているという事でした。モーセさんが荒野で岩に水を出すように主に語れたにもかかわらず、彼は不平を言う民を自分勝手に怒り、杖で岩を叩いたという事がありますが、これは牧師の陥りがちなところであることをお話されていました。・・・イスラエルの格言には「耳は2つあるが、口は一つである」という事があるそうです。御言葉に聴くことが第一に大切であるという事です。人に対する怒りは全て捨て去ること、これは魂を救い、罪の誘惑から勝利出来ます。
(3)コリント人への手紙第U3章6節「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」・・同17節「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」・・・本多牧師は御霊が私達に真実の自由を与えて下さることをお話下さいました。
(4)更に、ヨハネの福音書8章31・32節「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」・・・本多牧師が紹介されたこの御言葉は昔私が職場でクリスチャンとして生きて行く中で、自分に失敗もありましたが世の中の価値観との対決の中で力強く私に示されて、私を心底から助け励まし、力を与えて下さった御言葉です。全てご聖霊様の御業であった事を今でも鮮明に覚えております。ご聖霊様のお助けに心から感謝申し上げます。
(5)本多牧師は、最も身近な人への御言葉の実践として、今までは奥様がおられて、単なる義務で奥様をサポートするのではなく、認知障害を抱える奥様をお風呂に入れて差し上げたり、日常のお世話をするときにも、愛をもってサポートが出来ているかという事をご自身で実践的に実行されて来たことをお証下さいました。すごいですね。また、御言葉はただ聞くだけでなく最も身近な家族への挨拶から始まるような形で進む事が大切であると言われておりました。すごいですねアーメンですね。・・・牧師の中には昔風の家庭環境の延長で朝、奥様に「おはよう」の挨拶をしない牧師もおられたそうですが、弟子訓練の実践において挨拶から家族を愛するという事を学び人間関係が変わって行くという事があるそうです。家族との小さな何気ない言葉のやり取りにもイエス様の御言葉に示された通りに愛の実践を継続的に積み重ねることが大切であることを語られておられました。
(6)昔から礼拝の翌日にご自身で礼拝内容の文面を確認して新たな礼拝の気持ちで御言葉を再び学ぶように心掛けてこられたそうです。本多牧師が御言葉の牧師として今日ある理由が分かったようにつくづく教えられました。・・・最近ではビデオ礼拝ですので猶更牧師は真剣に自分のイエス様から与えられた御言葉を月曜日に聴き直すという事をされています。全く大切な事であると思います。礼拝で聞いただけで後はさっぱり忘れる人が意外と多いと思いますが、聖書を通して人格が整えられ御言葉により真実に育てられるためには本多牧師の様に何度も繰り返して御言葉と取り組む事が大切であることは、祈祷会の今回のように小澤の場合は、祈祷会報告書をコツコツと何回かまとめることにより自分自身がただ単に聴くだけの人ではなく、イエス様が何を私に語りかけて下さったか、今週はどのように生きて行くべきかを再度詳しく教えられる恵みに与る事が出来ることを実体験させていただいておりますので本多牧師の言われることがとても良く分かる気がいたしました。恵まれました。
(7)実結ちゃん達の学びの時もこうして毎週行われ、コツコツと実践されてゆくことが結実して、一人一人の信仰と希望と愛の成長に欠かすことのできない素晴らし時となっていることを思います。
(8)本多牧師も78歳になれるそうです。健康が支えられて末永く無理なく楽しく牧会が継続されますようにお祈りがとても大切であることを何か深く教えられました。
今回も本来なら今までご奉仕してくださった安先生の韓国帰国のお手伝いに教会員が一人でも二人でもお手伝いに来てくださることは本当は素晴らしい恵みの時となると思いますし、お世話になった安先生ファミリーに申し訳ない思いが深いですが、人数が少ない教会の中で、更にコロナ禍の中ではこうした状態になるのであろうかと思います。…本多牧師が安先生に大変申し訳なく思ってお詫びされておられました。アーメンですね。安先生ファミリーが韓国で豊かにイエス様に用いられることと、コロナ禍からも守られ続けることが出来ます様にお祈りいたしました。
(9)礼拝でメッセージを聞くという事の信徒の姿勢について、学びました。それは単に御言葉を右から左へと聞き流すのではなく、神の前に出て直接聞くという姿勢で臨む事がとても大切であることを語られました。アーメンですね。単純な御言葉の中に深い真理が隠されており、その真理の深さ広さ高さに気づくには真に、直接イエス様と対面している気持ちで礼拝メッセージをお聞きする事が大切であるという事です。第一サムエル記1章で子供のサムエルさんが初めて直接御言葉を神様からお聞きした時、「僕ここにおります。主よお語りください。」と語れたことが有名ですが、正にこの姿勢で礼拝に臨む事が信徒の重要な心掛けであることを本多牧師は語られておられました。アーメンですね。
3.祈祷タイム(主な祈り)
(1)結愛ちゃんの多摩川聖書学院中等部での入学式スピーチが最善になされます様に。
(2)西山兄がお忙しいので聖書学習が守られます様に。
(3)ウクライナ戦争が出来るだけ早く平和に導かれます様に。
(4)安先生の韓国帰国が無事に進みます様に。

M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 3月9日  ヤコブの手紙1章12〜18節「試練に耐える人は幸いです。」

4名参加のZOOM祈祷会でした(岡田兄が参加出来ました)。
岡田兄は息子さんのお子さん(中学生)がコロナにかかり、次にお嫁さんがコロナに感染しました。現在は他のお孫さん(3人)が今後感染しないようにお祈りしました(小学生はワクチン接種をしていないので、他の信徒の方々の御家族も守られるようにお祈りいたしましょう)。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・結愛ちゃんが中学入学式でのスピーチをご依頼されているので、この為に祈りましょう。
(2)ヨシュア記22章は?ベン族とガド族がヨルダン川の近くに祭壇を築いたことにより、イスラエルと戦争となりそうになりますが、イスラエルが代表を送り、事情を聴くことが出来たので、このことが不信仰から来たものではないことを知り、神の御名を褒めたたえた記録です。・・教会内でも牧師と信徒・信徒と信徒の間でもお互いに良きコミュニケーションが取れて、励まし合い協力し合う関係を目指してまいりましょうという事でした。
(3)引っ越しの為アパートで業者さんとお話をする機会があり、救いのお証を2分間で行うことが出来たそうです。キリスト様と共に生きるという事は自ずからご聖霊様により良きお証が自然に導かれるものと思います。祈り続けてまいりましょう。
(4)この地区にもう一つ麻溝台キリスト教会という同名の教会があるようで、その教会が若松地区に土地を捜しているらしいお話を不動産屋さんがお話されていたそうです。教会が皆祝福されます様に。
(5)小澤は最近庭にジュウビタキ(小鳥)が訪れており、毎年このこの時期には来てくれて美しい姿を見ることが出来ます。住居が調整区域(畑)の只中にあるので、こうした不思議な恵みを与えられています。丹沢山の美しい姿や自然の美しさに深い神様の恵みをいつも覚えて感謝しております。日々の人間関係を離れて大自然の中で賛美と祈りの時を持つ事が出来ることは本当に感謝なことだと思います。「空の鳥を見なさい。」(マタイの福音書6章26節)と言われるイエス様と共に歩める幸せを思います。
(6)岡田兄・・ヨシュア記のデボーションで、イスラエルが異邦の民と交わってはならないという教えがあり、日常生活やお仕事の中でもクリスチャンとしてアイデンティティを大切にすることを学ばれているそうです。住まわれているマンションで住民の協議会があり、地域のお祭りに参加するかどうかという時に反対意見を語られたそうです。マンションの仲間の方々からは誤解されることもあるかも知れませんが、信仰世界を大切にされる岡田兄の心意気を思って感謝申し上げました(分かって下さる方はきっと分かって下さるのではないでしょうか)。
(7)本多牧師は駐車場をお借りしている杉山自動車さんがお祭りのリーダーとなったそうですので、今後どのような局面が生じないとも限らないという事ですので、皆さん祈ってまいりましょう。
(8)安先生・・「主のくびき」のお話がメッセージにありましたが、黙想しながら自分の行きたい所へ行こうとするとかえって大変な困難に直面したり、乗り越えなければならない問題山積みとなることおまりますが、神様の導きに従って行く時にこそ一番楽な方法であり最善の道であることを経験されておられるということでした。
2聖書学習タイム
(1)本多牧師・・誘惑にあった人々としてはサムソン・エバ・ユダ・サウル・ダビデ・アカン等の名があげられました。個人的には本多牧師は自ら献身者の道を選んだ時に、父母の方から反対がありましたが、力ずくで反対された時は、ご自身も力ずくで抵抗しますので問題はなかったのですが、お父様が病になり弱ったときに本多牧師は自分のせいではないかという思いに強く打たれて、献身を止めようと一時決心します。その時はとても平安が訪れましたが、後々この平安はサタンからのものであった事が明確になります。サタンも一時的に心の平安に似た偽物を用いることがあるので注意しましょうという事でありました。結果的に何が起こったのでしょうか。本多牧師が献身を捨てたその日の内に急に今まで自然に上れていた階段が上れなくなり、手すりを伝ってやっと上れるという状態になりました。またお仕事に行っても平安が無く、どうしょうもなくなり帰りに教会の牧師先生にお祈りをお願いするために教会へ向かいましたが、長老の家が教会のすぐ近くにあり、長老にもお祈りをしていただいたそうです。そのため初めてイエス様が深いご意志により本多牧師を献身へとお導き下さっておられることが分かり、今日までお導き続けて下さったという事であります。不思議なイエス様の深いお助けですね。
(2)小澤の場合は、ある出来事を通しして聖書の中ではなしてはならないという律法に明確に違反する行為をしなければならないのではないかという立場に追い込まれたことがあります。祈りに祈り、私に与えられている当時の信仰と愛の両天秤のような不安定な中で、何が正しいのか明確ではなく、人間的に慈愛の心を大切にすれば律法を犯しても進まなければならないのではないかというぎりぎりの所まで追い込まれ、自分でも判断しかねて、お祈りを捧げつつこの道へ進む事をお許しくださいという状態の中で、イエス様にお話しつつ、その道へ踏み出そうとしたしたその時に、なんと全ての環境がガラッと変わりました。真に状況一変であり私がその誤った道へ進まなくても済むようになったのです。全くびっくりしました。その時に私はイエス様は律法を排する為に来たのではなく、律法を成就する為に来たのであるという御言葉の深い深い意味を体験をもって学ばせていただいたのであります。人はこの世では神が良しとされる範囲で、色々な試練に会いますが、神は決してどの様な場合にも律法に反する生き方をするようなことを導かれることはないという事を強く、強く心の奥底からがっちりと教えていただきました。真に深いイエス様の教えあり、心から感謝申し上げました。・・色々な試みに会われている方々もおられると思いますが、祈ってみて下さい。必ずイエス様が不思議な豊かな真実なお助けを与えて下さると思います。感謝であります。
(3)安先生はアンジュちゃんの育て方についてお証されました。アンジュちゃんと安先生とどちらが自分の感情をコントロールできるでしょうか。勿論安先生です。子供を育てるのは親であ、親が自分の感情をコントロールすることの大切さを学ばれたそうです。すごいですね。・・どのようにしたら試練や誘惑に勝てるかについては、一人で思い煩うのではなく身近に相談できる人がいることが大切であると言われておられました。安先生にはへヨン先生がついておられていつも信仰の分かち合いやとりなしの祈りをして頂いておられるという事でした。素晴らしいことですね。教会の信徒の方々のご家庭も皆救われてこのようになると良いですね。感謝いたします。
(4)岡田兄は実務においてどこまで一つ一つの良し悪しを決定するかについて、色々なケースがあり問われることがあるという事でした。実務をこなされている兄弟姉妹はいつもこの問題は付きまとうと思いますが、祈りつつコツコツと進んで行く以外にないと思われるケースではないかと思われました。
(5)岡田兄は基本的には御言葉に照らして生きてゆくこと、聖書を基準として生きて行くことが大切であると思うと話されました。
(6)本多牧師・・信徒にとっては@聖書を土台とする(御言葉)Aとりなしの祈りBご聖霊様による確かなお助けを生活全体を通して経験させていただくことが大切であるとお話されておりました。
(7)試練と誘惑は聖書の原語では同じ言葉が使われているそうです。どちらを選ぶかは紙一重の差かもしれませんが、試練は最終的に神への道であり、誘惑は罪への道であると言う事も出来るのではないでしょうか。また神御自身は決して誘惑をされるお方ではないという事は明記すべきであり、誘惑はサタンから来ることをしっかり心に理解しておきましょう。
(8)小澤は生まれたときから心身に障害のある子供達は神を呪う事もあるかもしれませんという事をお話ししました。この問題は色々な解釈が議論されましたが、次のようなことが示されていました。
@障害のある子を産んだ親たちは障害を持った子供を育てることが出来たことに、人生の喜びを見出している方もおられる事。札幌南キリスト教会の船渡川牧師のご家庭は養子として障害児を喜んでお育てされておられます。すごいですね。
A障害児の存在が無ければ人は自分で高慢になり、真理を見出す事は不可能ではないかということ。人間の弱さ、小ささを学ぶ事が初めて障害者の存在により理解できる面がある事も真実であると思います。
B安先生は教会でも障害のある方が加わると、とても教会全体が明るく活発になることをお証されておりました。本等ですね、感謝ですね。
C岡田兄はこの問題には他者から見た障害と、自らが障害児であることの両面があり、一律に判断は出来ないと思うと語られておられました。御自身の御家族の中でも障害を被って生まれてきておられる方は、ご家族は全て感謝して対応できますが、障害を負っている御自身は人生の意味について難しい判断を必要としており、良き信仰と希望と愛が与えられないと難しい問題となることがあり、祈りの必要がとても深く感じられました。難しい問題でありますが、いのり続けましょう。
D小澤としては御国においては最早障害者と健常者の区別もなく全て癒されて、貧富の差もなくイエス様の元に義と平和と聖霊様の喜びに溢れるものと信じております。・・感謝申し上げます。
3.祈祷タイム
(1)美佐田兄が大阪出張中です。守りと祝福を祈りましょう。
(2)西山兄が高血圧です。お仕事が守られ、健康が守られます様に。サンレモが祝福されますように。
(3)ミカ姉妹がお疲れの様子です。健康もお仕事も守られます様に。
(4)麻溝台キリスト教会に継続的リバイバルが与えられるために必要な人材が与えられます様に。
(5)安先生の韓国での宣教活動が豊かに祝福されます様に。コロナからも御家族が守られます様に。
(6)本多牧師の来週のメッセージが豊かに祝福され、教会がご聖霊様のご臨在に満たされた礼拝となります様にお祈りいたしました。

M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行の新改訳聖書です。) 
 
 3月2日  ヤコブの手紙1章9〜11節・5章1〜6節

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記20章で「逃れの町」の設営がされたことから、判断を誤って人を傷つけてしまった人を逃れの町で守りますが、自分自身がはたして色々な状況で加害者となった人を赦し守ることが出来る「逃れの町」になることができるだろうかというお話をされました。
(2)小澤の場合は人々とのトラブルや誤解から偏見を受けることも昔ありましたが、エペソ人への手紙6章12節「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者達、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と言いう御言葉が与えられて、私たちクリスチャンの戦いは正にこの世の未だキリスト様を知らない方々との闘いではなく(彼らは真理を知りません)、天上の悪の霊との闘いであることを深く経験させていただいたことがあります。自分自身も間違った道へ進まないようにいつも注意しながら(自分自身の判断がいかに不十分かを常に反省させていただきながらイエス様のお許しをいただきつつ)進む様にしております。
(3)安先生・・ヨハネの福音書5章14節「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」より、クリスチャンは救われた後も戦いがあります。罪を犯してしまう事があるのでよくよく注意して歩む必要を語られておられました。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・当時の教会にも金持ちの人がおられた様子です。色々なトラブルもあったのかも知れません。
(2)身分の低い人とはヤコブの手紙2章以降にも具体的に示されていますが、@貧しい人Aみすぼらしい着物B毎日の食べ物にも事欠いている人C病気の人・・・こうした人を差別なく受け入れることが大切です。
(3)教会によっては洗剤が不足していたら牧師夫人のせいであると言い、トイレットペーパーがなくなれば同じく夫人のせいであるというような何でもかでも奥様のせいにするようなところもあるそうです。弟子訓練により、自分の責任を自覚するように信徒の方々成長することにより、一人一人が赦し合う事、支え合う事が出来る様な教会になることが教会の使命であると語られておられました。
(4)高い身分とは@「神」の家族とされている事・・これ以上に高い身分はありません。ヤコブ書2章5節「良く聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
(5)小澤・・「キリスト様の内住」これ以上の富は何も無いでしょう。生きても死んでもキリスト様が内住してくださっておられる平安に比較できるものは無いと思います。感謝です。・・イエス様が金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロをアブラハムの横に座らせておられる話をしている個所がありますが、この世では恵まれない不遇の中にある方々、病、苦しみのなかにある人々にこそ常に目を向けておられて、この世では誰に知られることもない人々を御国では何の条件も無しに(無条件に)豊かに生かして下さるのであろうという事を常日頃からイエス様の御言葉により学ばせていただいております。驚くべきは神の恵みの世界です。
(6)安先生・・麻溝台キリスト教会の現状を見ると、富む人はいないかもしれませんが礼拝がキチンとしていること、献金もキチンと捧げられていることなど祝福されていますが、弟子訓練が今コロナ禍の時代の中で滞っていることが課題でしょうと言われておりました。
(7)本多牧師は麻溝台キリスト教会は今がどん底であると思いますという事で、こうした時こそ信徒一人一人が切に祈り求めることのできる時であり、神様の恵みによりイエス様が豊かに奇跡を起こしてくださるチャンスでもある事を語らておられました。教会員全員が一斉に祈り始めたら何かが起こります。祈りましょう。
(8)・・・コリント人への手紙第2 6章10節「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ。何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」がクリスチャンライフであることをお証しされておられました。
3.祈祷タイム
(1)ヨランダ姉妹が今週は旅行のお土産を教会へお持ち下さいました。また姉妹の妹さんがコロナにかかり重症であることを伺い、兄弟姉妹で礼拝後に本多牧師と共に心を合わせて祈りました。ヨランダ姉妹がインドネシアから来られた正に神の家族であることを教会の兄弟姉妹方と共に感謝の時が持てました。・・その翌日にはへヨン先生へヨランダ姉妹からご連絡があり、妹さんが回復へと向かい始めているということであったそうです。イエス様の御業は驚くべきものがあります。賛美いたします。
(2)本多牧師の娘さんの薫姉妹がコロナの陽性となられたそうです。引っ越しのお手伝いもできないというご連絡でした。祈りましょう。
(3)結愛ちゃんの聖書の学びが明日もありますので祈りましょう。
(4)今後の教会の働きを補える方が教会へ導かれます様に。
(5)祈祷会へ参加出来る方が与えられます様に。
(6)西山兄が高血圧だそうです。お仕事がお忙しいと思いますが、心身共の休憩もとれます様に。サンレモの祝福の為に。
(7)公園で遊んでいた日曜学校の下村さんが教会で遊んではだめですかと言ったそうです。ご近所にご迷惑をおかけしないように工夫する必要がありますが、日曜学校の祝福をお祈りしました。

 M.O
 (聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 2022年  2月  
2月23日   ヤコブの手紙1章9〜11節・5章1〜6節

3名参加のZOOM祈祷会でした。
安先生がへヨン先生の具合が悪く、アンジュちゃんをお風呂に入れなければならずPM8時30分からの参加と成りました。
へヨン先生は日本語が話せるようになりましたが、外出が殆ど出来ずにコロナ禍でアンジュちゃんのお世話で大変です。友人知人がお近くにおられれば良いのですが、孤独になりがちですので安先生がしっかりとサポートして差し上げる必要があると思います。祈りましょう。
1.賛美・・・今日の賛美は465番「キリストにはかえられません」でした。
この賛美は私も昔から好きな賛美で良く歌わせていただいておりますが、本多牧師はベブレーシェーさんの作曲で、リバイバリストのムーディーさんの音楽担当者によるものであることを解説してくださいました。・・彼のお母さんのメモに「キリストにはかえられません、世の何物も」と書かれてあったことから、この歌がつくられたそうで、本多牧師が知人から当時のベブレーシェーさんご自身が独特の感動的な声でこの歌詞を賛美している録音テープをお聞きになられたことがあるそうです。・・家族代々継承されてきた信仰の深い世界を思わせられて感動します。
2.特別プログラム
今日は安先生が上記の様な状態でしたが、本多牧師が北海道札幌南キリスト教会で活躍されていたころに北海道初期の頃からの宣教師達の働きの歴史解説の原稿を元にビデオ映像が作成されて、それを北海道で開催された第5回日本伝道会(5000人くらい参加)の集会で発表されたもの(約30分くらい)を視聴させていただきました。
江戸時代に迫害を逃れてキリシタンが15名ほど北海道に渡り苦難の中の生活を強いられた様子や、その後150人くらいが千軒岳の金山で働いていた様子や、そうした中、神父達2人が帰国命令も断り、北海道に逃れた信徒の為にその地で礼拝を捧げる様子や、やがて幕府の命令によりこうした宣教師も捉えられて氷の川に漬けられて殉教され色々な苦難の時代があり、その後イギリス聖公会からヴァチラー牧師がアイヌの人々に福音をお伝えしたり、複数の宣教師の並々ならぬご苦労の中で宣教活動が繰り広げられていった様子が分かります。また北大のクラーク博士によるボーイズビアンビシャスの言葉や札幌バンドの人々(内村鑑三・新渡戸稲造さん等)の活動などもあり、現代へと繋がって行く過程が大変良く分かります。北海道全土に渡りこした網の目の様にコツコツと宣教師の方々のご苦労により教会が次々と建てられて行った様子がわかります。
本多牧師のお話では、こうしたことの背景には各宣教師の派遣元の国々の方々の熱心な祈りが積み重ねられてこうしたことが起こったのであろうという事でした。
このvideoは札幌南教会の天野姉妹が朗読されており、天野姉妹は元々日本放送のアナウンサーであったそうです(北海道福音放送の進行係もされておられました)。天野姉妹は麻溝台キリスト教会へ来られた時にお会いしましたが、このような働きをされておられたことは知りませんでした。癌で召される寸前までご本人のご希望により教会の2階で御家族や信徒の方々のお世話になりながら過ごされていたことを思う時、なんとも心に涙がじんとくるvideoでありました。天野姉妹の様に福音の為に身を粉にして活動してくださった姉妹が日本にもおられることはともてイエス様の深い御愛を覚えます。私などは及びもしませんが少しでも近く歩ませていたいただきたいとつくづく思わされます。
本多牧師・・北海道では、宣教を支えた多くの国々の方のお祈りが積み重ねられていたに違いないですが、相模原の地では神の言葉がなかなか伝わらない壁がある様に思われます。しかし地域には大学や工場や人々が多く集まる環境があり、なんとしてもリバイバルを起こしていただき、どうしても一人でも多くの方がの救いがこの地でも起こって欲しいし、そのための責任が私たち麻溝台キリスト教会の一人一人にあると思います。黙っていてはならない、黙っていれば石が語りだすと言われておられました。
小澤・・昔岩手県に旅をした時に後藤寿庵(伊達政宗に仕えたキリシタン武士で水沢の福原に1200石を領していた)記念碑に出会い、彼が当時人々の為に水路を開いたり開拓をされていたことなどを知りましたが、やがてキリシタン迫害に会い、家族と共に非難するという時代があったことを知りましたが、同じようなことが北海道で起こっていたことが良く分かりました。
日本の宣教の歴史を深く考えさせて頂きました。
現在デボーションでは使徒の働き21章を読んでおり、パウロさんが周りの人々からエルサレムに行くと縛られて危険な目に合うという事を何度も予言され、御自身でも分かっていてなおエルサレムへと向かうその心には、実は今までずーと長く異邦人伝道をしてきたパウロさんにとって、やはり同国人の人々は自分の兄弟あるいは父と呼んでいる事も聖書で分かり、つくづく同国人を愛して迫害を恐れないで前進して行くパウロさんの気持ちを思い深く考えさせられたのですが、本多牧師はローマ人への手紙9章2〜3節「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」の御言葉から、パウロさんの思いを解説してくださいましたが、パウロさんは単にエルサレムでイエス様を証する事だけが目的ではなく、そこには深い神様の御計画があり、やがて最終目的地のローマへ行くことは当時としても大変なことでしょうが、エルサレムで投獄され監視に付き添われ護衛されてまでローマへ行き、2年以上にわたり福音をしっかりと宣べ伝えたことが使徒行伝で分かります。神様のなされることはあまりも深くて人間の知恵では計り知れません。
本多牧師の奥様の順子先生は昔、この使徒行伝の最終章(28章)がパウロさんが人々にお話をしている様子が書かれているのみで終わっており、何か中途半端な終わり方をしていることをご指摘されていたそうですが、本多牧師は使徒行伝(聖霊行伝)の続きは29章として現在の私達が負っている御奉仕であり、神の業の継続であると言われておりました。アーメンですね。
安先生・・途中から安先生が祈祷会へ加わり次の様にお話して下さいました。今は韓国での伝道へ導かれておりますが、ご自身は韓国であれ、日本であれ、その他の国であれ、御言葉が与えられれば家族でその国へ行きキリスト様の為に働きたいと言われておられました。御自身の意志ではなく御言葉により歩まれて行く事をお証されておられました。真に感謝ですね。
3.祈祷タイム
(1)明日の本多牧師の新しいアパート契約が順調に進みます様に
(2)明日からの結愛ちゃんの聖書の学びの為の若者向けの弟子訓練の良いテキストが手に入ったため、それを用いて学び会がLineで行われるそうです。祝福されます様に。
(3)コロナ禍で礼拝出席が出来ていない方々の信仰が守られます様に
(4)安先生の20日礼拝メッセージが安先生が麻溝台キリスト教会での最後のメッセージとなります。この時が豊かにイエス様により祝福されます様に。
(5)信徒の方々の御家族の救いの為
(6)日曜学校の子供達が最近も3人前後続けて教会へ来ております。子供達が一人でも多く教会での礼拝に出席できます様に。
(7)教会で結婚式が挙げられて、神の家族が増えますように。この事が教会の祝福に繋がると思うという事を本多牧師は語られておられました。
(8)安先生や美佐田兄が3月以降順次教会を離れますが、教会の祝福の為に必要な人材を教会へ5人上お送り下さいます様に。イエス様の御業に期待してまいりましょう。

 M.O
 (聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
2月16日   ヤコブの手紙1章1〜8節「主にある忍耐」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1近況報告タイム
(1)本多牧師・・デボーションにおいてヨシュア記より忍耐を学んでおります。牧師室に掲げられている文書にいつも本多牧師のお祈りされている内容が書かれており、安先生がそれをお読みになられたそうです。@人を起こしてください。A人を与えて下さい。B人を育てさせてください。等全てについて主の栄光が現わされます様に・・の文面です。
(2)麻溝台キリスト教会は人数的には高齢者や教会を離れた方々、コロナ禍により礼拝をお休みになられておられる方々等がおられて、現在は人数的にもかなり少なくなっています。ここで更にお仕事が忙しくて礼拝出席が困難の方々や、出張の為に長期間留守にされる兄弟姉妹がおられます。こうした状態の中で本多牧師の理想とする教会形成の姿にいつになってもならないもどかしさが本多牧師の内にあるという事でありました。しかしそうした中、ヨシュア記から忍耐の大切さを更に学ばれておられるという事でありました。希望をもって祈り続けてまいりましょうという事でありました。
(3)ヤコブの手紙1章3〜4節「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
(4)小澤の書斎にはダニエルさんがライオンの檻に入れられた絵が掲げてあります。その絵には「汝我が前を歩みて全きあれ」と書かれています。キリスト様が私たちを全き者とさせて下さるために多くの所を通過させて下さっておられるのですね。
(5)中国伝道のお話を最近何かの本で読みました。宣教師が山奥へ伝道に行き、7年間伝道しましたが誰一人救われませんでした。嘆きの中にあった時8年目になんと、どの村へ行っても「救われるためにどうしたらよいのでしょうか」と聞く人々で溢れたそうです。・・まったく神様の為されることは人知を遥かに越えておられるので、諦めずに祈り続けたいとつくづく思わされました。
(6)また、小澤は最近教会ホームページに掲載するvideoファイルの設置法についてホームぺージビルダーソフト会社(ジャストシステム)さんへ問い合わせて解答をいただき、結果的に動画ファイルをYouTubeに掲載して、その後そのファイルを再びダウンロードして所定のホームぺージの位置に掲載するという2段階の方法が一般的であることが分かり、ご報告いたしました。礼拝ビデオをYouTubeに掲載してよいかどうかは執事会でご確認が必要ですので、本多牧師にお願いいたしました。
(7)安先生はルカによる福音書18章16節により「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」」・・・最近も自治会広場の付近で子供達が遊んでいる姿を見かけました。前にも2〜3回子供達に声を掛けたことがあるそうです。収穫の実が近くにあることを感謝されておられました。
(8)聖書神学舎の聖徒で50代の姉妹がもしかすると麻溝台キリスト教会へご奉仕に来てくださるかもしれないそうです。他にも奉仕者を必要とされている教会があるので派遣先を神学舎内で祈りつつご相談されると思われるという事でした。イエス様が最善を成して下さる様に祈りましょう。
(9)神奈川県でも新型コロナウィルス感染症の拡大防止の為、まん延防止等重点措置適用の期間が3月6日まで延長されていますが、アンジュちゃんはまだ2歳であり、予防接種も受けておられません。マスク着用は2歳児前後では発達途上の心身の成長にも影響を及ぼしかねず、危険視されています。一時的に息が止まった症状を持つアンジュちゃんの場合はなおさらマスク着用は危険です。安全の為に3月6日以降でないと礼拝出席等は無理があります。6日以降でも無理をしないでアンジュちゃんがコロナ禍から守られます様にお祈り致しましょう。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・ヤコブの手紙は遠くに離れている愛する兄弟姉妹へ送った手紙であり、ヤコブさんが神の家族としてイエス様にある兄弟姉妹を愛しておられることが分かります。日本の教会の中には信仰の違いのみを強調して仲良く助け合うという事が比較的少ない面もあり、教会同士も愛し合う事がとても大切であることを強調されておられました。・・また試練を通して完全な者となるという聖書の言葉はローマ人への手紙5章3〜4節でもパウロさんも語られています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」・・私たち信徒の目標が分かります。
(2)安先生は4年間の麻溝台キリスト教会での学びで大きく心にいただいた祝福は、ヤコブの手紙1章2節にある様に「私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」にある様に、御言葉により喜びをいただくことが出来るようになったことであるそうです。それは今までに神の前、人の前で試練に会う時、自分に失敗を認めることの大切さ、神の許しをいただき、人の許しをいただくことの大切さを学ばれたそうです。誰が正しいかではなく、神様が何をこの事を通じて語ろうとされておられるかを第一に求める姿勢が形作られて来たことに感謝をされておられました。
(3)ヤコブ書にもこの為に知恵を求めなさいとありますが、人に知恵を求めるのではなく、神に知恵を求める事の大切さを語られておられました。
(4)本多牧師は今泉教会時代に何年祈っても教会のお墓が手に入らず、ほとほと諦めていた時に、高校生を通して突然お墓が導かれたことをお証されておられました。祈り続けることの大切さですね。
(5)また札幌南教会時代には弟子訓練の導入について役員会と意見が合わないで、ある時ドアをドンと閉めて怒って誰とも口をきかないように成りました。しかしその後奥様と初めて一緒に釣りに出かけて、周りでは誰も釣れないのに自分達だけは次々とサバとイワシがビックリするように大量に釣れました。こうしてイエス様が本多牧師を慰め励まし、再び奥様や役員会の方々と仲良く話せるようにして下さったそうです。全く御言葉の通りですね。イエス様に栄光。
(6)また、信じて疑わないことが大切であるというお話でした。麻溝台キリスト教会の現状は小人数でありますし弟子訓練がなかなか思うように進まない現実が目の前にあります。今まで本多牧師が牧会してこられた各教会とはまた別次元の試みの時であり、質の違う忍耐力が必要であることを思わされているという事でありました。働き人が少ない事も大きな課題であり、奇跡を起こされるイエス様に期待したいと強調されておられました。3〜5人以上人を送って下さるように切に本多牧師は具体的にお祈りされました。
3.祈祷タイム
(1)サンレモがとても忙しくN兄が聖書の学びがなかなか出来ない状態にあり、お忙しさの中にある兄弟姉妹が守られる様に心からお祈りいたしました。
(2)O兄の腰痛が癒されます様に。
(3)結愛ちゃんの聖書の学びの為、本多牧師が適切なテキストを準備できます様に。
(4)教会を現在はコロナ禍の為に礼拝出席出来ない兄弟姉妹方の霊性が守られます様に、デボーションの時が持てます様に。
(5)再び弟子訓練等木曜日の聖書の学びの会等が再開されます様に。
(6)本多牧師の住居の移転がスムーズに最善に進みます様に。
(7)安先生が今後韓国で素晴らしい祈りと愛の教会造りが出来ます様に。
(8)家族は教会、教会は家族の思いをいつももって教会の兄弟姉妹が愛し合い励まし合い、祈り合い、賛美し合う事が出来る教会へと成長出来ます様に。

今日もとても素晴らしい祈り会で、教会の敬愛する兄弟姉妹方の祝福を求めて、互いにこうして心を込めて祈り合えること自体がいかに豊かな恵みの時であるかをつくづく教えられております。とても感謝であります。一人でも多くの兄弟姉妹がこの祈祷会に参加出来ます様にお祈り申し上げます。

  M.O
 (聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
2月9日   ヤコブの手紙1章1節「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記11章より、5人の王がヨシュアと戦い全て敗走する。ヨシュアは5人の王全てを聖絶する。王の首を取るまでは完全な勝利は無い。この記事の適用として本多牧師にとっての5人の敵とは現在の生活から反省して次のような問題と戦う事が必要であることをお話されました。@現在の生活で自炊・洗濯・ゴミ出し等の日常生活に時間がかかるため、祈りの時間が少なくなることの対策が必要A年齢からくる疲れがあり、工夫が必要。B聖さを奪う敵があるので祈りつつ闘う事C神の家族等を愛することを奪う敵がいること。D御自身の教会で働きやご人生に希望を失わせようとする敵がいること。・・これら全てにイエス様により一つ一つ勝利をさせていただくことが大切であることをお証されておられました。
(2)本多牧師が現在安先生達の為に、お渡ししておられるデボーションの冊子「日ごとに湧く泉」が3月いっぱいで安先生が韓国に帰国されるため、その分を小澤にお渡ししたいというお話があり、小澤は感謝して受諾させていただきました。本多牧師のご配慮により、教会の多くの兄弟姉妹方と同じ聖書の箇所を日々学んで行くこととなることも、イエス様の何か深いご摂理があるものと思われます。感謝申し上げます。
(3)小澤・・安先生が韓国に戻られるため、何か励ましのお証をと思い、今まで右の手の為すことを左の手に知らすべからずで沈黙しておりましたが、数週間前にいつものように教会礼拝へ通う道すがら何度も出会った足の不自由な兄弟と話をし、癒しのお祈りをさせていただいたことをお証しました。その方は子供の頃から足が不自由だったそうですが、現在は福祉関係の方と一緒に歌を歌う会等へ通い充実していおられるそうです(50歳代くらい方です)。私は3度同じ様に心が示された時は、相手の方にお話ししたりお祈りをするようにしていますが、この時も帰宅途中で今祈って差し上げなさいという強い示しを受けて、お祈りさせていただきました。教会で更にしっかりと牧師先生にお祈りいただけますから行きませんかとお話しましたが、これは今回は断られてしましました。しかし私の心にはいつか必要な時に必要な形で救いが導かれる事があるのではないかという思いがあり、私の心に示されたことを実行できた事から来る素晴らしい喜びと平安で満たされました。とても感謝でした。・・また昨日は北里大学病院で精神科の受診を受けたのですが、いつも5分くらいしかドクターとお話をしないのですが、いつも聖書関係の本を持つて行くので、それが話題になることがあります。今回も昔若い頃にドクターも教会の門を叩いてみようかという思いがあったそうですので、今も何か御言葉を覚えておられますかとお聞きしたところ「あなたの隣人を愛しなさい。」という言葉が返ってきました。これは聖書の中心的2大御言葉の一つであることを説明して、喜ばれました。いつの日かドクターとそのご家族が救われると良いと思っていますが、今回本多牧師はこのことおを聞きになり、私が北里大学病院に通っていることは神様の深いご摂理にあると思われるという事で、既に北里大学病院には女医のM姉妹が麻溝台キリスト教会へ通われていたこともあり、祈り続けましょうという事でありました。
(4)安先生・・ルカの福音書13章33節「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」から今回の韓国での牧師としてのお勤めに対する心に示されておられる、尊い主の御意志について強くお証されておられました。主の僕として、献身者としての尊い歩みの在り方であると思います。また、主の御意志であれば10年後20年後に再び日本に戻られて牧会をして下さる可能性もあることをお話されておられました。とても感謝な事であります。イエス様の御意志に基づき最善がこれからも為されます様にお祈りいたします。
2.聖書の学びタイム
(1)聖書に出てくるヤコブの名は@ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)Aアルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)B裏切りのユダでない方のユダの父ヤコブCイエス様の弟のヤコブでありますが、ヤコブ書は著者の特定が明確ではない中で、今回の祈祷会ではキリスト教会の主流によりCのイエス様の弟のヤコブが著者であろうという中で、お話を進める事となりました(三世紀のオリゲネスさんがヤコブ書の著者を兄弟ヤコブであろうと案を提出しているそうです)。
(2)小澤は今回ヤコブさんのことを予め調べている中で、十字架でイエス様が死なれた時に、マリアさん等の女性に交じつて小ヤコブさんが一緒に直接イエス様の最後を見届けておられた事に気づき強く励まされました。ヤコブ書のヤコブさんではないかも知れませんが、恐らく若かったヤコブさんが勇気をもって十字架の下で姉妹方と共にイエス様のお苦しみを直接見上げておられたことに何か深い強い印象を持ちました。何とかこうありたいものであるとつくづく思わされました。
(3)本多牧師はヤコブ書はカルヴァンさん等によると、信仰ではなく行動を中心にしているため「藁」の書であると言われるそうですが、そうではなく行動の伴わない信仰は在って無きに等しいものでもあり、信仰と実践の大切さを強調されておられました。
(4)ガラテヤ人への手紙1章19節「しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。」とありエルサレム教会でパウロさんが既にヤコブさんに会っているという事はこの時既に弟のヤコブさん等が救われていたという事でありましょう。・・ヨハネの福音書7章5節では「兄弟たちもイエスを信じていなかったのある。」とあります様に、イエス様の生前伝道開始時には「エルサレムに上り自ら語りなさい」と言ってこの世的発想をイエス様に勧めている様子から、この頃はイエス様のメシア性を信じていなかった兄弟であったことが分かります。ところが使徒の働き1章14節では「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあります様に、エルサレムでの集会では既に兄弟達もイエスを主であると認識している様子が分かります。また、コリント人への手紙第1 15章7節「その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。」とあり復活の主にヤコブさんが直接会っていることも記録されています。
(5)弟のヤコブさんが御自身をイエス様の弟という言葉でなく、「しもべ」と読んでいることに大きな変化があり、注目しましょう。
(6)小澤にとってイエス様はどのような方でありましょうか。・・「全ての全て、我がもの何も無し」とお証させて頂きました。
今回ヤコブさんの救いを深く考える時、幼いころからイエス様と共に生活してきた兄弟達にイエス様がメシアであることと、自らの救い主であられることを信じる深い信仰が与えられるていることを思う時、マタイの福音書18章6節「しかし、わたしを信じるこの小さき者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」を思い出し、イエス様が御家族に対して幼き頃から多くの苦難の中、深い愛の思いをもって過ごされておられたことを深く教えられてとても感謝でした。家族が救われることはクリスチャンの最大の喜びでもありますが、しかしまた困難な問題でもある様に思われます。今回は幼いころから主と共に歩み続けることの重要性、日曜学校の大切さを深く教えていただくことが出来、心から感謝致します。
(7)安先生にとっては@いつでもイエス様のご命令を守っているでしょうかA主に任されたものをキチンと管理しているでしょうかを問われているという事を話されておられました。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師は3月頃に住まいを教会近くで車が2台駐車出来そうな場所のアパート契約を申し込んでおられます。契約が支障なく最善に為されます様に。
(2)安先生ファミリーが無事に韓国に戻り(23日に日本を立ち24日から韓国で活動を開始されます)、牧会が祝福されますように、また御家族がコロナから守られます様に。
(3)クリスチャンホームが教会へ次々と与えられます様に。
(4)教会ホームページの礼拝ビデオの設定が順調に進みます様に。ホームぺージにより一人でも多くの方が教会へ招かれます様に。
(5)結愛ちゃんがオンラインで聖書の学びを始めます。将来を担う大切な若者ですので祈り続けましょう。
(6)本多牧師は私たちが今まで見たことも聞いたこともないような奇跡の恵みが麻溝台キリスト教会に与えられることを祈りましょうと言われておりました。アーメンですね。イエス様にいつも期待してまいりましょう。
(7)教会を現在色々なご事情により休まれておられる方のイエス様による守りと祝福の為にお祈りを欠かさない様に致しましょう。
      M.O
 (聖書個所は日本聖書刊行会発行の新改訳聖書です。)
 
 2月2日  マタイの福音書5章10節「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
讃美歌465番の「キリストにはかえられません」が素晴らしく心に響きました。
1近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記9章14節「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった」から、イスラエルの攻めていった近郊のギブオンの住民が戦略により自分達を滅ぼさずにしもべとしてもらう盟約を取り結ぶことに成功した記録です。・・一度勝利をすると再び神に伺う事をしないことを戒めています。同じような場面に出合ってもその都度主の御心を祈り伺う事を忘れる高慢がこうした間違いを起こす事となります。ダビデさんはいつもその都度何度でも繰り返し、主の御心を伺いながら進んで行った方であり、私達も学ばなければならないことです。
(2)本多牧師は最近引っ越しを決めましたが、娘さんが心配して電話をかけて来てくださったそうです。しかし現在のドラゴンマンションは病の奥様の為に幸せな住居を探して選んだものであり、今度の移転は御自身が主にお祈りされてお決めになられたそうです。奥様を愛しておられた牧師の姿に感動させられました。
(3)先日はある姉妹とお会いしたそうですが、その方の教会では小グループが活動しておられて、御言葉を分かち合う姿に感銘されたという事でした。麻溝台キリスト教会でもそのような成長ができますようにという事でした。
(4)安先生・・先日サンレモでパンを購入しましたが、最近はお客さんが少ない様子が見られ、コロナ禍で売り上げも落ちているのではないかという心配をされておられました。皆さんお祈りを致しましょう。
(5)安先生・・ルカの福音書7章47節「だから、わたしは「この女の多くの罪は赦されている」と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」よりへヨン先生に怒った時に、自分の間違いであった事に気づき、謝りましたが、許していただけた喜びが有ります。感謝です。
2.聖書学習タイム
(1)義の為の迫害は、本多牧師の場合は、北海道札幌南キリスト教会時代に弟子訓練を推進しようとしていましたが、身近な多くの方々にも理解されず攻撃に会いました。しかし御自身にはイエス様からの明確な確信が与えられていたために、ちょっとだけ心が痛むだけで豊かなイエス様からの喜びをいただきつつ、前進する事が出来たそうです。感謝ですね。
(2)ヨハネの福音書15章19〜20節「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたかたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。」主を信じる者は御言葉により生きるようになり、神の国に生きる者となるために生き方が変わります。本多牧師の故郷では仏教が中心であるために宣教の為に多くの苦難があるそうです。
(3)安先生・・この世のものでなくなったことの祝福は、聖なる者とされたことであり、麻溝台キリスト教会へ赴任して2年たった頃でしょうか、信徒の方と口論となり、逆切れの状態に陥ったことがあったそうです。自分が正しいとことを主張する事に専念して、相手の言葉尻を捉えて逆切れの状態であったそうですが、その後でその方からお電話があり、謝って来て下さったそうです。今は本多牧師と議論して反論することもせず、まず聞くという姿勢に徹することが出来る様になられたそうです。正しいことをいう事と、お互いにぶつかり合って勝つこととは別の事であることを学びました。と言う事でした。安先生は着々と愛の牧師先生に成長をされておられますね。すごいですね。
(4)本多牧師・・中近東では今でも迫害があり、テレビ等では目立って報道されないため知られないでいますが、イスラム教徒のためにキリスト教を信じている子供達にキリスト教を離れれば命を助けると言われた子供達が、イエス様を捨てないと言ったために首を切り落とされるという事があったそうです。日本では戦前の様に教会が潰されるという事は無いですが、現在の韓国の宣教師達は世界中に派遣されているため同じような迫害の中を進んでいる方が今もおられるそうです。こうしている時も世界中で迫害にあっている兄弟姉妹の為にお祈りが必要であることを強くお話されておられました。ローマ人への手紙15章30節「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」・・・とりなしの祈りの大切さを教えて下さいました。安先生の韓国でも仏教徒の方が多くあり、安先生がそうした中で戦いがあると思われますので祈りの必要をお話されておられました。
4.祈祷タイム
(1)安先生の引っ越しが計画的に順調に進みます様に
(2)結愛ちゃんが多摩川学園中等学部へ通いますが信仰が成長できます様に。
(3)祈祷会は今後「ヤコブ書」を学んで行くことに成りますので祈りましょう。
(4)N兄弟がT姉妹の家へパンを届けて下さっておられるようです。N兄弟も大変お忙しい中にありますが、お店が守られイエス様の祝福が受けられます様にお祈りしましょう。
(5)インドネシアのY姉妹は御自身の今後の歩みに進学等の夢をお持ちの様子ですので、お祈りいたしましょう。
(6)O兄弟の腰痛が癒されます様に。
(7)お仕事の中にある兄弟姉妹がコロナ禍から守られます様に。
(8)M兄弟が大阪へ長期出張されるご計画ですので、現在O兄弟が礼拝ビデオDVDをお作り下さっておられるようですのでこれらのご奉仕も守られます様にお祈りいたします。

   M.O
 (聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書によります。)
 
 2022年  1月  
 1月26日  マタイの福音書5章9節「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記より、イスラエル軍が小さい町「アイ」を攻撃した時に敗北するという事が起こり、その原因がそれ以前に勝利した町で全てを聖絶せよと命じられていたにもかかわらず、アカンが富を自分のテントに隠したために、次のアイの攻撃時にイスラエルが敗北したものです。一度敗北すれば次は周りの国々の攻撃を一斉に受ける危険もあると思われますが、くじ引きにより数十万の民の中からアカン一人がこうした財を隠して自分のものとした事が白日の下に明らかにされます。神様がどのように多くの民の中にもたった一人の罪により教会全体が裁かれる事があることを肝に銘じることが必要でことを語られておられました。静岡の教会時代にも、本多牧師は誰も気づかない中で、主はある方の罪を明確に暴かれことがあり、びっくり仰天して神の前に隠れることはできないことを教えられ、神の恐ろしさを体験されたそうです。多くの中の一人だから良いという問題はないこと、教会が神の家族として一つであることの深い意味を語られておられました。祈り続けましょう。
(2)小澤・・先日教会へ来られたA姉妹(吉祥寺キリスト集会の方)を礼拝後T姉妹とS姉妹が注意深くお話を熱心にお聞きになられておられました。愛の配慮をもって、訪れられた兄弟姉妹に対してすぐに愛の反応を示される姉妹方に感動しました。またO兄弟が最近来られていない高橋兄について心配されていることを話されたので、共に祈りましたことをお証しました。本多牧師は即、その場で高橋兄へ電話でご連絡して、共に励まし合う事が出来ました。本多牧師はご聖霊様に導かれるとすぐに行動される方でありますが、今回も全く驚かされました。イエス様に栄光があります様に。
(3)安先生・・へヨン先生と同じ「日ごとの恵み」デボーションの中で、ヨシュア記ではアイに一度負けますが、次にもう一度攻撃してよいかどうかを主に伺いを立ててから実行したことを語られて、以前と同じ様な状況でも再びその都度主のお考えを聞きながら進む事の大切さを語られておられました(本多牧師はこのような例の代表的な人はダビデ王であることを示しておられました)。・・大切なことでありますね。
2.聖書学習タイム
(1)完全なる平和の姿は、三位一体の姿であり、真の平和とは全ての敵対するものを和解させます。・・ひとりひとりの多様性の一致という奇跡は、十字架のキリスト様の御業によりこのことが初めてなされました。エペソ人への手紙2章14節〜16節「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立つている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(2)三位一体は1+1=1の世界ですが、これは小澤は通常は無いが、無限+無限=無限の世界では起こりうるというお話をしましたが、本多牧師は完全な者同士の結びつきが完全をつくるというお話をされておられました。
3.祈祷タイム
(1)へヨン先生が日本語検定1級に合格し、ヨランダ姉妹が2級に合格したことの感謝のお祈り。
(2)安先生の4月以降の韓国教会でのご奉仕が祝福されます様に。
(3)教会に良き働き人(奉仕者)が更に与えられます様に。
(4)クリスチャンホームが教会に増えます様に。
(5)出張の多い兄弟姉妹方がコロナから守られます様に。

M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です)
 
 1月19日  マタイの福音書5章8節「心の清い者は幸いです、その人たちは神を見るから。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・ヨシュア記をデボーション中で、エリコの城の周りを6日間イスラエルの兵士が沈黙の中、回り続けるお話から、自分であれば何も起こらないことに何かつぶやきが出てくるかも知れないと思いつつ、万軍の主の使いがヨシュアに語った言葉に従ってひたすら沈黙の行進を続ける兵士達の姿に、麻溝台キリスト教会へ赴任後祈り続けてきている中で、コロナ禍の中で教会成長に何も起こらない様に見える中、このヨシュア記にある様に、ひたすら主の御言葉に従って行こうと新たに思っておられるそうです。しかりですね。事をなされるのは主ですので牧師先生と共にお祈りを続けてまいりたいですね。
(2)小澤家では娘の望さんからお祈りのご依頼があり、皆様にお願いいたしました。職場の人間関係で苦慮しているため、自分自身の心の問題としてどの様な人でも愛せる心を与えていただきたいという事でした。多くの兄弟姉妹が色々な出来事に出会いますが、全てを最善にお導きくださるイエス様であることを信じて感謝いたします。
(3)安先生・・マルコ13章33節より、「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」により、私達がすべきことを示しておられました。
(4)小澤・・へブル書12章14節「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」から、聖書の中には「清い」と「聖い」を使う事がありますが、本来的にはどちらに重きがあるのか不明でした。本多牧師のお答えは「きよい」は言語的にには「区別する」、「分離する」という意味があるそうです。つまり聖なるものと俗なるものとの区分を明確にするという意味が強くある事が分かりました。人間は自分では聖くなる者となることは不可能ですが、キリスト様の十字架の救いに与ることにより初めて奇跡的にこのような世界に住む者とさせていただけいることが体験的に分かってくるものと思われます。イエス様の恵みの大きさに今更ながら感謝いたします。
(5)本多牧師・・最近御自身の写真集を自伝と共に2冊にまとめておられますが、この中で敬愛する先輩や洗礼を一緒に受けた方がバックスライドしてしまい、色々な事情により信仰から離れてしまった方がおられることを思い、つらい思いがされたそうです。どのような方にも油断するとこうした事態に陥る可能性もあり、常に御言葉に学び祈りつつ進みましょうというお話でした。
2.聖書学習タイム
(1)第一ヨハネ1章9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」から罪を言い表すことの大切さ、神と向き合わずに離れることの危険性を注意すること大切さを語られました。5分間でも良いので御言葉からデボーションの時を常にとることの大切さという事でした。
(2)神と富に仕えることは出来ないとありますが、二心のあることに危険があり、シングルハートの大切さがあり、それにより神に近づいてゆくときに神様が近づいて来てくださいます。
(3)大きな教会の牧師も、自分中心になってしまう危険があり、シングルハートを失う事に注意しないとならないことを語られておりました。サウル王も初期には良かったのですが、やがて二心を持ちサムエルさんが来る前に自分で祭壇をつくるという過ちを犯します。いつの間にか自分中心になってしまう危険に注意しましょう。
(4)安先生は御言葉以外にも自分の感情に陥る危険を語られておられました。お祈りしましょう。
3.祈祷タイム
(1)アンジュ君の呼吸が一時止まって北里大学病院に参りましたが、これは結果的には一時的なものである可能性が高いそうです。子供によっては体質的な問題もあるようなので心配しましたが、イエス様に感謝申し上げます。
(2)西山兄がお仕事で大変お疲れのご様子ですので祈りましょう。
(3)実結ちゃんがイギリスの教会の献児式で大変恵まれたそうです。引き続き実結ちゃんが守られイエス様の祝福が受けられます様に。
(4)教会に若い方の結婚式がしばらくないので、結婚される方が起こされます様に、クリスチャンホームがつくられて行くことが教会の将来の為にもとても大切であることを本多牧師が語られておられました。
(5)教会学校の祝福の為

 M.O
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
 1月12日  マタイの福音書5章7節「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)小澤・・西山兄の受洗式の時の信徒の方々の集合写真をホームページの信徒の広場に掲載することをご提案しましたが、札幌南教会では放送関係の方が複数おられて個人情報の問題があり、掲載不可となったこともあり、今回は集合写真は掲載しないこととなりました。
(2)「神の和の神学へ向けて」宮平望/著 新教出版社等を読み始めました。創造論調査に三位一体の神様の事を詳しく学ぶ必要があり、アウグスチヌスさんの三位一体論他色々な先輩方の著作を少しずつ調べ始めています。私の場合は創造論の土台の上に自然科学論の現状解釈の改良を色々と試みているのでとても面白いです。
(3)本多牧師・・多読も良いことですが「聖書」を読むことが最も多くある様にというご忠言でした。(しかりですね(笑))・・1+1=1の世界であることをご指摘下さいましたが、これは小澤流に解釈すると、無限+無限=無限の世界でもありましょうか。とても大切なことですね。
(4)10日に藤沢キリスト教会の牧師と信徒の方が5名麻溝台キリスト教会へ来られて、とても恵まれてた弟子訓練の講義をお受けになりました。・・次は7月だそうです。こうして不思議にイエス様の導きが近隣の教会へ広げられていることを感謝します(この内一人は中国上海から来られた方だそうです。中国でも迫害の中にあり牧師が逮捕されたりしているそうですので祈りましょう。)
(5)3時間の講義だったそうですが、本多牧師はモーゼの消えない芝のお話をされて、「どうして、なぜ」の心が大切であり、聖なるものと出会ったり、教会でも心の愛に出会うときにどうしての気持ちが人をキリスト様に引き寄せるという事をお話されたそうです。(韓国のオクハンフム牧師も同じようにこうした気持ちの大切さを語られているそうです。)・・祈祷会は神にお願いする時です。マルコの福音書7章32節「人々は耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いて下さるよう、願った。」
2.聖書学習タイム
(1)マタイ5章7節の御言葉はリビングバイブルでは「あわれみ深いひとは、幸福です。」となっているそうです。ギリシャ語では憐みは行動に出てくるあわれみであり、抽象的ではないそうです。神が憐みの神であることはいくら強調しても強調したりないお方です。・・へブル書2章17節「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」
(2)昔、本多牧師は学生の頃、献金をいただくことが嫌だったそうです。信徒の方が「くれてやる。」というような気持ちが感じられたのではないかと思われますが、実際にはそうであったかどうかは不明だそうです。このご経験は今でも貴重な体験として心に残っておられるそうです。
(3)本多牧師は神学校の学費(今日であれば毎月15万円くらい)の献金を匿名で4年間お送り下さった方がおられたという事ですが(恐らく当時の事なので宣教師の方ではなかったかと思われます)未だにどなたがお送り下さったのか不明だそうです。
(4)マザーテレサさんは相手の方と同じ視線に立つという事をされたそうですが、大切なことですね。
(5)パウロさんは神様の哀れみを受けて使徒となりましたが、神の哀れみを受けた人は同じように周りの人々に憐みを施そうとする人に変えられます。感謝ですね。
(6)小澤は昔教会で子供達が小さかった頃、長老が何と、お年玉を下さったことがありビックリしました。こんな世界があるのかとつくづく教えられて神の国の在り方を深く学ぶ事が出来ました。
(7)安先生は自分が過ちを犯したときに奥様に赦していただいたそうです(これは多くの方にありますね。・・・・)
(8)本多牧師・・麻溝台キリスト教会が過去に色々な事もあったようですが、今も存続していることに神様の深い憐みを感じているそうです。キリスト様のこの心を無駄にしてはならないと言われておられました(日本ではかなりの数の教会が高齢化等で存続が危ぶまれているようです)。・・礼拝説教は今後信徒の方々一人でも二人でも信仰の覚醒が起こることが大切であり、このために、礼拝メッセージ等にも集中して、一人一人が御言葉にしっかり向き合う様に出来ればと一歩踏み出し、チャレンジをされてゆく御計画です。
(9)安先生は本多牧師のご努力に対して、「新しい葡萄酒は、新しい革袋に」と言われており、弟子訓練が不十分にしか現在機能しておらず、教会が今後本多牧師の元、着々と全体的に成長されることを期待しておられました。
3.祈祷タイム
(1)来週の召天記念礼拝は43名の該当者がおられるそうです。御家族の方々の守りと祝福の為に祈りましょう。
(2)安先生の新しい宣教地の為に、リー牧師に適切な導きが与えられます様に。
(3)結愛チャンの将来についてはお父さんの敬さんが考えて御計画をされているそうですのでお祈りいたしましょう。
(4)教会員一人一人の方々の祝福の為に祈りました。
M.O
(聖書引用は日本聖書刊行会発行新改訳聖書です。)
 
2021年 12月  
12月22日 マタイの福音書5章6節「義に飢え渇く者は幸いです。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)小澤は最近「ファーブル(昆虫学者)の生涯」という本を読み始めていて、その中で蟻について考えさせられ昆虫の世界の楽しさ不思議さを思わされました。‥蟻とい文字に今回は注目しました。虫の中でも最も知恵あるものとして聖書では箴言30章24〜25節で紹介しており、「この地上には小さいものが4つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。蟻は力のない種族だが、夏のうちに食料を確保する。」とあります。また蟻は誰に命令されたわけでもないのに、自分で仲間の為にせっせと働き、、敵が来れば皆で一丸となって、命がけで戦います。そして自分たちはキチンと秩序をもって互いに助け合いなが暮らす性質はいったい何なのでしょう。義という字は倫理性や共同の中での規律性の正しさを指しているはずですが、これに虫という字を当てて蟻と書くそうです。なるほど人間の場合は、自我が自分達全員を苦しめて混乱を起こすという罪の問題がありますが、単に生物の本能とか精神性というだけにとどまらず、真に蟻から学ぶべきものが多くあることを聖書から教えられます。義という言葉は、聖書では神と人との真実の愛の深いかかわり方を指しているのであると思われますし、人と人のかかわり方のあるべき姿でもあろうかと思われました。
(2)私は創造論の立場からこうした神様の造られた自然の広さ深さ高さをいつも感謝しつつ学びつつ、聖書の世界と共にキリスト様の御心の深さを学ばせていただいているのですが、物理学者のニュートンさんは自分の業績について神様の造られた大海の前の小さな浜辺で、流されてきた貝殻の美しさを喜んでいる子供に過ぎないというような表現をされていますが、聖書と自然はいつも私を導きて下さるとても大切な世界です。・・・本多牧師はパスカルさんの言葉を引用されて「私には神様でなければ埋めることの出来ない空洞がある。」とご説明くださいました。私も創造論の調査研究はキリスト様のご臨在を常に基礎において進めない限り真理の世界を更に深く知ることは不可能であろうと思っておりますので、本多牧師のご指摘は真に同感であります。
(3)本多牧師はヤコブ書をデボーション中であり、行いのない信仰はむなしいことを心に示されているそうです。ヤコブ書はルターさん等は「藁」の書として重きを置いていませんが、本多牧師はやはりヤコブ書から深く教えられるそうです。行いの伴わない信仰ではイエス様の真実の愛の深さ高さ広さを体験することはほぼ不可能でしょう。私も僅かながらの体験からもそのように思わされております。
(4)札幌南福音キリスト教会で末期癌と闘っておられる天野姉妹のお証をして下さいました。今は氷が少ししか口に入らない状態だそうです。教会へは夜は夫の方が泊まり込み、昼は教会信徒の方々が交代で看護に当たられているそうです。船渡川牧師も泊まり込みで対応されているそうです。・・神の家族としての愛がこのような形で現わされることがあるとは全く驚きました。病気ですとその時の体調により救急車を呼ぶ時もあるでしょうし、大変なご苦労を引き受けながら姉妹の為に皆が協力しておられる姿は、常識では考えられないような世界ですが、教会には起こりうることであるという事です。祈り続けましょう。・・私達の麻溝台キリスト教会も同じような神の家族の愛と相互の思い遣りに満ち満ちたイエス様のご臨在溢れる教会へと成長させていただきたいものでございますね。感謝申し上げます。
(5)高杉結愛ちゃんが今週の礼拝後に帰宅途中の車の中で、お母さんに怒られたことがきっかけとなり、イエス様の十字架が自分の罪を許すために実際にあったことであると初めて深く心に示され、大泣き泣いて悔い改めをされたそうです。当日は本多牧師・川口ご夫妻と美佐田兄がレストランで会食中に電話が入り、泣きながら話す結愛ちゃんのお話を聞いたそうです。・・・ご聖霊様のなされることは不思議な限りない恵みであり、こうしたことが次々と麻溝台キリスト教会に与えられ始めていることは、いよいよイエス様が力強く働き始めて下さったのでありましょうか。深い感動をさせていただきました。結愛ちゃんと本多牧師は29日に牧師室でお話会を持たれるそうです。結愛ちゃんは来年東京の私立高校へ入学されるそうで、そのための紹介状を牧師先生がご依頼されておりますので、正にちょうどのタイミングでもあり、不思議な神様の御計画を覚えて感謝いたします。結愛ちゃんの今後の信仰と希望と愛の成長を祈り続けましょう。また高杉家がクリスチャンホームへと進む事が出来ます様に御家族全員の救いの為にもお祈りいたしましょう。イエス様は深い御計画をお持ちであると思います。
(6)安先生は先週の教会での洗礼式に深い感動を覚えて、教会では牧師の説教・お互いの祈り会、聖書の学び会以外にも洗礼式を通して、深いイエス様からの恵みのメッセージをいただいたそうです。感謝ですね。
(7)教会学校生徒たちが多数参加出来たことも、とても感謝なこととしてお証されておりました。祈りをお聞き下さり、日曜学校を祝福し続けて下さっておられるイエス様に感謝申し上げましょう。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・飽くという事の意味ついては2種類あります。@食べるものが無い状態とA食べるものがあっても食べられない状態です。アモス書8章11節「見よその日が来る。―神である主の御告げ―その日わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」
(2)自らの飢え渇きに気づかない人がいる。・・デボーションの定着化が必要です(霊の糧を食べる訓練)。
(3)北海道札幌南福音キリスト教会時代に、牧師は地域老人ホームへご奉仕に月一回通われておりました。その中で一人の人が亡くなられた時に職員の方から部屋を見て下さいと言われて、見ると何と部屋中が御言葉の貼り紙だらけで、天上にも貼ってあったという事です。詩篇42編1節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」・・・この心を大切にしたいですね。
(4)2022年1月10日に藤沢キリスト教会で4名の青年信徒の方々に弟子訓練の講義を牧師はご依頼を受けました。素晴らしいことですね。祈りましょう。
(5)本多牧師の飢え渇きは神の御心を行う事であり、御自身の使命は麻溝台キリスト教会でも弟子訓練を行う事であり、コロナ禍の為に現在実行されていない面があり、強い飢え渇きを覚えておられるそうです。
(6)小澤の知識では、一般的に教会には3年周期説というものがあるそうですが、本多牧師も日々御言葉を学ぶ事が出来ないと、救われた時の一時的熱が冷めてきてしまうと教会を離れて行かれる信徒の方がやはりおられるという事を語られておりました。デボーションの方法、ご飯の食べ方を信徒の方々に教えて行かなければというお話をされておられました。
(7)信徒の方々一人一人に神様から与えられた尊い使命があるはずであり、そのことが全うされるように祈りましょうという事でありました。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師のご健康の為、末永く牧会を楽しく進めることが出来ます様に。
(2)安先生の2022年4月からの宣教地がイエス様により最善の道が開かれます様に。
(3)教会員それぞれのご人生の祝福の為に、祈り続けましょう。
・・・M.O.
聖書引用は「日本聖書刊行会編新改訳聖書」
 
12月15日 マタイの福音書5章5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

3名参加のZOOM祈祷会でした。
小澤のパソコンのトラブルにより音声が伝達されず、会話が不能となり、今日は本多牧師のメッセージをお聞きすることとなり、最後に安先生がお祈りをして下さいました。(小澤のパソコンはその後サウンドシステムの調整により正常に戻りました。)
1.聖書学習タイム
(1)神に対する柔和さと人に対する柔和さがあります。
(2)神に対する柔和さはヨブ記1章22節「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」家族や財産を失う事があっても常に神に感謝する信仰こそが本来の信徒の在り方でありましょう。そのような信仰者へ成長したいものです。
(3)キリスト様の受難の柔和さ、マルコの福音書14章36節「また、こう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」・・天のお父様の御心通りに生きようとするキリスト様、いかなることがあっても神様の御心を受け入れる信仰と希望と愛。私達も少しでもイエス様を目指して生きていきたいですね。「全ては主のもの、わが物なし」の信仰でしょうか。また地上のことは一時的ですが、御国は永遠の国です。イエス様の御心を反映した、真実の愛の国です。
(4)以前、麻溝台キリスト教会へ札幌南福音キリスト教会から賛美のご奉仕に来てくださった天野姉妹が末期癌であることが公表されたそうです。日曜学校に特に熱心に活動して下さっておられました。・・現在、姉妹は何一つ愚痴を言わずに、最後に一度でも良いから礼拝に出席したいという事を言われているそうです。・・私達もいつ何が起こるか分かりません。敬愛する姉妹の病には心を強く傷めますし、悲しみが溢れてきます。しかし、私達の国籍は天にありますので何としても祈りつつ、走るべき行程をを走り抜くことが大切であるとつくづく思います。姉妹の為にもぜひとも祈り続けましょう。
(5)安先生も4月以降の派遣先が驚くようなところになるかもしれません。イエス様に「はい」という心が大切ですと語られておられました。
(6)中国では周恩来首相による弾圧が強くなり、教会活動も共産主義を受け入れないと許可されないという状況になってきているそうです。世の終わりに向かって直着と時代は進んでいるのでありましょう。迫害の中にある世界中の教会の為にも祈りましょう。
(7)本多牧師は献身されて神学校へ行かれる時、田舎の学費の易い所を選ぼうとしましたが、神様は「都へ留まれ」という御言葉を示し、学費無しでも「はい」と従いました。不思議なことですが、学費がどなたかから送られてきて合計すれば大変な金額となるのですが、未だにどなたがお送りくださったか不明であるそうです。
(8)民数記12章ではモーゼさんがアロンとミディアムさんにクシュ人の妻のこと等で非難されます。兄弟姉妹の争いくらい辛いものは無いと思いますが、口答え一つしないモーゼさんでした。神が裁かれます。
(9)安先生がこれから新しい教会で信徒の方に非難されることも起こって来るかも知れません。・・我慢しなければならないことが起こってきます。主への信頼が助けとなる道です。・・本多牧師の敬愛する恩師の牧師先生が昔、教会の信徒の方々から総攻撃を受けた事があったそうです。この時牧師は一切反論せず。神様に全てをお委ねされていたそうです。学ぶ必要のある大切な信仰姿勢ですね。感謝いたします。
(10)イエス様が怒られた時ということでは、エルサレム神殿で商売をしている人々の机をひっくり返したという記事がありますが、これは信仰と希望と愛に基づく公儀を行う為であり、神の真実の姿、真理を明確にする必要がある時に限られます。私達の教会も単なる社交場のような場になってはならないと、イエス様のご臨在溢れる、神の愛が満ち満ちた場所、祈りの家とならなければならない事をお話しくださいました。
(11)人間に対する柔和さでは、最も柔和さを持つことが困難な場が家庭であることをお証されていました。・・・牧師も奥様も若かったころ、すぐに怒ったりしていたそうです。順子先生が先に召されましたが、十分な事をしてあげることが出来なかったことを今も申し訳なく思っておられるそうです。教会員の方々もまずご家庭への愛を大事にし、祈り仕える心が大切であることを強調されておられました。真にその通りですね。感謝申し上げます。
2.祈祷タイム
安先生に代表してお祈りをお願いいたしました。
安先生は心を込めて、兄弟姉妹一人一人の為に具体的な事柄についてお祈りくださいました。いつもの事ですがこうした安先生に具体的に祈られている麻溝台キリスト教会がいかに幸せな環境にあるかをつくづく今日もイエス様からお教えいただけました。
安先生に感謝申し上げます。
毎週の礼拝の祝福の為にも祈り続けましょう。  M.O.
聖書引用は日本聖書刊行会による新改訳聖書です。
 
12月8日 マタイの福音書5章5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・デボーション個所は、コロサイ人への手紙2章3節「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」・・2章ではではキリスト様の名前が次々と語りだされて、特に知恵を与えて下さることが書かれています。昨日、西山兄が聖書の学び会に40分遅れて来られました。一日4時間しか自由の時間が無く、睡眠と食事の時間が主ですが、この状況の中で兄弟のの信仰とお仕事が守られるようにお祈りの必要を強調されておられました。丁度サンレモでも新しいお仕事を進める為に知恵を必要とする時であり、聖書のこの個所は兄弟にとっても良い御言葉となったと思われますという事でした。
小澤・・最近教会ホームページのビデオ編集作業の追加のお仕事が忙しくて疲れ気味でしたが、ふと窓から外を眺めると丹沢の山々に雲がかかり不動の静けさ、雄大さを見ることが出来、詩篇121篇「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」の御言葉により強く励まされ、疲れも取れて主の栄光を拝させて頂きました。この詩篇121篇は昔から私をいつも助けてくれる素晴らしい御言葉です「主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。アーメンです。
教会HPの礼拝ビデオ編集にはホームページビルダー22という最新バージョンソフトが必要であることが分かりましたので、現在取り寄せ中です。このためしばらく新バージョンソフトで教会HPの再設定を行うために時間がかかりそうですので、それまでは現在の教会HPには手が付けられない状態であることをご容赦いただきました。皆様もこの為にもお祈りいただければ幸いです。
(3)安先生・・創世記12章6〜8節「アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ主がアブラに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。」・・シェケムの場は偶像の場であり、カナン人もまた偶像礼拝者でした。この地を与えると語られた主の為にアブラムが最初にしたことは礼拝を捧げる事でした。・・信仰者が大変な時、困難の時まず行うべきことはデボーションの時を持つこと、礼拝をお捧げする事であることを改めて悟られたそうです。
(4)安先生ファミリーとヨランダ姉妹とそのお友達で教会の自動車をお借りして、金曜日に相模湖クリスマスキャンドルツリーの観光見学へ行くそうです。とても素晴らしい恵みですね。外国から来日して、お忙しいお仕事の中、少しでも合間を縫ってこうして日本の風物見学が出来ることは姉妹方にとっても、とても大切な人生のひと時となると思います。これからも兄弟姉妹方でこうした、素晴らしい主にある良き交わりの時が持てます様にお祈り致します。イエス様に栄光があります様に。
2.聖書学習タイム
(1)小澤・・柔和さとはご聖霊様によるものであり、人間の力では無理な世界であろうと思われます。
(2)最近読んだ本からローマ人への手紙8章26節「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」が示されましたが、どうしてよいか分からない窮地に陥った時にも御霊様御自身がお助けくだり道を教えて下さり、お導き下ることは私は何度となく経験させていただいております。・・福音の宣教など人間の力の及ぶところではないと思っております。祈りつつご聖霊様の導きにより前進する方法以外に無いでしょうし、それは実は最善のイエス様の教えて下さっておられる方法であると、少ない経験からですが私は理解させていただいております。また人々の不理解等により色々なトラブルが生じてしまった時も、私達クリスチャンの戦いはこの世の人々との闘いではありません。天上の諸々の悪の霊との戦いであることを聖書により理解できるようになると、この世の争いは基本的にはクリスチャンは動揺させられるものでは無い事が判るようになると思われます。全てをイエス様にお委ね出来ます。とても感謝です。
(3)安先生・・一歳の幼い頃から肉的思いが生まれるか、霊的心が現れるか戦いがありますが、聖霊によらなければならないことをお話されました。
(4)本多牧師・・救われる前は自分本位なので、人を馬鹿にするタイプであり、柔和さは心に無かったことをお話されました。・・クリスチャンになってから変わりましたが、それでも肉の性質が多くボアネルゲ(雷の子)であったという事です。昔の写真集を整理している中で、家族で山へハイキングへ行った帰りの写真などを見ると順子先生はにこにこしておられるのに、ご自身はブスーとした顔であり当時の心の状態が分かるそうです。・・札幌南キリスト教会へ赴任して弟子訓練を始めた頃から顔の表情が今の様ににこにこした柔和さが現れてきたという事でした。クリスチャンになっても本当の柔和さを身に着けるには多くの訓練や時間が必要なのですね。祈り続けましょう。
(5)ヨブ記1章21節「そして言った、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」・・ヨブの柔和さは格別のものがあり、恵まれますが、友人達に何を言われても神を見上げる信仰には教えられます。本多牧師の昔の教会では素敵なクリスチャンご夫妻がおられましたが、夫の方が先に天に召された時、奥様が神様に対してとても怒り叫んだという事です。しかし友人に「神様には神様のご都合があるのでありましょう。」という言葉を聞いた時、深く理解して信仰を取り戻すことが出来たそうです。感謝です。
(6)小澤・・最近、教会への往復の途中で相模原公園を通る時多くの子供達や御家族が遊んでいる姿に接して微笑ましい感謝な心が与えられると同時に、どうして福音は伝わらないのだろうかと悲しさも覚えるのですが、本多牧師はこのこといついて2つの大切なことをご指摘下さいました。
@人々が真理から離れている無知の問題(これは罪の深さの原罪の問題とも深くかかわると思われます)と、
A私達クリスチャンの問題、つまり宣教をしていないという問題があるという事です。・・確かにそのようにして見ると、公園に来られている方々は実は耕されていない畑であり、クリスチャンが耕すことにより、もしかすると多くの実を結ぶことのできる命の満ちた土地なのかも知れないと思われるようになりました。「収穫は多いが働い人が少ない」という御言葉はこのように耕されることを待っている土地をも示して下さっておられるのかも知れません。伝道は課題です。祈ってはいるのですが具体的に何もしていない自分自身に深く反省を促されました。月に一度でも良いので教会信徒の方々有志で、導かれれば隣の自治会公園等で楽器を用いた賛美集会を15分でも30分でもしてみるのも良いかもしれません。
本多牧師はこうした活動法として他の教会のご紹介をして下さいました。それはこうした活動を@ゴーイングチームとAティーチングチームの2つに分けて活動されているそうです。福音を語り一人でも多くの子供達、大人たちを誘うチームと、誘われてきた方々を愛をもって聖書を教えてゆくチームです。頑張ってくださっておられる教会があるものですね。有難いものです。
・・・また、小澤は今まで個人的にご聖霊様に導かれて、礼拝後に兄弟姉妹方とともに少しの時間でも共に励まし合い、祈り合う様にさせていただいてまいりましたが、このことは以前本多牧師が言われたように礼拝後15分でも30分でも良いので信徒の方が集会室に集まり、御言葉の分かち合いが出来ればと話されていたことを思い出し、先週は複数の兄弟姉妹にお声を掛けて共に祈ることが出来ました。・・本多牧師はそうした小さな交わりの中でも、その日の礼拝メッセージの感想などを話し合う事が出来れば良いですねと言われておられました。、このコロナ禍の時代でも、兄弟姉妹方の横の繋がりも更にイエス様により祝福されるようにお祈りいたしましょう。
(最近の教会関係のニュースでは、ある教会は月に一度の「子ども食堂」を開催しておられるそうです。この時代に複雑なご家庭の中に育っている子供達が多いことは理解しているつもりですが、教会の社会的責任という意味では、自治体と協力してこうした子ども食堂を作ることが将来できれば、なにかしらイエス様のお証が地域に広がるかも知れませんね。信仰と知恵が私達一人一人に与えられます様に。)
3.祈祷タイム
(1)礼拝の祝福と敬愛する兄弟姉妹方の生活、お仕事が豊かに祝福されます様に。
(2)兄弟姉妹方に良き信仰と知恵が与えられて、御家族や職場の方々の救いが導かれます様に。
(3)教会の信徒一人一人に宣教の為の祈りが与えられて、夫々に与えられたご人生の中で、何かできることを知恵をいただきながらなして行けます様に。上からの豊かな信仰と知恵が与えられます様に。       M.O.
 (聖書引用は日本聖書刊行会編集新改訳聖書)
 
12月1日
マタイの福音書5章4節「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・先日高橋兄からご連絡があり、来週の祈祷会から参加出来るということでした。生活にゆとりが無く、着るものが無いということで本多牧師が古着を準備したいと申されておりました。また祈祷会では高橋兄の為に祈祷会のお話は求道者向けに、聖書の御言葉だけを中心としたお話にいたしましょうという事でありました。
(2)でボーションはエレミヤ書最後からです。バビロンもまた滅びへと導かれてゆく歴史が書かれております。ネブカデネザル王は当初自国外部(エルサレム)からエレミヤによる預言が与えられ、バビロン捕囚が成されますが、今度はバビロン捕囚の民の中からダニエルを通して自らの偶像崇拝を止めるように預言が何度も与えられます。しかし本格的に回心することなくバビロンはやがて滅んでまいります。イスラエルとバビロンの歴史が立体的に重なっておりとても面白く読めたそうです。
(3)安先生・・マタイの福音書4章19節「イエスは彼らに言われた、「わたしについて来なさい、あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」より、食べること、有名になること、能力を発揮すること等より、イエス様の御言葉を勝ち取り、イエス様に従う事の方が大切であり、礼拝を守ることが最も大切なことであることを教えていただいたそうです。
 ネパールの医療宣教師の方の言葉に「イエス様に御計画があります」というお証の言葉があるそうです。未来の事を思い煩うことなく「イエス様にご計画があります」ので全てをお委ねし、イエス様に信頼してゆくことが大切であるとお話されておられました。
(4)小澤・・「ファーブルの生涯」G.W.ルグロ/著を読んでいてパスツール(細菌学者・・生命が自然発生することはないという事を実験的に証明している人)さんが訪問してきたときのことが面白く書かれておりました(両者ともに非進化論者です)。また、ファーブルさんは生まれたばかりの赤子が死んでしまいますが、この時の絶望的な苦しみ悲しみの文も載っており、驚きました。しかし最後は「ああ、唇をついて出る息もいまや絶えようとし、目はひたむきに空に向け、そして神様の御手にゆだねられようとする霊魂のなんと美しかったことか!」と書かれあります。苦しみを通った人でないと分からない心、信仰者でないと分からない感慨が書かれていると思います。イエス様に栄光があります様に。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・皆さんの中ではどのような悲しみを経験された事があるかについて問われました。
(2)小澤・・昔妻に不治の癌の宣告がなされた時、病院からの帰り道、妻と二人で相模川の岸辺に立ちつくし、何も語らぬまま二人でじっと川の流れを見つめていた時のことを思い出しました。・・・
(3)安先生は子どもの頃、父母が共働きのため祖母に守り育てられてきました。その祖母が召された時の悲しみが非常に大きかったことをお話されました。
(4)本多牧師・・順子先生が召された時、一日中泣いておられたそうです。・・また牧会上では信徒の方と心の通わない時くらい苦しい事は無いと話されておられました。
 詩篇32編3・4節「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」・・自分で分かっている罪を告白しないことくらい苦しく悲しい事は無い。どこまでも罪が、悲しみ苦しみを引き起こして行くことが分かります。
 イエス様が十字架にお架りになる前にエルサレムをご覧になり、この都の為に泣かれたことが書かれてあります。愛してやまないエルサレムがついに悔い改めることをせず、滅んで行くことを目の前にして悲しみのための深い涙でした。・・・神の教会の滅亡もまた同じでしょう。韓国では最近のニュースでは1万以上の教会がコロナ禍の為に礼拝出席者が激減し、献金も集まらず閉鎖されたそうです。日本でも同じです。信徒の高齢化により礼拝出席は増々減ってきている現状があります。麻溝台キリスト教会も同じです。・・これらのことについて、信徒一同がイエス様と同じ心で泣いてほしいと本多牧師は語られておられました。
 教会の弱体化の原因のもう一つとして、牧師が信徒向けに表面的に喜んでもらえる説教をするようになった時であろうと反省的に語られておられました。また、これとは別に日曜学校向けには分かりやすいメッセージが必要であり工夫が必要とのことでした。
 先週、安先生のメッセージでは「神の御心に沿った悲しみ」が語られておりましたが、麻溝台キリスト教会の悔い改めの必要として、昔の麻溝台キリスト教会では一時期牧師と信徒の間にいざござがあり、総会などが紛糾した時代があったそうですが、現在の私達が関係ないという事ではなく、当時の人々の負った苦難や、混乱について赦しや悔い改めを今の私達自身が祈りをもってイエス様のお許しを願う事によってしか、麻溝台キリスト教会に真にリバイバルをイエス様から頂く方法はないとお話されておられました。
安先生・・富める信徒が一人いて高額な献金を捧げるより、たとえ献金額は少なくとも多くの信徒の方がお捧げ出来る教会が良い教会であると韓国では言われているそうです。
 麻溝台キリスト教会は地域的には保育園が近く、大学も近く、子供達も比較的来やすい環境がありますが、内部の現状において教会にリバイバルの準備が十分なされているかと言えば、そうではなく一人一人の信仰の成長が問われていると思いますとお話されておられました。
 クリスマスツリーが現在玄関に飾られておりますが、高齢者の団欒する場所が失われていることを深く心配されておられました。(本多牧師もこの事を気にかけておられて、土曜日にクリスマスツリーを移動させましょうという事でありました。)
3.祈祷タイム
(1)時間の都合で主に参加者相互の守りと祝福の為のお祈りとなりました。
(2)本多牧師・・麻溝台キリスト教会の将来の為にはどうしてもクリスチャンホームが多数与えあられることが重要であり、各クリスチャンの御家族の救いの為にもさらに祈りが必要という事でした。また外部から転入者でもクリスチャンホームが導かれるようにお祈りしましょうという事でした。現在コロナ禍で教会を離れておられる兄弟姉妹方も教会へ戻れるようにお祈り致しましょう
(3)安先生・・麻溝台キリスト教会は現在は人数は低迷していますが、本多牧師の祈りと牧会により、霊的に一番素晴らしい時代が訪れたと言われるような教会に成長できます様にと語られておりました。
(4)夢と幻をイエス様から頂いて、祈り続けてまいりましょう。  
 聖書個所引用は日本聖書刊行会による新改訳聖書です。
M.O.
 
2021年 11月  
11月24日 マタイの福音書5章3節「心の貧しい者は幸いです。」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)牧師先生・・先日、高橋兄からのご連絡がありました。祈祷会への参加方法を今後、岡田兄と共に検討して行きたいという事でありました。高橋兄の住所は小澤が教会へ徒歩で通う道沿いにあります。深いイエス様の導きがあるかも知れません。祈り続けさせていただきましょう。
(2)小澤・・最近読んだロイド・ジョンズさんの「山上の説教」の本で、山上の説教はキリスト様の弟子達に語られているもので、一般の人々に語られているものではないことを強調されており、その中で一般社会で犯罪により監獄へ入れられたり、死刑にされたりすることは直接この説教とは関係が無い、全く別の事であり、このことを混在している人として晩年のトルストイさんのお話が載っておりました。トルストイさんの晩年はご本には裕福な方でしたが、敢えて貧しい人々の中に入り、孤立した生活をしていたことは知っておりました。また、トルストイさんの書かれた「靴屋のマルチン」「イワンのばか」「三人の賢者」等、上げればきりのないとても素晴らしいお話をキリスト教の教えと深く関係して書いて下さった方であり、その中で私は自分自身が聖書理解の浅さに気づき多くの事を教えていただいている者です。また哲学の世界では「論理哲学論考」等を書いて、現在でも有名な論理哲学の一つの理論を作ったヴィトゲンシュタインさんが第一次世界大戦の塹壕の中でトルストイさんの書いた聖書(当時トルストイさんは一般的カトリックの使用している聖書の内容に不備があるとみて独自に古典聖書を再編集し直しています。)を読んで信仰生活へと進んでいます。不思議なことがあるものです。しかしトルストイさんが死刑や非戦論を掲げて一人孤軍奮闘している状態に、ロイド・ジョンズさんはこの「山上の説教」の考えを全ての未信者の方にも適用しているいう誤りを犯しているとして、国の戦争にクリスチャンが出征する事も問題ないとしています。ロイド・ジョンズさんは優れた理論的な山上の説教解釈を書かれていることで有名ですが、私は最後の方でこのことを語られているのを見て、ロイド・ジョンズさんは政治と宗教を分離しているダブルスタンダードの価値観を持っているのではないかと、しばし疑問に思われました。色々な形の信仰形態がありますので良し悪しは簡単には人間が判断することはできませんが、このことについて本多牧師のお考えをお聞きしました。
(3)本多牧師のお答え・・トルストイさんの信仰は必ずしも正統なものではないことが知られており、一般的にも本当の救いを受けていなかったのではないかという理解がある事。またロイドジョンズさんも必ずしも全てが正しいというわけではなく、どこまでも聖書が何を言っているかという事が大切であり、多読により色々な人々の聖書理解から学ぶ事は大切ですが、祈りつつ聖書に聴くことが大切ですというお話でした。確かにですね。・・小澤はしかしこの事を通してトルストイさんの信仰を今までは鵜呑みにして、特に問題意識を持たないでしましたが、確かにその晩年の行動全体を見ると何か悲しいものがあり、孤軍奮闘しておられる姿には感謝いたしますが、トルストイさんの信仰の形にはボーンアゲインしているというより、律法的なものにこだわり過ぎて、聖書の本質的な大切な何かに気付いていない面があったかもしれないという事に初めて気づかされました。この事は私自身も反省すべき問題もあり、真実にキリスト様と共に生きるという事を祈りつつ反省しつつ更に深く学び続ける必要があることを思わされて、とても感謝でした。
(4)安先生・・ゼカリヤ書8章13節「ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのようにわたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」により励まされたそうです。日曜日に子供祝福式に子供達が集まるかどうか不安であったそうですが、へヨン先生には信仰が与えられたそうです。期待どうり3人もの子供達が招かれて主の祝福を受けることが出来ました。この事を偶然と捉えるか、神の深い御愛と約束と捉えるかは人により異なるでしょうが、お祈りをお聞き下さっておられる主の御業であることを語られておられました。
3.聖書の学びタイム
(1)本多牧師・・「貧しさ」とは「ストーコス」という言葉であり物乞いをするという言葉です。ルカ書では「貧しい人」となっており、マタイ書では「心の貧しい人」となっています。人は自らの心の貧しさに気付いて初めて神の国とその義を求める事の大切さに気づきます。財産的に富んでいる人は更に祝福を求め続けて与えられた富を神様の為に使用出来るように祈ることが大切です。シンガポールの富豪の中には10分の9を主にお捧げして、ご自身は一般家庭用の自家用車を使用しておられるクリスチャンもおられるそうです。財産的に富んでいるかどうかではなく主に仕え、主と共に歩むことの大切さを語られておられました。ローマ書14章17節「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」コリント人への手紙第一1章31節「まさしく「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」
「まな」に掲載した「順子とともに」を作られている時、写真集の整理をしながら同時にいつもイエス様の事を考えている自分に気付かされたそうです。テモテへの手紙第2 2章8節「イエスキリストをいつも思っていなさい。」この事に改めて気付かされて感謝であったそうです。
 西山兄との聖書の学びでも、サンレモの真のオーナーはイエスキリスト様であることをお伝えしたそうです。すごいですね。
祈祷タイム
(1)本多牧師・・教会の祈祷課題に書かれた通り、信徒一人一人が御家族を愛し、親戚を愛し、職場の方々を愛することが出来ます様に祈りましょうという事でした。
(2)クリスマス会の祝福をお祈りいたしました。
(3)安先生の4月以降の宣教地が最善に導かれます様に。
(4)安先生・・教会は神の家族です。一人一人の偏見の壁が主により取り除かれて愛し合う事の出来る祝福が与れますように。
(5)礼拝に参加出来た子供達に主の祝福があります様に。
(6)神様のお力により一人でも多くの求道者の方が教会に与えられます様に。
(7)お仕事についておられる人には、その働きの上にも主の豊かな知恵が与えられます様に。

 こうして皆さんが心を尽くしてお祈りをお捧げできました。イエス様に心から感謝申し上げます。 M.O.
 (聖書引用は日本聖書刊行会の新改訳聖書です。)
 
11月17日 マタイの福音書5章1〜12節「山上の説教:8福の教え」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)小澤は最近ジェネシスジャパンサイトで読んだファーブル(昆虫学者)さんのお話をいたしました。進化論のダーウィンさんとは友達であった様ですが、ファーブルさんは昆虫の生態(特に本能の働きを詳しく研究しています。)から自然世界は進化論では到底解明出来ないことを終始語られておられた方です。次の様に語られています。「自然選択の法則と範囲の広さに私は感銘を受ける。しかしその法則を事実に適用する度に、私を混乱の中に置き去りにする。それは事実の解明には全く役立たないからだ。・・根拠の無い理論では闇を払えない。闇の中でこれ以上時間を無駄にするのはやめようではないか。事実に立ち返ろう。謙虚な事実に。それこそ我々の足元がすくわれることのない唯一の基盤なのだらか。」「科学的に言えば、自然は人の好奇心をもってしても明確な解答の見出せない謎である。仮説には仮説が従い、ガラクタの理論の山はふくれあがり、それでもなお真理は私たちから逃れる。知る術がないことを知ることこそが最後の知恵の言葉となるかもしれない。」と語られていたそうです(ジェネシスジャパンホームページよりの抜粋)。・・・これらの自然科学論に対する見解は彼の詳細な自然観察から生まれた感想であると思います。今日でもまたこの言葉に反論できる科学者はおられないであろうと思いますし、私のライフワークとさせていただいている創造論調査研究においても、この自然理解の立場はほぼ同じ感想であります。(私の場合は、逆にこの人間理解の限界という立場から、より聖書の啓示を土台として、正しい自然科学の再構築を進める方向で調査研究をさせていただいております)。興味のある方はファーブル昆虫記をお読みになるととても面白いですよ。宇佐神正海牧師による「創造科学研究会」が日本でも作られており、私も一時加入しておりましたが現在は都合により退会しております。とても面白い話題が多くて学ぶことが多い研究会です。ジェネシスジャパンはその流れの中にあるようです。
(2)安先生・・創世記12章1節「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」」より、アブラハムの当時の生活は次のようでした。@弟のハランはカルデアのウルで死んでいます。Aアブラハムの嫁のサラは不妊でした。Bこの先どこへ行けはよいか不明でした。・・・この3重苦の中でアブラハムはただ神の御言葉を信じて旅立ちます。神様の御言葉こそが全ての祝福の基となることを改めてい深く教えられて励まされたそうです。すごいですね。私はこの個所を読んでいて主のご計画として「生まれ故郷を離れて私が示す地に行きなさい」と言われた言葉の深い意味として、クリスチャ全員はこの地上で生まれましたが、神の御心はここにとどまることではなく新しい天と地へ導かれようとされておられるように思われました。深い神様のご摂理の中で私達クリスチャンはそれぞれ導いていただいている様に思います。イエス様に感謝です。
(3)本多牧師・・黙想中のエレミヤ50章より、バビロン(カルデア)が初期には神様の御言葉に従って祝福を受けたが、やがて偶像崇拝となり昔のイスラエルと同じように滅ぼされるという記事の箇所です。ここでは6節には「私の民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。」とあります。ここではイスラエルの牧者達が神の言葉を正しく聴いて、民に語らなかったことの責任が問われています。・・本多牧師は御自身の事として聖書に御言葉を聴いて、正しく伝える事の大切さを改めて深く教えていただいたとお話されておりました。
(4)小澤は最近、本多牧師のメッセージビデオを教会HPに掲載する作業を開始しておりますが、本多牧師はなるべくシンプルな形を望まれておりました。また、そのページの初めに私は本多牧師の小コメントを載せたいと思っております事をお伝えしました。昔の私の教会はホーリネスの流れですので聖めの教えが強調されますが、「礼拝メッセージは今死なんとする人が、今死なんとする人に語る言葉である。」と語られた牧師がおられたことを学んでおります。ですから礼拝ビデオぺージは大切でありますので、祈りつつ取扱いに注意をしておりますが次回礼拝後に本多牧師にとりあえず試作したページ案のコピーをご確認していだき、その後にサイト掲載を試みようと思っております。皆様もこの礼拝ビデオページが一人でも多くの一般求道者の方々に活用されて、救いへ導かれます様にお祈りをお願いいたします。
2.聖書学習タイム
(1)小澤・・マタイ5章の山上の垂訓は聖書のとても大切な個所であり、私も何度もこの御言葉により励まされております。この世の一般的価値観とは真逆な説教でありますが、真理の恵みの説教であると思って学んでおります。
(2)安先生・・これは、直接には弟子達に語られたメッセージであり、群衆を離れてわざわざ山に登られて大切な弟子達の生き方を教えた個所であると思います。この内容理解はイエス様の弟子となる事、信仰が与えられて成長することにより、深く理解する事が出来ることを語られておりました。
(3)本多牧師・・山上の垂訓は旧約聖書も全うされており、人間を知り尽くた方の語られることのできるメッセージであり、弟子道であることを示しておられました。また教会のあるべき姿でもあるという事であります。
 昔、太宰治さんがこの聖書の箇所に感銘して何度も読んでおられた様ですが、最終的には自害されてしまいました。このことは弟子達の生き方として8福の教えが人間の力では不可能であることをも示していると思うという事でした。そもそもご聖霊様によらないでは到底実行不可能の世界であるという事であります。自己を祈りつつ反省すれば信仰の与えられている方であれば誰でもうなずける事と思われます。
 コリント人への手紙第二:3章18節「私たちはみな、顔おおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、ご聖霊なる主の働きによるのです。」・・ガラテヤ人への手紙:5章22〜23節から「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」・・同25節「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」と聖句を語られました。昔本多牧師の教会では長年信仰生活を送られてくた信徒の方が転入され来たたことがあったそうですが、その方は本多牧師のメッセージにより初めてご聖霊様の存在を知ったと話されていたことがあったそうです。教会により色々な信仰の形があると思いますが、聖書全巻をより正しく学んで行く必要を強く思わされますね。祈りましょう。
 この世では「ハッピー」という言葉が使われます。この語源は実は「ハプニング」から来ているそうです。偶然の世界の出来事という事です。しかし聖書の8福の教えは神様の恵みにより与えられる変わることの無い真の幸福の教えです。本多牧師は目標を持って祈り続け一歩一歩この教えに近づいて行くことの大切さを語られておられました。感謝いたします。
3.祈祷タイム
(1)教会学校生徒達の為に祈りました。子供達もいつか礼拝出席が出来ます様に。
(2)西山兄が手の骨折の中でご苦難の中働かれており、月曜の聖書の学びに参加出来ない日が続いております。癒しを祈り続けましょう。クリスマス会での洗礼式の守りと豊かな祝福を祈り続けましょう。
(3)本多牧師が心身共に、また霊的にも豊かに祝福されます様にお祈りいたしました。
(4)安先生の新しい牧会者としてのご奉仕先の教会への道が着々と整えられます様にお祈りいたしました(安先生の到来を首を長くして祈り待ち望んでいる教会が必ずあるものと信じて祈りました)。これからも心を込めてこのために祈り続けさせていただきましょう。神様の栄光が現わされますことを信じましょう。    
M.O.
(聖書引用は新改訳聖書:日本聖書刊行会)

 
2021年 3  月  
「まな」2月号巻頭言

十字架の春 

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

                                             マタイ2746

 仕事の合間に、外に出てみる。午前中の、教会の駐車場には春の穏やかな日差しが心地よく差し込んでいる。とっても気落ちが良い。数分間、体を動かしたり、祈ったり、黙想したり、とっても大切な時間のように感じる。そんな時、ふと下を見つめると、春の日差しに応えるかのように、雑草という名の草が芽吹き始めている。ブロックの隙間から春が来た! 私、生きているわよー!と歌う、声なき声が聞こえてくる。何度も、何度も、雑草刈りをしては、抜き続け、枯らし続けたのに、たくましく、また芽生えてきた。いずれ、今年も、雑草抜きをしなければならないと思いつつ、彼らのたくましさに感動を覚える。春だ、春が来た!

 教会の駐車場だけではない。もうすでに桜も咲きほこった所もあり、また梅の花々が咲きほこり始めたところもある。水道道のあの歩道は、季節を告げるメッセンジャー。今日は何が芽を出したんだろうか、どんな木々が芽吹き始めたんだろうか、寒い風が吹き抜けても、心の中の楽しみが増えている。そんな時、やはり、心は創造者に向いていく。こんな素晴らしい自然とその営みをなさしめている創造者なる神の偉大さに感動を覚え、心からの賛美がおのずと出てくる。相模原公園には春の喜びを体いっぱいに楽しんでいる家族がいる。楽しそう! この家族一つ一つに、創造者なる神の思いが届き、神をほめたたえる家族になって欲しいと願う。春、そして、春、創造者なる神の御業に直接触れる豊かな春。もう一度、言います。主よ、あなたを称えます! さー、すべての人よ、思い切って、この春も造られた神をほめたたえようではありませんか。あなたが感動するどんなことを持っても、神を称えようではないですか。そうすれば、神もあなたを祝福するでしょう。神を褒めたたえることは、心に美しい春を迎え、また楽しい春を作ることです。サー、やってみましょう。

 しかし、一旦、目を主に向ける時、主にとっての春は十字架の春。イスラエルの春も、砂漠や荒野に囲まれながらも、あちらこちらと芽吹く春。乾ききった大地の中に緑豊かな季節の春。人々の心もどこかウキウキする春。しかし、主の春は十字架の春。一歩一歩、日ごとにエルサレムを目指すその足は、そしてその顔は、そしてその心は一段と厳しさを増し、悲しみを増していく。ああ、エルサレム、エルサレムと、エルサレムに近づくほど、主の嘆きは増し、その足は一歩、一歩と十字架に近づいていく。そして、敵もまた主に近づいてくる。裏切る者も、また、その時を待つ。そして、聖なる都にて、ついに主は捕らえられ、裁かれ、ゴルゴダの道を、十字架を背負って上っていく。悲しみの道、ドロロッサ。主の上っていく道。そして、ついに主は十字架に架けられる。そして叫ばれる。「我が神、我が神、どうしてお見捨てになったのですか」と。春の日の天空に、主の叫びは響き渡り、いつしか、その声は全世界にこだました。二千年の時空を超えて、わが耳にも、わが心にも、その叫びは届き、何故、主は、その叫びを叫びしや、と思う。そして、主の十字架の祈りも、聖なるこだまとなって、全世界の人に、そして再び、わが魂にも聞こえて来た。「父よ、どうか、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と、天の御父に祈りつつ、「完了した」との声、聞こえる。主は、汝のために、汝の罪の為に、十字架に架かられたと、聖霊、教えられた。主の十字架の春、それは、わが救いの春、希望の春となって届く。主の悲しみと苦しみの涙は、わが歓喜の涙と変わり、わが人生に希望の春をもたらした。主の十字架の春、わが人生の歓喜の春となれり。                                わたしの独り言より

 
3月3日   第一コリント13章5節「愛はいらだたない」より。

 コリント書より、継続的にクリスチャンの愛の意味を学んでいます。
怒る、憤るという事は真実の愛をイエス様にいただく中ではじめて真理、真実に気づき自ずから解消されるものであるということで、真実の愛に近づけば近づくほど、無意味な苛立ちはなくなってくるという事であります。イエス様が怒られたケースとしては2種類があげられました。@マルコ3−5(安息日の癒しのお話)Aマルコ11−15(宮で商売をする人たちを追い出すお話)です。@は貧しく病める人々を深く思いやるイエス様の心からの愛であり、当時のユダヤ教が形式化されて人を本当に愛する憐れむ心が失われていたことを明確に示します。Aは宮浄めですが、真実な愛は真実で真理である神から来ますが、その宮が商売の場と化している現状に苦しまれ怒られたイエス様のことが書かれたおります。今日のアメリカでも本多牧師の読まれた本では、演劇を行ったり派手にパフォーマンスに凝る教会もありますが、内情はかなり真のキリスト様の愛からずれており、悲しむべき状態にある教会が多いそうです。神の怒りがここでもおそらく強く表れていることであろうと言われておられました。
 感謝な、怒りの例では安先生が昔、暗い夜に車をバックさせようとしたときに大きくクラクションを鳴らされたそうですが、その時もしクラクションを鳴らしてくださらなければ事故を起こす危険がありとても感謝したそうです。本多牧師の場合は若い神学生のこ横浜の教会でご奉仕されていたそうですが、ある時、牧師先生に呼び出されて横浜の山々に響き渡るくらいの大声で叱られたそうです。それは牧師の愛からでた加積であり本多牧師の高慢を打ち砕き、今でもその牧師に心から感謝しておられるとのことです。私は最近「讃美歌・聖歌物語(創元社)」を読みハヴァ―ガル(1836年〜79年・・病弱の為若くして召されてしまいましたが。)さんのお話を知りました。讃美歌332番「主は命をあたえませり」を書かれた方ですが、牧師の末娘として賛美に優れた才能を示されていた方ですが、田舎の教会生活の中、若いころにキリスト様を愛することが出来ずに泣いたことがあるそうです。しかし15歳の時に罪が許された喜びが与えられ、更に37歳になろうとするとき「全てをイエスに」という本を読んだことがきっかけとなり、復活のイエスを体験することができその喜びが満ち溢れるようになります。彼女の書いた詩に次のようなものがあります。「かっての私の魂には、大海の様な底知れない広い波打つ深淵がありました。そして何ものかが、その波を無限に静めてくれることを、わたしは無限に懇望していました。しかしいまはあなたの完全な愛が、その深淵を完全に満たしています。主イエスキリスト、わが主、わが神よ、あなたこそは、私を満ちたらせ給います。」というものですが、私はこの詩に非常に共感を覚えました。教会もまた本多牧師の言われるように神の愛に満ち満ちた教会へと進んでゆくことが来ますようにお祈りいたします。牧師は愛は遠い外の人に対する愛だけでなく、最も身近な家族から始めることが大切であることを語られておられました。正にその通りであり、強く反省させられることだと思います。教会員皆様の祝福をお祈りいたします。
(付言)本多牧師は2月のマナ巻頭言に書かれたメッサージが発案されたいきさつを語られておられました。「十字架の春」・・祈りながら何の手ごたえもなく外に出て散策しようとされたその時に見た雑草の花、ご聖霊様の力強い導きを与えられ一気にこの文章を書かれたそうです。。とても感動する素晴らしい内容です。ぜひ皆様もお読みになられて、キリスト様のご愛の深さ、暖かさを体験されますようにお祈りいたします。
 報告者  M.O
 
3月10日   第一コリント13章5節「悪は人のした悪を思わない」

 私は腹痛のため1時間遅れて祈祷会へ到着により、今日は主に祈りのみの集会となりました。夜間歩いている時、オリオン星座が美しく輝いており、全天全地を造られた主の雄大さとイエス様のご臨在を覚えながら教会で牧師先生方と祈りの時が持てました。
今週のメッセージは牧師先生のお話がとても霊性が高く恵まれましたが、実は今週のメッセージはなかなかまとまらず、最終的に「主に語らせてくださるよう」熱心に祈りながらお話を開始されたそうです。そうした中、自由に語れるように主がお導きくださり、原稿に無いことをかなり多く語ることが出来たそうです。
 本多牧師は高校生の時に宣教師に導かれて救われましたが、それまでは本を読んだこともなく、一冊だけ知人に勧められて恋愛小説を読んだだけだったそうです。ですから牧師となりはたして人に話せるだろうかという心配をいつもお持ちであったという事です。しかし不思議なことに現在ウィクリフの福永先生が北海道で結婚されるとき、お送りしたお祝いの文章「くすぶる灯心を消すことなく。」を読まれた児童書出版社の方が、この文を書かれた人はどのような方かという事で問い合わせがあり、直接結婚式場で本多先生にお会いになられたそうです。祈りつつ書かれた文章には霊的な愛と力が与えられますので、本多牧師に深い知恵が与えられたのであろうと思われました。本多牧師はその後ガリ版すりで御言葉の解説書などの印刷を汗をかきながら牧会されて来られましたが、挿絵などもとても上手です。またこの時牧師は宗教改革時のカルバンさんが書くことの大切さを語っていることをお教えくださいました。読み考えかつ書く、この繰り返しが大切で書くことにより霊的にもしっかりと自分自身が成長するという事であるという事です。単に本もただ読むだけでなく自分なりに学べたことをまとめて書くという事の繰り返しが人の魂を育ててくれるということでありましょう。このことは数年前から私も読書した後で恵みをパソコンにまとめて記録することが自然になりましたが、確かに書くことは頭脳の活動や心の活動に大変良い影響を与えると思います。右から左へと読み流してしまうのとは異なり、明らかに自分自身の血となり肉となり、人生に着々と実をつけてくれることが実感として分かります。皆さんもぜひ聖書や参考資料を読まれた後に自分なりに感想等を書く習慣をお付けになると新しい発見や深い思いの世界を身に着けることが出来るようになると思いますのでお試しください。
 ソヘヨン先生は韓国で3月末には病院で検診が受けられるそうです。帰国後のコロナ対策により隔離期間があるためにこのようになっていますが、検査が上手く進んで癒しへと進めるように祈ります。ソヘヨン先生のお父さんはご病気ですが、お母さんはお元気で現在も新生児を保育する職場で働かれているそうです。このような環境であればアンジュちゃんもきっとしっかりと守られていることと思い安心しました。これからも安先生ファミリーのためにお祈りください。
 私は最近ヘンリー・F・ライト(1793-1847)、幼くして孤児となりますが最終的にスコットランドの牧師となります。有名な讃美歌39番「日くれて四方はくらく」という歌詞をつくられた方ですが、田舎町の牧会をされていた方ですが、ある時に老人の臨終の席に招かれた時、この病人は「abide with me!」(一緒にお泊り下さい)と言って息が絶えました。このことは牧師に深い感銘を与え、後にこの賛美歌「日くれて四方はくらく」が生まれることとなりました。この言葉はもちろん聖書に書かれている言葉でイエス様が十字架にかかられた後2人の弟子が故郷のエマオを目指して肩を落としながら帰宅するときに、出会ったイエス様に語った言葉です。おそらくその老人は最後に復活されたイエス様のお姿を拝見して感動してこの御言葉を我知らず語られたのではないかという気がいたします。私はこの賛美をインターネットで聞き共に賛美しながら、輝く大きな十字架が目の前に現れてきたように感じました。それは私が今で十字架の意味として罪の贖いという大切な意味は理解しているつもりでいましたが、それ以上に実は十字架はイエス様がお開けくださった永遠の命の世界への扉であることに深く気づかされたのです。人類にはアダムさん以降全員に死という枷がつけれて誰もこの死という現実を逃れることはできません。しかし天地創造の主の真実の深い愛の思いは罪の許しだけでなく死を正にうち破ることに向けられており、キリスト様が正に光り輝く十字架により死の影の谷を打ち破り、永遠の命輝く世界へと私たちを導かれたのであることを強く示されました。旧新約聖書全巻を通じて神様のあまりに深い御計画とその実行の御業に改めて驚かされました。感謝でした。私は小さな僕に過ぎませんが今後も貴い十字架を見上げつつイエス様に守られながら、一歩一歩命の道を歩み続けさせていただきたいと思います。
折しも、敬愛するM姉妹のお母さんが最近亡くなれたというお話をお聞きしました。心痛、いかばかりかと案じますが、しかし十字架のイエス様は生きておられるので、M姉妹に豊かな慰めが与えられるように祈ります。
 教会員全員の祝福のために祈祷会で3人で心を込めて祈らせていただきました。
 報告者  M.O
 
3月17日  第一コリント13章5節 「愛は人のした悪を思わない。」

 クリスチャンの愛の目標を継続して学んでいます。
人を恨んだり悪意をいだいたりするなど一日に10の罪を犯したら、365日で3650回、60年なら219000回の罪を犯すことになります。いったい誰がこのような罪を許すことができるでしょうか。インドネシアのある青年が瀕死の重傷を負って天国の門の前に来た時自分の犯してきた罪のファイルを見せられて、正にこれは私のなした罪ですと告白した時イエス様が一瞬にしてその全ての罪をお許しになり、そのファイルは真っ白な空白となったという事です。
 本多牧師が静岡で牧会されている時、なんと8年間も一人の信徒の方との睨み合いが続き、牧師だから許そうとしても許せない中で祈りつつ激しい葛藤の中でついには暴風の静岡海岸をバイクでぶっ飛ばしたというお話は有名ですが、最後にはその苦悩の道も最高レベルまで達してついに富士山の頂上に至った時、正にロマ書6〜8章を読む中で、十字架の深い意味がドーンと牧師の心の中に入り、瞬間的に全ての自分の罪も相手の方の罪も一遍に洗い流されてどこかへ跡形もなく消え去ってしまい。その人も心から愛せるようになったという事です。これは正に十字架そのものの、ご聖霊様によるご経験であるでしょう。キリスト様の十字架の意味がご聖霊様により体験されるとこうした奇跡が起こります。牧師先生のお話では色々な教会内もいざこざが起こることがあるそうですが、人を許せないというようなことは正にこの聖書の十字架の本当の体験を未だされていない自我が残っているという事によるものと思いますとのことでした。救いはイエス様の十字架を仰ぐことに寄り与えられますが、クリスチャンにとってそれは出発であり十字架の真の意味を更に真実に深く体験する事がとても重要で、聖めの世界でしょうか、どこまで行っても更に主の栄光の世界が広がっているという事でありましょう。山頂を目指しましょう。
 本多牧師のようにご聖霊様による御言葉経験を与えられると、人から何を言われても全然傷つくことが無くなりとても感謝溢れる平安な人生を送ることができるという事です。
 安先生は個々の人が負っている十字架は到底一人では持てないほど重いのです。しかしキリスト様が私に肩代わりしてその十字架を負ってくださるので、私は身軽になることができますと言われておりました。今のコロナ時代に教会の礼拝に来れずに自宅礼拝をやむなくされている方々が守られ祝福されるように継続して祈りましょうと言われておりました。
 本多牧師の続きのお証では、昔韓国の祈祷院にイ・スグ牧師と共に行かれたそうですが、その時に祈祷院に案内してくださったのは高齢の婦人伝道師の方でしたが、その方は日本で伝道されておりましたが、息子さんが病気になり治療のために韓国の病院に入院となり、翌日は手術があるというのに、その日もずっと本多牧師達を案内されており、息子さんのことはイエス様にお委ねしていますというお話だったそうで、とても感動したという事でした。その婦人伝道師はご主人以外の親族を日本人に戦争で殺されたそうです。しかし日本人の救いについて心からの使命を感じて、九州から北海道まで祈りつつ旅をされたそうです。全くびっくり仰天のお話であり、名前は知られていなくとも、正にこうした貴い主の器の方々の継続的祈りにより日本の教会は支えられ、救われる方が起こされているのであることを強く思わされ納得させられました。私などは取るに足らない小さな僕ですが、祈り続けることの大切さをつくづく教えられ励まされるお証でした。イエス様に栄光がありますように。
 報告者  M.O
 
3月24日 第一コリント13章5節「愛は真理を喜ぶ」

 安先生は体調がすぐれずに今日はお休みとなりました。
 私は娘達が作業所で少しずつ着実に恵まれていることをお証させていただきました。また引き続き牧師先生にお祈りいただきました。
教会が健常者だけでなく、障害や苦難困難の中にある兄弟姉妹と励まし合い祈り合える場所であることは聖書的にもとてもバランスの取れた健全な教会であることを学び、牧師先生と共に祈らせていただきました。
 教会が聖書的本来的成長をなしてゆくには牧師先生や宣教師の方々の並々ならぬご苦労があります。信徒と牧師が共に祈り合う事の出来る教会でなくては真実の教会成長は望めないでしょう。牧師先生が孤立して病気になったり極端の場合は自死してしまったケースもあるそうです。悲しいことで胸が痛みます。・・・しかし現実には多くの教会で色々な課題があり、現在もご苦労されている牧師先生がおられることと思います。安先生もこれからご家族を抱えながら、来年以降新しい牧会地に向けて出発されようとしておられます。宣教師という特殊な要因も抱えながらの伝道の出発であり、色々と乗り越えてゆかなければならない出来事に遭遇することも多いのではないかと思います。安先生ファミリーが無事にそうした困難を乗り越えながら、キリスト様のご愛に満ち満ちた教会づくりが出来るように、特にお祈りさせていただきました。
 祈祷会はいつも深い聖書の学びがあり、私の様に欠けだらけの者もさらに謙遜に徹して十字架を見上げつつ歩むことの大切さを常に豊かに学ばせていただけてとても感謝です。主のご臨在に満たされて毎週教会員の方々の祝福の為に継続的に祈らせていただくことは信徒にとっては実は限りないイエス様の祝福の中を歩むことに直結します。皆様も是非、お忙しい中とは思いますがデボーションの時を大切にされて、兄弟姉妹方と共に祈りの時が持てる時はぜひそのようにされることをお勧め致します。主の祝福が皆さまと共にありますように。

 報告者 M.O
 
3月31日 第一コリント13章5節「愛は真理を喜ぶ」

 御言葉の解説は本多牧師より通常の世の中の真理は教理的になり、そのままストレートに聖書を語っても、かえって人々や教会の兄弟姉妹を裁く結果となり、その語られている内容が真実でも真に聖書的メッセージとはならずに問題を生じることが多いという事をご経験から解説してくださいました、北海道の牧会をされている時もなかなか教義的な信仰の中での活動でありご苦労されたという事です。弟子訓練を通じて初めて牧師の信仰の真実の在り方を学ぶことが出来て大反省の中、愛の教会づくりへ向けて再出発できたそうです。このことは信徒にとっても重要なクリスチャンライフの在り方を教えてくださっておられます。どんなに深い教義を学び、どんなに広い教養を身につけて聖書の理論を学んでも、もし愛によってその聖書の真理を語らないならばそれは真に逆効果しか現わさないという事を教えてくださっておられます。安先生も昔の教会で同じことを牧師先生から言われておられたとお証されていました。やはり深い経験をしてこられると聖書の真理は単に紙に書いただけでは命が宿らずにこうした問題を起こすものであるという事を思いました。私はデボーションでエゼキエル書の箇所へと読み進んでいますが、同じように何とエゼキエルが主から幻を与えらえたことはエルサレムの神殿内で祭司や長老が壁の隠れた奥で偶像に捧げものを捧げている姿でした。壁には偶像の絵がいっぱいの状態です。このことを主が憤られてイスラエル崩壊へと繋がりますが、この時も主は全てのイスラエル人を滅ぼすのではなく、破壊の御使いと同時に書記の御使いを一人同時に遣わし、このイスラエルの状態を嘆いている人々は滅ぼさなかったことが書かれています。一人一人の信仰を顧みておられる主のお姿に感動させていただきました。・・・同じように教会そのものの内部でも本多牧師の言われるように牧師自身が信徒や他の牧師を裁くことが起こってくることがあり、そうした中で苦難困難の試練を受けておられる牧師先生がかなりおられるのであろうかとつくづく祈りの必要を教えられました。本多牧師がいつもメッセージを準備され講壇で語られるときは正にこのイエス様から与えられた強い愛を土台として心のなか中にいただきながら真理の御言葉をしっかりと語るようにしておられるという事です。またもし教会を愛することが出来なくなった時は牧師を止める時であると覚悟しておられることを述べておられました。びっくりしました。しかしこのことは聖書の真理を語る牧師本来の姿勢でもあるのであろうなとつくづく深く教えていただきました。御言葉が生きて働くとはそういうことを言うのであると思いました。・・・牧師が愛の心をもって聖書を語るとき正に一つ一つの御言葉が命を吹き返して、礼拝堂内部を自由自在に動き回り、必要な方に必要な命の力をお与えくださるのであろうかとつくづく教えられました。全国の教会がそうした教会でありたいものだなと祈らされます。(ヨハネの手紙第2他)
 本多牧師は神奈川の教会の中では真理と愛とのバランスが取れて良い活動をされている教会としては本郷台の教会を挙げておられました。昔のダイヤモンド工場の跡地に建てられて活動されている教会でもあったと記憶しておりますが、なるほどとこのことも感心させていただきました。
 本多牧師が現在の教会の課題として掲げられていたのは日曜学校の子供達や若い信徒の方々が更に恵まれた信仰と希望と愛をイエス様にいただいて、どんどん成長してくださる事でした。若い方々が将来の教会の正に尊い担い手であり、今後の日本や世界の教会活動を支えてくださる大切な方々なので特に本多牧師は厚くそのために祈っておられることを語られて牧師の祈りと熱気が伝わってくる祈祷会でありました。このコロナの時代でもいろいろ工夫して一人でも日曜学校生徒にとって教会が身近な存在になることが出来るようにつくづく祈らせていただきました。4月から再度日曜学校がスタートされます。初めは御言葉カード等を使用した遊びの中で少しづつ聖書に親しむことが出来るように工夫しながら進めていかれる計画を先生方がお持ちでした。この大切な尊い働きがイエス様にに豊かに用いられるように祈ります。
 本多牧師の奥様の順子先生の病院での少し元気を回復されたお写真を見せていただき感動いたしました。とても感謝です。
 安宣教師の奥様のソヘヨン先生が手術のために入院治療を開始されます。安先生はとりあえず急遽韓国へお戻りになられます。ソヘヨン先生ほどの愛の献身者を日本の宣教に加えて下さったイエス様に感謝すると同時になんとしてもご健康を回復していただきたいとつくづく祈らされる祈祷会でありました。同じように高齢や病のためにご苦難の中にある方々のためにも祈ること引き続き継続的に為し続けさせていただきましょう。教会は正に祈りの家でもあります。・・・イエス様に感謝申し上げます。
 報告者 M.O
 
4  月  
「まな」3月号巻頭言

ボーイズ ビ アンビシャス 

だれが、我々のために行くのだろうか。だれが、我々のために行くのだろうか

                                             イザヤ68

 友人が、子供を連れて遊びにやって来た。子供達はのびやかに育っている。二人とも随分大きくなったなと思っていると、傍にいた長女を見て、友人は言う。「この子は、今度、小学一年生になるんです」と。それを聞いて、何も気づかずにいた自分が恥ずかしかった。 しかし、友人たちが帰ってから、私の知らないところで、世の中が変化している事に改めて気づかされた。このコロナ禍の中で、学校の卒業式も、入学式も、そして入社式も、みな静かに執り行われていて、知ろうとしなければ、“あ、卒業式があったんだ!”となってしまう、そんな世の中に、今はあるのだろなーと思う自分がいる。入社式や入学式さえ行われない大学だってある。そんな中、卒業式や入学式、入社式を迎えた人たちは、どんな思いでいるのだろうか、と、思いを寄せてみた。希望に溢れているのだろうか、これからの人生に沸き立つ思いで熱くなっているのだろうか、何か、人ごとのように思えなかった。希望を持っていて欲しいな! わくわくしていて欲しいな! と、胸を痛める赤の他人の私がいる。

 そんな事を考えている内に、あのクラーク博士と札幌の農学校の学生たちの別れの一シーンを思い出した。僅か八カ月の札幌での働きを終え、その帰路、今の新千歳空港から少し離れた島松の停車場の個人宅で、少しの休憩の後、別れを悲しんでいる学生たちの顔をのぞきながら、クラーク博士は言う。「どうか葉書、一枚でもいいから、時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では、お別れじゃ。元気に暮らせよ」と言いつつ、一人一人と握手を交わし、馬にまたがって言った。「ボーイズ ビ アンビシャス」と。そして、さっそうと馬と共に、森の中に消えて行った。何と格好良い去り方ではありませんか。そんな格好良く去りいく中で言い放った言葉が、若き10代の農学校生の魂に火をつけた。「ボーイズ ビ アンビシャス・青年よ、大志を抱け!」の言葉が。このアンビシャス(大志)精神は、この最後の別れに立ち会った第一期生のみならず、第二期生にも受け継がれて行った。あの内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、その他の若き魂の心に燃えたぎり、アンビシャスを持ったクリスチャン・ジェントルマンとして、やがて世に出て行った。あの島松の別れは、1877年(明治10年)416日の事でした。北海道の4月はまだ寒き春。しかし、青年たちの心に訪れたのは、燃える春。この別れが、新しい日本を背負って立つ青年諸氏の志の春になった。

 このコロナ禍の中で卒業し、新しい人生を迎える青年の事を思う時、クラーク博士の思いが再燃する事を熱く願わざるを得ません。ましてや、我がクリスチャン青年の諸兄姉に問う。誰が、大志を抱いて、神のために、人のために立ち上がるのか、と。遠き昔、そう、今から2700年前、イザヤは聞いたのです。『私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、我々のために行くのだろうか。」 だれが、我々のために行くのだろうか。私を遣わして下さい」』と。我がクリスチャンたちよ、誰が、主の言葉を聞いて、主の為、人の為、福音の為に、そしてあえて言う、主の教会の為に、大志を抱いて立ち上がるのか、と。春には、寒き春と暖かき春がある。大志は、寒き春を暖かき春に変える。青年諸兄姉よ、誰が立ちあがるのか、あなたではないか。いやいや、主が望まれるのは青年のみにあらずです。あの別れに立ち会った第一期生の大島正健は、クラーク博士はこう言ったと記録している。「Boys be ambitious like old man」 「この年寄りのように、青年よ、大志を抱け!」と。クラーク博士は言った。「この年寄りのように」と。そうです、青年のみならず、年寄りにも、“誰が、主の為、人の為、福音の為、そして主の教会の為に立ちあがるのか、そして、言う、日本の為、世界の為に、立ち上がるのか、と。愛する兄弟姉妹、主の御声を聞いて大志を抱いて、立ち上がろうではないですか。寒き春を、燃える春にしようではないですか。静かなスタートであっても良い。むしろ、その方が良い。そして、主の声を聞いて大志を抱く春にしようではないですか。あなたは、あなたの人生の春を、どんな春にしたいのですか。

 
4月7日 第1コリント13章5節「愛は真理を喜ぶ」

 本多牧師が現在読まれている使徒行伝においてパウロさんがエルサレムに戻ると危険があると周りの兄弟姉妹に注意されても自身の使命をしっかりと自覚し、あえてエルサレムに行き、やがて多くのユダヤ人に訴えられて捕らわれの身となっても、冷静に落ち着いて慌てずに対応して死を覚悟でローマへ行くことになるところですが、ご自身もこのパルロさんの様に神の御心ならどこへでもしっかり覚悟を決めて慌てずに人生を進めるようにありたいとお証をされておられました。麻溝台キリスト教会へ派遣されて6年になりますが、いまだに当時持参した弟子訓練の教科書も保管されたままという状態であり、教会成長がご自身で判断されて不十分であり、派遣された使命を全うしたいというという思いが強く心にあられるそうです。弟子訓練は人数ではなく一人一人を大切にする方法であり、聖書の本来の在り方でもあるという事ですが、教会の将来のためにも若い人にぜひ信仰と希望と愛に成長して恵まれて欲しいと言う強い祈りがありました。おそらく何か麻溝台キリスト教会の将来のためにイエス様が本多牧師に何かを教えようとされておられるのではないかという思いが致しました。
 安先生は今週の牧師のメッセージの様に信徒一人一人がAbide with meの心つまりイエス様のご臨在を心に深くいただき主の恵みを求める熱い思いを持ってほしいと言う事であると思うと言われていました。確かに慌てる必要はないのですがキリスト様に導かれて神と人とを愛する熱心な愛の心、各教会員の方々が真実な命のイエス様にある充実したクリスチャン人生を歩んで欲しいという強い思いであり、教会がそういう青年達で満ち満ちて欲しいという願いであろうかと思われました。
 私は個人的には北海道のバチラー牧師の様に25歳くらいで中国伝道しようとしましたが風土も会わずに数週間で死んでしまうのではないかと言われるような健康状態の中、北海道へ導かれて、美味しいお菓子や山や海等良い空気に触れて次第に癒され、アイヌの人々と出会い、アイヌの人と共に住んだり、多くの文化を調べてアイヌの人々に福音を伝え続け、ついには92歳まで現役で牧師を務められた方ですが、無理なく大自然と共にお菓子を食べながら伝道するその姿に何か不思議な神様のご計画を覚えて、本多牧師も93歳まで悠々と牧会生活を楽しく進ませていただければという思いが致しました。
 私は現在「今日の力」というF.B.マイアー原著・小畑進編著の聖書通読書によりデボーションを続けさせていただいておりますが、エゼキエル書まで来て、そもそもイスラエルの人々の信仰が祭司や高官までが偶像信仰に陥ってしまっている中でついにはエルサレムが完全に破壊されるという事態になりますが、こうなる前にバビロン捕囚へいくようにとユダヤの民に予言が与えられ、神殿のケルビムはエルサレム神殿を離れてバビロンのユダヤの民の所、そして世界中に散っていったユダヤの人々の所へ飛んで行きそこで一人一人に働きづづけて70年後にエルサレムにユダヤの民が帰還することになる予言が、正にこうして着々と進んでまいります。このことは愛する自らの子をあえて懲らしめて、訓練し信仰と希望と愛の真実な道に立ち返らせようとされる、神様の愛がバビロンであろうとどこであろうと最後の最後まで選びの民と共に歩まれ守られ励まし続けられておられたことを思い、主のすさままじい愛の姿に感動させていただいております。バビロン捕囚時代は実はユダヤ人にとっては悲しい暗い日々であるかのように思っておりましたが、神様の嘆きは自らの子どもを真実の信仰と希望と愛に成長させようとされる熱い愛の心の覚悟を決めてなされておられた訓練でもあったことを改めて深く教えられました。そもそも旧約聖書が現在の様に一つにまとまった形に編纂されたのも、この時期であり、またダニエルさんやエステルさん等の活躍や多くの預言者が与えられた時代であることの深い意味もはじめて気づかせていただきました。神様の愛の雄大なご計画にはただただ驚きを覚えます。決して諦めずに手を引かれない主です。私達も本多牧師の言われるように熱心にイエス様の恵みを益々求める人生でありたいと思います。ペテロの手紙には主の再臨が遅いと言って勝手なことを言う民に対して、そうではなく一人でも多くの人々を救いに導かれるために主は大いなる忍耐をもって待っておられるのであると明確に書かれており、千年は一日の如くと書かれています。確かに全天全地をお創りになられた主の深い御思いの中を、この時代にはこの時代にあって主は私達に最善の道を歩む様に導かれておられるのであることを思い、祈り続けることの大切さを再び思い起こさせていただきました。
 安先生は金曜日に韓国にお戻りになられますが、恐らくこのことも深いイエス様のご計画の中にあるものと思います。韓国でしっかりゆっくりと信仰と希望と愛の地歩を固めて、また日本に帰国して新しいイエス様がご用意されている伝道の地でイエス様の愛の教会づくりを進めていっていただきたいものとつくづく思いました。帰り際に安先生に「日本と韓国2つの故郷があって良いですね。」と語りかけるといやいやもう一つの国があります。永遠の御国ですよと言われ、やられた―とびっくり仰天しました。全く安先生ファイミリーが更に祝福されて日本の新しい伝道地で豊かに用いられるように祈らせていただきました。
 
4月14日 4月14日祈祷会報告

 15日に順子先生のお葬儀が予定されているために中止となりました。…お葬儀が守られイエス様の慰めの時となり、残されたご家族にイエス様からの励ましが与えられる様に祈ります。…今日はそういう訳でございますので、この時、本多牧師ファミリーのことを思う中で、私に与えられた御言葉、詩篇48篇をメモします。
 「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにありその心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとします。始めの雨もそこを大いなる祝福で覆います。彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。」
 実はこれを読んだ時に更に驚かせたことがあります。それはこの文章の前文に
 「私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。雀さえも住みかを燕も雛をいれる巣をあなたの祭壇の所に得ます。万軍の主私の王私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたを褒めたたえています。」の御言葉があったことです。恐らく燕が祭壇のひさしに巣をつくり子育てをしていることに気づいた方がこの詩篇をお作りになられたと思われます。ここでは作者は雀や燕を追い払うことをせずに賛歌を歌い続けるのです。このことが旧約聖書時代それも詩篇が編纂された時代に既に歌われていたことに衝撃を覚えました。律法主義に凝り固まったような時代に思えるそのただなかでも、一羽の雀にさえ目をお留めくださり、私達を守り抜かれる主のご愛をこれほど賛美した詩がこの時代に書かれていた事を思うとき、著者を調べると、コラ人による賛歌とあります。…コラ人とはそもそもモーゼとアロンを特別扱いにして目を留める主に反逆して自分たちも祭司であることを鼻にかけて戦いを挑むという事をしたため、地面は真っ二つに裂け、その中に落ち込んでいったコラとその親族であったはずです。絶滅したかと思われたその子孫の中にもきっと心ある人々がおり、残されていたものと思われますが、ダビデの時代に再びそのコラの子孫が祭司職に抜擢されてここで歌られた賛歌を歌う事になったものと思われます。残されたコラの子孫は恐らくイスラエル部族の中でも疎まれ、距離を置かれていたのではないかと想像されますが、そうであればこそ主の哀れみと御守りと祝福を誰よりも深く味わい学んできた人々ではないかと思われました。正にこれはキリスト様の御心を歌っている賛歌であり、神の真実の姿を見事に捉えておられるものであるとつくづく感動させていただいたものです。
 私達がこの地上で受ける試練、苦難困難は日常茶飯事ですが、されどそれを上回るキリスト様の計り知れない守りと恵みの中を生かされいるのがクリスチャンであることをつくづくと教えられる詩篇でございます。
 本多牧師ファミリーが主に忠実に歩まれてきたご人生であることは日頃の多くにお証を伺う事が出来て分かり、とても感謝ですが、主と共に歩まれる人々が同じように主の限りなき守りと祝福の中を生かされて行けますようにお祈りを致します。
 
4月21日 第一コリント13章7節「愛はすべてを耐え」

 ソクラテスの妻(クサンチッペ)は三大悪妻の一人と言われる人で(他はモーツアルトとトルストイの奥様)、お客さんが来ると雷が落ちるという人で、ソクラテスさんが友達と話していると頭から水を吹っ掛けられたそうです。ソクラテス曰く「雷の跡に雨が降るのは当たりまえ」・・ワッハッハーという次第です。やれやれ色々なことがございますがともかくも私の場合なら妻と暮らす中で、少し我が強いところのある妻でしたので(もちろん素晴らしい妻ですが)若い頃のことこのことを考えていて「あなたの妻はあなたが鉄の草鞋を履いて日本中を歩いても見つけることのできない人だよ。」となんと3日間同じ夢をみました。これは間違いないイエス様の導きだと確信して感謝しつつ長い年月を共に苦労を分かち合いなが過ごさせていただきましたが、正に主の導き、私にとってこれほど素晴らし妻はありませんでした。我家にはこの妻の書いた御言葉が掲げてあります。「私たちは四方八方から苦しめられますが窮することはありません。途方にくれていますがいきづまることはありません。迫害されていますが見捨てられることはありません。倒されますが滅びません。第2コリンと4章8.9節」、娘が精神の病にかかったとき、当時理由が分からず、私は一度だけ娘に手を上げたことがあります。私は子どもの頃に父がげんこつオヤジだったので自分は決して子どもには手を上げないぞと決意していたのに自分でもハッと気づいてその場で娘に謝った記憶があり、つらい思いでした。
 本多牧師は娘さんが子どもの頃にたたかなければならないときは扇子をまず自分の手に打ち付けて、痛さがどれくらいかを確かめてからおしりをたたいていたそうです。しかしある時一度だけ本当に娘さんをたたいたことがあり、それは今でも心の傷としてご自身の中に忘れないこととして残っているそうです。(娘さんの心が癒されますように。)
 やはり人生ですので色々なことがあり、それを乗り越えなければならない出来事が何度も訪れます。
 「忍耐」という言葉はギリシャ語では「屋根」を意味する言葉だそうです。私達もイエス様に鍛えられて相当忍耐強くなりますが、それでも自分の力だけでは雨漏りなどがどうしても発生してしまう事があると思います。北海道では雪が厚く積もるため屋根の勾配が急に作られますが、それでも雪が直近にドサッと落ちてくるため一般的には2重につけられるそうです。
 実は先ほどの我が家の標語の御言葉の続きに本多牧師は目を留めておられて、第2コリント4章10節には次のような事が書かれております。「私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。それはまたイエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」・・・正にイエス様が私達の弱い屋根を覆ってくださる重ねられた頑丈な屋根であって下さったのです。・・・主に栄光・・皆さん日々祈りつつ進んでまいりましょう。
 先日の順子先生のお葬儀の時に私は不思議に思った事がありました。それは教会の階段の所にも次々と白百合の飾りが見事に設置されていることでした。本多牧師のお話から判明したのですが、家族葬という事で贈り物はご遠慮していたそうですがどうしても送りますと言う事で花束がいくつも送付されてきたものであるそうです。なるほど神の愛がこうして見事に順子先生のお葬儀を飾られていたのかと合点しました。神様と共にご苦労の中を歩まれて来た牧師ご夫妻にして初めてこうした恵みの世界が現わされるのであるなーとつくづくイエス様のご愛の深さを教えていただきとても感謝でした。
 牧師先生の今日の祈りは若い人が救われることであり、この地域からも求道者が多数与えられ救いへと導かれることであり、このためにも麻溝台キリスト教会がイエス様に用いられる教会になってほしいという願いでした。救いは正にご聖霊様の御業ですので、今後リバイバルを求めて祈り続けましょうという事になりました。
 ヨエル書2章28・29節をご覧下さい。・・・牧師先生にリバイバルの幻が与えられていることは麻溝台キリスト教会の祝福の基であると思います。イエス様に感謝申し上げます。祈り続けましょう。  M.O.
 
4月28日 第一コリント13章7節「すべてを信じ

 このことについて私自身の場合であれば、全ては主のもの我がものなし、命もイエス様からお預かりしているものであり、失われるものは何もない状態でひたすらイエス様から頂き続けている幸せ者であることをお証しさせていただきました。なんという不思議な信仰の恵みの世界でしょうか、我ながらびっくりします。
 現在の教会はコロナ禍の中で兄弟姉妹も良き交わりが出来にくい情況が生じております。そうした中でとりあえずLineによる兄弟姉妹の交わりの場が本多牧師を中心に守られていることはとても素晴らしいと思いました。また教会HPについてもできるだけ広く兄弟姉妹方のお証やご意見を掲載したいと願っていますが、祈っております。
 本多牧師のご判断では教会は一方的にメッっセージを聞いているだけで良いという場ではなく、本来は御言葉の分かち合いや共に主を賛美し祈り合う場であり、また伝道の場でもあることを語られていました。
 弟子訓練も現在のコロナ禍により勉強が途切れてしまい。せっかく牧師がご用意下さったテキストが保管されたままの状態にあることが分かりました。大変貴重な資料ですから有効に活用することが望まれますが、祈祷会においても今回の聖書箇所の学びが終了次第、弟子訓練のテキストを用いて祈祷会を進めることを考えておられるということでした。弟子訓練の方法はテキストが3種類あり、基礎コース・弟子コース・リーダーコースと分かれています。内容的にはそれぞれ神学的にも総合的にキリスト教教理を初歩から学び直すという流れですが、基礎コースは出来るだけ神学用語を使わずに分かりやすい言葉を使用しています。
 私は昔、日曜学校をさせていただいていた時代にご近所のおばあさんが病院に通う必要があるときに妻が自動車で送ってあげていたこともあり、その方がある時ヒョッコリ縁側に来て「あんたの所の神様はどんな神様だい。」と語りかけてこられました。これはご聖霊様の導きであると思い。出来るだけのお話はしましたが、実際のところ、こちらには準備はなく何をどうお伝えしたら良いか対応が不十分であり、祈ることはできましたが、キリスト様を正確にお伝え出来なかったことを今でも大反省し、イエス様に大変申し訳なく、記憶しております。
 こうした中で現在、日々聖書のデボーションの本を通読させていただきながら今まで表面的にしか理解していなかった旧約聖書時代の神様のご苦労やご愛の深さ、ご計画のすごさをあらためて教えられて恵まれていますが、頭の整理整頓を兼ねて聖書全体の教理もキチンと分かりやすくまとめて理解し直しておく必要を感じておりましたので、基礎コースをコツコツと学んで行くことが実は私にとってもとっても大切な学科であり、恵みであることに気づき始めておりました、本多牧師が弟子訓練のお話をされた時は、これはイエス様の導きであるな―とつくづく感謝申し上げました。
 本多牧師は基礎コースのテキストの概要の紹介をしてくださいましたが、まことに見事に簡潔に分かりやすく整えてあり、驚かされました。これだけのテキストを編纂してくださった本多牧師に敬服すると同時に、本多牧師が熱心に弟子訓練のお話をされているご様子にこれまた、教会を愛し、信徒一人一人を愛しておられる牧師の熱意がひしひしと伝わってくるようで、つくづく感心させていただきました。信徒たるものこうした愛と祈りをもって神と教会と人々とに仕えていきたいものであるなーとつくづく教えられました。
 イエス様はお弟子達に何一つ書物を残されませんでした。それは恐らく「文字は殺し、御霊は生かすからです。」(第2コリント3章6節)とありますが、これは書かれたものの限界というものがありうると思われますが、またイエス様は石の板に律法を書くのではなく、あなた方の心の中に直接書くのであると言われる予言がこうして成就していったものと思われます。書物をはるかに超えた大切な教え、例えば哲学用語で表現しますと実存的な個人と個人との出会いと深い関係性そのものを重視しておられたことが背景にあられるのでは無いかと想像されます。
 しかしそういう中でも、救いを受けた者としては、一度は聖書全体の意味するもの、その内容のある意味では神学的全体像を整理整頓して理解しておくことはとても重要であり、特に求道者の方などにキリスト教をお伝えするするなら猶更こうした勉強を一度は学んでおくことがとて大切なことであることは確かです。自分の為でもあり周りの方々のためにもお役に立つ大切な学びの時であろうと思います。
 本来は教会員全員がこうした学びを慌てずにコツコツと為し続けることが人生を更に豊かにし、キリスト様の栄光を拝して生きて行く為にもとても良い機会となると思われますが、コロナ禍の中で皆さん色々なご苦労やお仕事や健康上の問題や多くの苦難困難を抱えながら前進をされておられると思いますので、無理をされないようにと祈りますが、このコロナの時代でも神様はパウロが牢獄に捕らわれていた時にすら、祈りと賛美により奇跡を起こされたように、キリスト様は奇跡の御業をお導き下さることがお出来になるのであり、祈って行きましょうと本多牧師は話されておられました。
 教会員全員が、それぞれの持ち場立場において色々と事情は異なりますが、それぞれより恵みを豊かにイエス様から頂けるようにと願いつつ主の御名を拝させていただきました。
 皆様にイエスさまの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。  M.O.
 
5  月  
「まな」4月号巻頭言

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな! 

                                             ヨブ記1章21

412日、森下病院に、家内の様子を機聞くために、お昼近く電話を入れたら、「今日、午後3時に会いに来て下さって結構ですので、いかがですか」と、看護師さんから言われましたので、返事はもちろん「行きます!」であった。そして、その後、二十分もしないうちに、病院から「すぐ来てください!」と言われ、お昼を食べかけのまま、飛んで行った。着くや否や、家内はもう息を引き取る寸前であった。「お母さん、お母さん!」と、流れ出る涙の中で、呼びかけ続けた。しかし、全ては終った。家内は天に召された。その時、不思議を経験した。流れ落ちる涙の中で、み言葉が、はっきりと語りかけられるかのように、心に聞えて来た。あの家族すべてを失ったヨブの賛美の祈りだ。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(ヨブ121節)」と。この時、私の心に新しい響きがこだまし、新しい感謝が生まれた。それまでは、神が人にいのちを与え、また主の時に、主はそのいのちを取られる、この理解がある意味で全てだった。しかし、家内のいのち・家内の人生を,神が与えて下さっただけではなく、“愛する家内を、この私に与えていて下さったのだ”という事に気づかされ、溢れる涙の中に、感謝の泉が溢れ流れ出ていた。この素晴らしい家内を、この私に51年間も与えて下さっていた! 何と感謝な事だったか、と、涙と鼻水の流れ落ちる中で気づかされた。「主が、この愛する家内を、この私に、51年間も与えて下さっていたのだ!」。この感謝と歓びは、愛する者を天に送りつつ、失った悲しみの中に生れて来た新たな聖書の真理の感動だった。どうして、神を賛美せずにいられるでしょうか。この気づきのゆえに、悲しみの中で、ただただ神に感謝しました。 静まって思う時、家内だけだろうか、家族の一人ひとりも、神が、この私に与えて下さったかけがえのない一人ひとり。この家族をも、神が、与えて下さっていたのだ! この感動と感謝は、失った悲しみの中で、もう一つの感謝を与えてくれました。しかし、更に、静まって思う時、家族のみならず、私の周りにはなおも神の家族を、神は与えておられるのではないか!と、気づかさせられるのです。麻溝台教会の一人ひとりは、みな、愛する私の家族ではないか。こんな駄目牧師に、主は神の家族、愛する家族を与えて下さっている!なんと素晴らしいことではないのか、と、家内を失った今、新たな感動と感謝の中で思わせられたのです。“神の家族の皆さん、主にあって、ありがとう をいいます。私の霊的な、家族であってありがとう!” と。
 家内が息を引き取る時、心から口に出てきた言葉が“お母さん、ありがとう!”の言葉でした。何度も、何度も、出て来た言葉でした。生きている時も、家のベットに横たわって、私を見つめる声の出ない家内に向かって言った言葉でもあります。“お母さん、ありがとう!”と 。51年間、こんな駄目な私の妻として、牧師の妻として、福音の為、主の栄光の教会を共に建て上げために、様々な苦労の中を共に歩んでくれた家内に向かって,ありがとう、をいわせて頂きました。そして、改めて、皆さんにも言いたいのです。“教会の家族の皆さん、こんな私と一緒に歩いて下さっていて、ありがとうございます。主が、与えて下さった皆さん、これからどのくらい一緒に歩めるか分かりませんが、私と一緒に、この教会作りの為に、歩んで下さいますか。志しを一つにして、労苦を共にして歩んで下さいませんか。よろしくお願いします。   

                                    牧師の独り言より
 
5月5日 祝日のため祈祷会はお休みになりました。
教会員の方々の人生の祝福を祈ります。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。」詩篇42・2−3・・・・E.M.バウンズ著 一分間の黙想祈りの力(5月5日より)   M.O
 
5月12日 第一コリント13章7節「愛はすべてを信じる」

 T兄が収監所からお手紙を下さいました。作業場ではコロナ対策として手洗いの励行や秩序だった衛生管理をされており、細々とした配慮を通じて多くの方々が規律正しい生活の大切さを学ばれている様子が書かれており、ご自身が祈りの生活へと導かれておられるという事だそうです。感動させていただきました。兄弟が罪の世界から離れることが出来ますように、救いの恵みの豊かな幸せな世界へと導かれますように祈ります。私達クリスチャンが今日生かされているのも、こうした苦難困難やご自身の罪から逃れようとされている敬愛する兄弟姉妹方が一人でも多く救われるためであるのではないでしょうか。とても重要な励まされるお手紙でした。祈り続けましょう。
 「愛は全てを信じ」という御言葉の経験について私の場合は次のようにお証をさせていただきました。既に20年以上前、長女が統合失調症を発症してから平塚病院に入院することとなり、いつ退院できるか不明の中で、病院へ見舞いに行く都度妻と2人で海岸近くの湘南平の丘陵へ登り、そこにある小さな鉄塔に上がり、広い海を眺めながら空を見上げると、2羽のトンビが雄大に円弧を描きながら自由に幸せそうに飛んでいる姿を目にしました。何年、何十年かかろうともいつか子どもたちはあのトンビ達の様に自由に世界を飛び回れる日が来るに違いないと2人で祈った記憶が思い出されます。私は生涯を子どもの病院の側で暮らすために職場を退職し妻と二人でアルバイト生活をすることも考えました。・・・しかしあれから20数年の今日、長女は奇跡的に少しずつ癒され、8年くらい前からはご近所の障害者作業所で働くことが出来るようになり、つい最近は同じ作業所の事務所職員として障害者枠で働く道をイエス様が着々とお導きくださり始めました。全くの驚き以外の何物でもありません。多くの方々のお祈りやお支えや励ましがあって初めて可能となった出来事でありますが、なおイエス様が20数年前に妻や私にお約束してくださったことがこうして目の前に実現して来ると、祈り続けてきたとは言え、まったく驚きと感謝の念に包まれます。イエス様は人間の知恵をはるかに超えて、またこの地上の父である私の思いなどすら遥かに超えて子ど達を底知れず愛し続けて下さり、全てのことが益になるように最善をなし続けておられたことをつくづく深く教えられます。すぐに答えられる祈りもあるでしょう、何十年もかかる場合もあるでしょう。しかしイエス様は生きて無限のご愛で私達一人一人を愛し続け最善を尽くし続けてくださつておられる方であられる事を決して忘れないようにさせて頂きましょう。どうか表面的な苦難困難で躓くことがありませんように皆様のためにもお祈り申し上げます。
 本多牧師は長年の牧会生活の中から人を信じることの大切さを語られていました。色々なトラブルが在っても無くても、牧師として人を信じ続けて神様が必ず最善を為してくださることを信じ続ける信仰であろうと思われました。とても大切なクリスチャンとしての心構えでありましょう。学ばされます。
 今コロナ禍の中で教会出席者が激減しております。こうした時、奥様の順子先生が召されてしまい、この打撃と目前の礼拝出席者の激減の状態を見て落胆しない方はおられないでしょう。ですから本多牧師も一時否定的な考えに捕らわれたことがあり、苦難の精神状態にあったという事でした。しかし今は「あなたは何と簡単に自分の道を変えることか」エレミヤ書2-36・・・と御言葉を示されて、再び耕地を耕し続けることの深い意味に気づき励まされてご自身の麻溝台キリスト教会へ遣わされている使命が何であるのかを再びイエス様から力を与えられて教えられ始めているという事でありました。感謝です。
 旧約聖書でもバビロン捕囚の時代はおそらく当時のエゼキエルさんら少数の人以外に誰もが、これでイスラエルの時代、神様の愛の時代は終わったと思ったのではないでしょうか。しかしエゼキエル書後半の黙示禄的預言を読んでみて下さい。まさに主はこの苦難のバビロン捕囚時代を通じて初めて信徒一人一人を訓練し、本多牧師も言われておられましたが、この時代には実はそれ以前のエルサレムの大神殿だけで壮大な集会による形式的な礼拝が失われたため、バビロンや世界各地に散らされた信徒達少数の集まりが、後のシナゴクーと呼ばれるような各地の律法(聖書の御言葉・巻物)を中心とした集会が開かれるようになり、正にデボーション時代が幕開けして、それまでは個別的に語り伝えられたり、巻物に書かれていたモーゼ5書等バラバラの各預言書等が一つに編纂されて今日の旧約聖書が完成していったことを思うと、人類の想像を越えたはるかに雄大なご愛と真実を限りなく導いておられる主のあまりにも深いご計画を教えていただけるのではないでしょうか。全く驚きの主の止むことのない永遠のご愛であります。今も主は皆様一人一人の上に力強く働かれておられます。
 弟子訓練の重要な点の一つにデボーションの時を各自が持つことの大切さ、あるいは小グループで相互に励まし合い祈り合う事の大切さを本多牧師は大宮教会の例などから解説してくださいました。礼拝はただ人々が集まればそれで良しとするものではなく、正に信仰と希望と愛の各自の更なる成長と祝福を祈り合い励まし合う場所でもあることを教えられます。より広くより深くより高くイエス様にお近づきさせて頂きたいものとつくづく思わされます。イエス様に感謝申し上げます。
 岡田兄が今日はお仕事がコロナ禍により中止となったために祈祷会に参加できました。岡田兄はいつも教会全体の会計や事務の重責を負ってくださっておられて、しかも深く広く具体的に教会の将来を考えて下さっておられます。(岡田兄のお話を聞くといつも感動します。)岡田兄に教会が負っていることは非常に大きいです。教会の将来に対してこうした細々とした全ての配慮をしてくださる兄弟がどうしても教会に無くてはなりません。しかし同時に人間の思いを越えていかなる苦難困難の時代にもイエス様の深い御計画があられるので、ともども祈りつつイエス様から豊かな希望をいただいて、また本多牧師にはイエス様が導かれる具合的な麻溝台キリスト教会の雄大な将来ビジョンを頂いて、兄弟姉妹全員がともどもこのコロナ禍の時代を前進させていただきたいものとつくづく思われました。
 イエス様の十字架を仰ぎ見つつ、全てを感謝しつつ主と共に前進を続ける教会であるように共に祈りを続けてまいりましょう。
M.O.

 
5月19日 第一コリント13章7節「愛はすべてを望み」

 本多牧師は今日の祈祷会への参加の途中で、夕日が美しかったのでスマホで撮影され、それをLINEを通して、兄弟姉妹へ送信されておられました。
 私は最近読んだ絵本「ちいさなちいさなおばあちゃん」エルサ・ベスコフ/著から、日常の自然と生活のしみじみとした美しさ尊さを描いた絵を思い出しました。この物語はおばあさんと子猫の単純な幼児向けのお話ですが、絵の色彩や形もとても暖かい自然な形で描かれていて心が温まります。イエス様も自らお創り下った自然や生活をとても愛しておられる様子が聖書全体からもよく読み取れます。イエス様に生かされているという事は、こうした日常的な何気ない生活世界の中にこそ本来はイエス様がお与えくださった命が満ち満ちているように思います。決して忘れないようにしないといけない世界であると思います。
 愛はすべてを「望む」という言葉は本来は「希望する」という意味だそうです。
 私の場合は最近、人が友のために命を捨てるこれ以上に深い愛はないと言われている御言葉を考えさせれて、私が家族や友人のためにもし死ねる様な事があれば、その時は実は一人一人の命の真の深い意味を初めて理解できている時ではないかと思わされておりました。貧しい人、苦しめる人、悲しめる人のことを思いやる心を持てる時は実はイエス様が一人一人にお与えくださった本当の命の尊さ、深い意味を理解している時であると気づかされたのです。それはイエス様がどれほど深く世界や一人一人を愛しておられるかがわかる時でもあります。
 永遠の命へ生きるという事はこのような心を与えれて初めて経験できるのかもしれないなと、つくづく思わされております。命への希望とは命への「道」でありましょう。
 岡田兄は聖霊の実について、信仰、希望、愛、慈しみ等を求めるように聖書に書かれており、聖霊様の実を付けることを目指すことの大切さをお証しされておりました。実に聖書的であり、その通りでありますね。
 本多牧師はヨハネ15章16節から「出て行って実を結び、その実が残るようにと・・」という個所からイエス様が私達に希望されている大切な面はこのことであることをお話されておりました。それはイエス様の愛されている教会の本来の姿でもあり、私達クリスチャンは自分が救われていればそれで良いというものではなく、罪に苦しむ人々や命への道を知らない人々にイエス様の福音をお伝えすることの大切なお仕事も与えられていることを解説してくださいました。
 一人でも救われれば天では万々の天使達の喜びがあると言われますが、同じ喜びが私達クリスチャンの中に溢れ流れてくるのであります。祈ってまいりましょう。
 最近インターネットで私は弟子訓練のニュースの中で、韓国の個人的弟子訓練の指導的活動をされていた方が、セクシャルハラスメントで訴えられていることを知り、弟子訓練万能ではなく、これを学び実践される一人一人の魂の問題、イエス様とどれだけ真実に生きているのであろうかという問題が重要であることを考えさせられましたが、本多牧師はこの件については日本でも多かれ少なかれ同じような問題は生じており、こうした原因の大きな問題点は弟子訓練が実は誤って自分の弟子をつくるという考えになってしまう人がおられるという事であるとのことでした。こうした問題もあったために現在日本でも「主の弟子訓練研鑽会」の様な牧師先生方の集まりが定期的に開催されており、その意味は敢えて「主の」弟子訓練という名に表されているように、自己反省的な意味も深く込めてこのような牧師先生方の自己研修の場を設けておられるという事でした。
 確かに「私ではなく、キリスト様の栄光」というとても大切なキリスト者としての真実な生きかたを見失うと、真理には程遠いという事になってしまうものと思われます。注意したいことです。
 私達は「主の栄光から栄光へ」と素晴らしいことをされるイエス様と共にイエス様がお与えくださる夢と希望をもって、歩み続けさせていただきたいですね。祈りましょう。
 皆様の祝福を祈ります。   M.O.
 
5月26日 第一コリント13章7節「愛はすべてを忍び」

 神様の側からの「忍び(忍耐)」とはアフラハム以降、400年後の出エジプト、砂漠での反逆そしてイスラエル建国、御言葉を聞かない民、バビロン捕囚、イスラエル再建、律法主義による神の心を学ばない民、イエス様のお誕生と十字架・・・次々と神の言葉を無視し続ける民に対しての数千年の間の忍耐と訓練、その限りなき愛の継続は信じがたい聖書の記録であります。
 このことを人間側から見るとどうなるかという事を本多牧師は検討されておられました。
 私の場合であれば、ちょうどFBマイアーさんの本を読んでいた中で、アブラハムさんの信仰のことをお話させていただきました。アブラハムさんの甥のロトさんは自分の生活に都合のよいソドムとゴモラ地方に移り住みますが、やがてこの世の事しかおそらく頭になくなり、ソドムの町に住むようになります。こうしたことはいつも私達クリスチャンにもありうることであり祈りつつ注意したいものです。・・ところがアブラハムさんは生涯を野の天幕に住み、神と共に歩み続けました。高齢になり自分の子どもを設けることもできず、夜間空を仰ぐと空一面の星空に「あなたの子孫はあの星空のようになる」とのお約束をいただきます。
 やがてイサクをいただき、感謝と喜びもつかぬ間、今度はイサクを捧げよとの御言葉、アブラハムは何も言わず黙々とモリヤ山へ向かいます。
アフラハムへの約束はどうなるのか、彼はその生涯の間約束された様な無数の祝福された子孫など見ることもありませんでした。しかしアブラハムは無言の内にイサクを捧げることが出来るほどに神の愛を信頼し、神ご自身のお取り扱いの深い心を信頼しきっていたものと思われます。アフラハムが信仰の父と呼ばれる所以でもありましょう。ここまで神様を信頼しきれる信徒は本当に幸せであると思います。
 恐らくアブラハムさんは400年後の出エジプト、そしてやがてイエス様が全世界に福音をお伝え下さり今日の様に神の民が世界中に広がることを夢と幻をもって語られた神に信頼しておられたのではないでしょうか。
 どのような苦難困難も神様への限りない信頼が与えられている限り、信徒の方々の歩みを阻むことはできないでしょう。全てを最善にしてくださるイエス様に信頼して期待して歩んでまいりましょう。
 本多牧師は最近のコロナ禍の中、求道者・受洗者の少なさについて深く考え祈られておられました。一人でも救われれば天では万々の天使たちの喜びの賛美が巻き起こるでしょう。私達クリスチャンも同じ感謝と喜びに満ち溢れます。しかし同時に本多牧師のお話されていたように、求道者が少なく、若者も少ないという現実を前に、「あなた方は行って実を結び、その実がいつまでも残るように。」と言われたイエス様の御心の深さ大切さがもう一方にあることに気ずかされます。自分だけが救われればそれで良いというのはクリスチャンの本来の姿ではないでしょう。
 イエス様がサマリアの井戸端で孤独の女性を救われた時、弟子たちに「私にはあなた方の知らない食物がある、それは天の父の御心を行う事である。」と教えられましたが、真に本多牧師の言われるように、人々が一人でも多く救われることを祈り続けてゆく必要があります。
 本多牧師の熱心さと救霊の使命感の深さにはには舌をまきますが、今回もキリスト教新聞社発行の「もっと教会を行きやすくする本」というものを購入されて読まれている様子を伺い、私もその本をお借りしましたが、いつも新来者を温かく迎え、愛し続けられる牧師の姿勢を私達クリスチャンは忘れてはならないと思います。
 教会のリバイバル。地域のリバイバル。日本と世界のリバイバルのために祈りつづることと、具体的に何ができるかという試行錯誤の中で、一つは牧師先生は礼拝後に例え30分でもよいので有志が集まりリバイバルのためのお証や祈祷会を開いたらどうだろうかというご提案をされておられました。
始めは小さい火も少しずつ集まれば、やがて周りに転火してゆき、ご聖霊様による豊かな恵みのリバイバルへと進んでゆく可能性があると思います。
 今後も、何ができるかわかりませんが、この時代だからこそ私達一人一人にできることは何かを祈りつつ探しつつ、私達にできる事にチャレンジし続けて行く時にご聖霊様の御業が進んでゆくのかであろうかと思わされました。牧師先生に豊かに知恵が与えられ、執事会の方々にも信徒一人一人にも良き知恵が与えられますようにイエス様にお祈りいたします。イエス様の御業に期待してまいりましょう。    M.O.
 
6  月  
「まな」5月号巻頭言

見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている 

イザ 43章19 節

いま、このコロナ禍の中で、世界は大きく変わりつつあるように思います。会社に行かない、大学に行かない、しかし、仕事はなされ、学びも進んで行く。田舎に引越しても、同じ仕事ができる、そんな時代をコロナは作ってしまっている。人間が作った新しい社会ではなく、病原菌が今までにない社会の構造を変えようとしている。それは教会にしても同じような事態が起こりつつある。オン・ライン礼拝、自宅礼拝。それが当然のように認知されている。不思議な現象だ。先日、第九回主の弟子訓練コンベンションが、それこそ、オン・ラインで行われた。韓国と日本の講師たちが、それぞれ韓国と日本であらかじめ録画しておいて、時間が来たらZoomで発信し、日本全国からの参加者があった。実際に顔と顔とを合わせて、熱く語り合うという事が出来ないにしても、それなりに満足を得るコンベンションになった。
 韓国の講師の一人が、聖書から、礼拝や教会のあり方の変化について語って下さった。本当に興味深かった。イスラエルが、バビロンの捕囚の身になった時、イスラエルの礼拝のスタイルが大きく変化した。ソロモンが建てた神殿を中心にした祭儀礼拝が、捕囚によってできなくなったが、それでもイスラエルは信仰共同体として、新しいあり方を捕囚の地にあって作り上げて行った。それは、イスラエルの元来のあり方であった律法を中心にした共同体、御言葉中心の共同体でした。神殿ではなく、捕囚の各地に造られた会堂でのみ言葉中心の共同体が国家の崩壊の中で作り上げられて行ったのです。
 そして、歴史は進み、新約時代に入り、イスラエルという信仰共同体の中に、新たに産声を上げた主イエス・キリストを信じる者達によって造られた初代教会は、何と、宮と家々で、しかも御言葉を中心にした信仰共同体を作って行った。しかし、ほどなく、ステパノの事件を通して、初代教会は強制的に各地に散らばされ、エルサレム教会は縮小を余儀なくされた。しかし、各地に散らされて行ったキリスト者によって、新たな共同体が各地で誕生した。主イエス・キリストを信じる者同士の、関係を中心にした交わりが造られた。神殿なき信仰共同体です。例えば、ピリピ教会は、なんと川岸で持たれていた同じ主を信じる者達の交わり、み言葉を中心にした共同体形成が始められたのです。神殿も、会堂もなく、主イエスを信じる者同士、そうです、関係による共同体は、各地域の住む信者の家々で交わりとなり、家の教会と呼ばれ、やがて、その同じ地域にある家の教会が結び合って、地域の教会、例えばコリントの教会が出来たのです。家々の教会(小グループ)による教会形成です(使徒246節等)。
 このように歴史の中で、ある意味で、外部からの強制的な要因によって、主の教会は変化を見たのです。しかし、いかに強制的にその教会の外的な姿が変化しても、決して個人主義的な信仰にはならなかった。み言葉を共に慕いもとめる人達が、その信仰のゆえに結びつき、家の教会(小グループ)を中心にした地域教会が結成されたのです。主は、このコロナの中にあって、どんな御自分の教会を作り上げようとしているのでしょうか。確かなことは、このコロナ禍の中にあって、今、このコロナ禍以前のこの数十年前から、世界の教会の中で、再び、小グループ(家の教会)を中心にした教会形成がなされ始め、今、さらに、このころ華夏の中にあって、そのようなショウグループによる教会形成が世界中で加速度的になされようとしているのです。一見、ばらばらにされたかのように見えても、決して個人主義的な信仰者に、主はさせず、み言葉によって強固に結ばれていく共同体を、今、新たに作ろうとしているのです。私たちは、バラバラにされないのです。麻溝台キリスト教会も、将来に向かって、み言葉共同体としてさらに歩んでいくために、小グループを考える時がきたという事ではないでしょうか。家(小グループ)と宮(公同礼拝)の二面性を持つ教会の姿です。バラバラにされてきた主の教会は、主よって、より強いきずなで結ばれた教会を作り上げてきたのです。このコロナの中でなえてしまうのではなく、今、主は、ダイナミックなみ言葉共同体を造ろうとしているのではないでしょうか。

 
6月2日  「見よ、わたしは新しいことを行う。今それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたし
 は荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」」イザヤ書43章19節


 事情により祈祷会参加が遅れたため、今日は聖書研究ではなく祈祷会オンリーとなりました。従って御言葉は今回は「イザヤ書43章19節」を記録しました。
 この御言葉は「まな」原稿に本多牧師がお書きくださった御言葉ですが、教会HPへ掲載するにあたり確認が必要となり、私が聖書を開くと正に一回でその個所が開かれました。不思議なイエス様の導きに感謝申し上げましたが、主は私達のご奉仕や生活に色々な形でご自身の支えをお与えくださいます。主は見ておられるのです。(ちなみに聖書をぱっと開いてすぐに目に入る御言葉だけを重視することはあまり良い信仰者の在り方ではないのでご注意願います。聖書は全巻を通して祈りつつ読み御言葉の一つ一つの正しさを学んでゆくことなしには信仰と希望と愛の真実の成長は与えられないと思いますのでよろしく。)
 このことは実は祈祷会において牧師先生が最近のコロナ禍の中で若い信徒の方々の減少、高齢者の方々の増加による礼拝参加者の減少や日曜学校生徒数の減少傾向に深く教会の将来に対して憂慮されておられて、祈りの必要を強くお話しされていましたが、タイミングよくイエス様の導きによりイザヤ書43章19節が開かれたことは、恐らく偶然ではないと思われましたのでお証させていただきました。「主は見ておられる」(詩篇10篇)
 実は牧師先生は上記以外にも最近教会内での具体的な課題についてもご説明下さりましたが、今は教会の兄弟姉妹方が一致して主の御業を祈る時なのだなと教えられつくづく感謝申し上げました。・・・色々な試練のある時になぜ感謝をするのかは、経験のある信徒の方にはお分かりになると思いますが、主はそうした試練を通して御業をなされるケースが無数にあられるからです。本多牧師もこのことをよくご存じで、静岡教会牧会時代にも人数激減の中で一人の青年(他の牧師の息子さん)が水曜祈祷会以外にも「先生祈りましょう。」という事で平日祈祷会を始めたところ、少しずつ参加者が増えてきて、静岡の教会の基礎を築いていかれたことをお話くださいました。真に多くに試練困難を通してこそ主の御業は驚くべき方法で進んでまいります。バビロン捕囚により信仰世界に目覚めた人々のお話など、聖書記載を調べればきりがありません。バビロン捕囚前後を通じて初めて預言者の方々が命がけで、イザヤ・エゼキエル・ダニエル・エステル等が大活躍されて、信仰復活へとイスラエルを導き、ついにはイエス様のお誕生を予言いたします。それまでは神様のご計画は雲の中にぼんやりとしか見えていなかった世界が、このバビロン捕囚時代を通して明確に姿を現し、預言され始め、ついにはイエスキリスト様がこの世に直接来てくださるという事になります。今の時代はそういう意味では霧のかかった不透明な時代ではなく、信じがたい様なことですが、明確に永遠の光なるイエス様が共に歩まれてくださっておられる時代であることをどのくらい感謝して良いか計り知れません。
 確かにヨーロッパでもアメリカでさえ信徒の数が減るとか、色々な福音的でない文化の動きあることも確かですが、それらのことは昔からあったことであり、私達クリスチャンが恐れるに足りない問題群に過ぎません。信者の数が減ろうが増えようがイエス様が生きて働かれており信徒一人一人を励まし、助けて下さっておられるのですから何を心配する必要がありましょうか。苦難困難の時ほど神を賛美したいものであると思います。「生きることはキリストです。」(ピリピ人への手紙1章21節)
 最近読んだ本(「仕える喜び」「今求めらる教会のリーダーシップ」チャールズ・スウィンドル牧師/著 いのちのことば社)ではエジソンさんが67歳の頃のお話が印象的でした。この歳にして工場で数年間、蓄電池装置の研究開発に携わっていた彼の工場から出火して丸焼けになったそうですが、息子さんが心配していると中からエジソンさんが興奮して駆け出してきて「お母さんとお友達を呼んで来なさい。こんなすごい火事には生涯そうめったに出会いないぞ。」とのたもうたとあります。その後職員を集めて、次々に新しい機械を導入するように指示を出し、最新設備で新しく研究が出来るぞと喜んでいたという事です。そして最後に「ところで資金はどこからお借りできるか知っている人はいるかねと職員に尋ねて、後は着ていた上着を丸めて枕にして机の上で寝てしまったという事です。ウームやってくださるなとつくづく思わされましたが、私達クリスチャンにとって「生きることはキリストです。」どこに不可能があり得ましょう。
 私達一人一人は小さな器にすぎなくとも、一人一人が共に祈り合う時に、ご聖霊様が働いて下さり、その小さな火は野火のように周りを焼き尽くしてゆくことになるのでは無いでしょうか。昔も今もイエス様のなされる方法は同じです。祈り続けましょう。イエス様に期待し続けましょう。イエス様はいつも私達の思いを超えて素晴らしい主の栄光を現わして下さいます。イエス様に感謝申し上げます。
 本多牧師は素晴らしい主の器です。教会と信徒の一人一人を心配されておられます。どうか牧師先生の更なる祝福のためにお祈りください。                                                                                  M.O.
 
6月9日 第1コリント 13章8節「愛は終わらない」

 今日は初めてZOOM祈祷会を試行致しました。ZOOMの方法は民生牧師から先生が教えていただいて設定を行い、本多牧師はその方法に従い信徒宛てにメール送信を行います。信徒は受け取ったメールに書かれたアドレスリンク文字を押すだけで教会ZOOMサイトが受信できます。
 今回の結果として次のようにお証させていただきます。
1.ZOOMやLineは私個人としては、顔と顔や相手の体温の暖かさなどが伝わりにくく、真実に礼拝や祈祷会の恵みを伝えられるだろうかという疑問と、また個人情報の問題として家や個人の顔まで移すことにためらいを感じている方がおられるのではないかとか、疑問がいくつもあり時代の要請もあることではありますがどのように対応するのが最善か迷いの中でおりましたが、実に不思議なことにZOOM開始前に私に御言葉(正確には賛美)が与えられました。それは今はあまり歌われなくなっていますが讃美歌90番「ここも神の御国なれば」です。この讃美歌ははアメリカのマルビー・ダベンポート・バブコック牧師が1901年42歳で召された後で奥様が発表された彼の詩を元にイギリス民謡のメロディーで賛美されるものです。 世界を創造された主が現実世界の自然をどれほど美しい素晴らしいく造られたかを賛美しています。
 このことは私にとっては実はZOOMであろとLineであろうと、2人であろうと数十人であろうと最新のメディアであろうとなんであろうと2人3人が共に祈るときにそこに私もいるのであるといわれたイエス様の強いお心を、しみじみとしかもどっしりと心の奥底にまで教えられた瞬間でした。皆様もご存知と思いますが、御言葉を与えられれば後は何の心配もなくなるのです。
2.本多牧師は将来の教会の成長をいつも心から願っておられて、こうしたメディアを以前から積極的に活用方法を探っておられて、今さらながら牧師先生の若者を愛して育てたいとする強い熱意にはびっくり仰天をさせられております。このためには今後ますます皆さんともども協力して祈ってまいりましょう。
3.ZOOM祈祷会を試行してみて結果的に分かったことを次に述べます。
 @個人情報の保護や信徒一人一人の好みの問題は徐々に祈りつつ皆さんと共に最善の方法を今後も試行錯誤してゆけばよろしいと思います。
 A逆に我が家のパソコンに映る画像には部屋に掲げてあったドイツのラムサ地方アルプスを背景とした古い教会の絵が飾ってありますが、牧師先生がこれに気づいて色々と楽しい話題となりました。この次には庭に咲いた花の写真等を先生にお見せしてもよいかと思いました。話題の世界がリアルに広がりZOOMはとても不思議なメディアであるなと気づきました。私が現在読んでいる本等も画像に直接映し出すことが可能なので牧師とのコミュニケーションが具体的で大変分かりやすいものとなりました。通常の祈祷会では不可能のことが逆にできる可能性の広さに気づかされてびっくりです。
 B祈祷会の途中でM姉妹から牧師宛てに携帯連絡が入り、牧師先生のお誕生祝いの言葉をいただいておりました。何という優れた姉妹がおられることでしょうか。今日は正に本多牧師のお誕生日でした。(感動・・・北海道南教会の兄弟姉妹からははがき等がいくつも届いたそうです。・・かくありたし。)・・・ちなみにM姉妹にはZOOMに参加するように励ましました。機械の操作の問題で今後調整は必要のようです。
 CZOOMの効果として7時半から9時までみっちり賛美やお証や聖書の学びも出来て、普段より内容が濃い祈祷会が結果的にあったように思われました。このことは驚きでした。感謝いたします。・・・これならば今後多くの兄弟姉妹に自由に広く活用していただいて問題無く主の栄光が現わされてゆくことになるように思われました。
 DZOOMの中で、祈祷課題表等の資料を表示する方法が具体的に設定できて、画面中央にその資料を映し、その周りにZOOM参加者の写真を写したままコミュニケーションが可能であることも分かりました。優れた機能です。
 E課題としては、賛美と祈祷の時に音声が少しずれる可能性があるかもしれません。詳しくは判定できませんでしたが通信速度の問題があるのかもしれません。また、今後ZOOMを活用する場合にはスマホでの参加がどうなるか、またモバイル等でのシステム設定はどうなるかの課題確認が必要となると思われます。
 F礼拝でも祈祷会でも顔と顔とを合わせての集会はかけがえのない、言葉では簡単に表現できない良いものを持っており、この辺の考えは本多牧師も私も共通認識を持っておりますが、今後こうした問題も含めてどのような方法を組み合わせてシステム化してゆくことがイエス様の栄光を表してゆくために最善かを祈りつつ検討してゆくことが必要かと思われますので皆様よろしくお願いいたします。

 ところで今日の御言葉「愛は終わらない」については以下の様であったことをご報告いたします。
 私の場合であれば最近読んだ本「心病む人々に教会ができること」(聖書と精神医療研究会編)の中から精神科のドクターである平山正実先生のお証や働きから学ぶことが多く、現代の精神医療について薬物療法が飛躍的に向上したためかなり癒される人々が多くなりましたが、逆に人間の心のもっと奥底にある、不安や孤独の問題などは精神科の医師により対応できる範囲をはるかに超えており、聖書の真理により、教会などで少しずつ真実の世界観の変更や救いによる永遠の命を与えられるそのことによる以外に方法はないという事を言われておられます。
 聖書と精神医療研究会発足時の趣意書によればこの会の目的に次のように書かれております。「それは第一に精神医療の研究において、精神医学・心理学における聖書の首位性の主張です。「聖書は誤りのない神のことばである」との認識に立つわたしたちは、聖書と精神医学・心理学との統合でなく、聖書の真理を精神医学、心理学においても実証しようとするものです。つまり福音主義キリスト教の立場から「聖書的精神医学」「聖書的カウンセリング」の追及をしようとするものです。」と書かれています。・・・・このことは私自身が元々物理学等の自然科学論の立場からその中の多くの矛盾に気づいて真理について暗中模索の中で自ずからキリスト教に導かれてきたことがあり、聖書の創造論の立場から理性もまた神様につくられたものに過ぎず、自ずから限界があり有効範囲もあるものと考えられますので、祈りつつ徐々に聖書の啓示に基づくよりよい世界観へと進む以外にないのであろうと思っておりますが、そうした中で変わらないものはただ一つキリスト様のご臨在であり、全天全地をお造りくださったこのお方のご存在であります。キリスト様のご愛のみが永遠に変わることのない命の世界へと私達を日々導いてくださっておられるわけでございます。感謝であります。
 本多牧師は牧会生活の中で人間関係に多くのご苦労を重ねてきた中で弟子訓練の学びを通して、神を愛し教会員の方々を愛することを深く学び続けてこられたわけですが、いまも善と思ってなしたことを誤解されたり、理解されない苦しみに出会う事があるという事であり、ご自身もまた祈りつつ学び続けるご人生であることをお証されておられました。このことは人を信じ続けることの難しさもありますが、しかもなを祈り続けて期待し続けることの大切さを強調されておられました。信徒にとっても永遠の課題でありましょう。すこしでもキリスト様のお心に近づけるように祈り続けさせていただきましょう。牧師先生の祝福のために祈り続けさせていただきましょう。
 前掲の「心病む人々に教会ができること」の本の中にはもう一つ大切なことが書かれておりまして、それは教会の在り方としての礼拝等がどちらかというと神と信徒という縦の一方的な関係にだけに教会活動が限定してしまうことの問題です。それは牧師と信徒・教会員同士が神の家族として更に横のつながりを強く持つことの大切さを教えてくださいます。教会で今まで活発に活動してくださっておられた方が突然教会に来なくなる等という事が時々ありますが、これなどは信徒一人一人がどのような問題意識を具体的に抱えておられ聖書を共に学びながら励まし合い祈り合う機会が少なければ、お互いに苦しみや課題を真実に理解し合う事が困難になり、信仰歴の浅い方の場合等は更に聖書の学びの機会が少なくなり、恵みの世界を更に共に学ぶという事が出来なくなるという事ではないかと思われます。まことに残念なことで、私とて弱い小さな主の僕に過ぎず、色々な課題をいただいておりますが、多くの兄弟姉妹に祈っていただいたり、祈らせていただく中で恵みへと更に進むことが可能となっているものですから、イエス様に栄光でありますが、この横のつながりを何とか更に充実することが大切であることをこの本は教えてくれます。・・・・本多牧師のご意見はこのことは正に弟子訓練の中では小グループの学びの大切さを示しているという事です。麻溝台キリスト教会の一つの大きな課題がここにあるということが今日の祈祷会でイエス様から お示しいただいたとても大切なことであると思いました。
 この改善のための方法は本多牧師もいくつかご提案されておられましたが、今後祈りつつイエス様の導きを求めます。
 最後に本多牧師は若者達を集めるためにも、いつか若い牧師に交代していただくことも視野にいれて祈られていることもお話されておられました。このことに関しては私は先ほどの本の中に書かれていた佐竹十喜雄牧師(国分寺バブテスト教会協力牧師)のことをお話いたしました。佐竹牧師は30年近く牧会されたと思いますがその教会で高齢になられてから終身の生活保障を教会で与えられ協力牧師として継続的に出来る働きをされるというケースを取られた方です。そのため聖書と精神医療研究会の活動を毎年数回教会で開催したりする貴いご奉仕をされた方ですが、元々教会に定年という制度が適当かどうかも未だに私には未解決の問題です。そうした中で本多牧師のお話では佐竹牧師のケースは教会の規模がある程度大きい場合の特殊なケースであるというご説明でした。ただ、本多牧師としても弟子訓練の大切さを深く思っておられてこのための方法を祈りつつイエス様の導きを願っておられるという事でした。
 色々な課題が満載の時代であり、麻溝台キリスト教会も課題を抱えている事もありますが、その課題を正面からとらえて皆で心を合わせて祈り続けて行く時にイエス様のご栄光が現わされてゆくのではないでしょうか。苦難の時こそ神様の御業が現わされることは本多牧師のご経験されてきたことでもありますが。こうした課題のある時こそ信徒一人一人が信仰と希望と愛に成長が為される豊かなチャンスの時でもあるように思われます。祈りつつイエス様にご期待してまいりましょう。
 「楽天主義は未来を拓く」ヘレンケラーさんの言葉・・・・希望をもってイエス様から夢と幻をいただいて祈り続けましょう。
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」詩篇84編5節〜6節
 皆様の祝福をお祈りいたします。    M.O.
 
6月16日 第1コリント 13章8〜13節「信仰・希望・愛」

 今日の祈祷会は教会で行いましたがZOOMに岡田兄が参加されました。ZOOMの良さは恐らく出張で離れた場所におられる方も、時間が許されれば参加可能ではないかとは理解しておりましたが、今回初めて帰宅途中の新幹線の中で岡田兄がZOOM祈祷会へ参加できました。新幹線の中ですので受信専用であり、言葉は語ることが出来ませんでしたが、とても楽しく祈祷会が3人で出来ました。岡田兄は新幹線の座席が背景では殺風景と考えて途中から背景画を自然風景の映像を映すようにご自身のZOOM画面を変更されました。(色々なことのできるZOOMに驚きです。)最後に祈祷会終了前に電車を降りたため、一時不通となりましたが、自宅到着直前に再度受信ができ、今度は懐かしい岡田兄の声が聞こえて楽しかったですね。
 松下姉妹もZOOMに加わろうとされているのですが、LineやタブレットのZOOM設定方法が分からずに今日のところは残念ながら不参加でした。次回までに出来れば岡田兄等の援助の元参加できると良いと思います。
 教会では試しに本多牧師が2台のパソコンを用意して下さり、牧師と私用にZOOM使用の祈祷会を試みました。始めはパソコンが近すぎて電波のハウリングからか音響が聞き取りづらいため牧師は隣室の多目的室へパソコンを運んだり、色々と面白い工夫をあれこれしながら、まあ操作等もまだまだ不慣れのため上手く資料が展開できなかったり、てんやわんやの面白い祈祷会でしたが、何とか凌ぐことが出来ました。本多牧師のお話では6月いっぱいの祈祷会はZOOMだけで対応してみましょうという事になりました。ZOOMの祈祷会は確かに多くの優れた面を秘めており、将来祈祷会参加者を増やすことが出来る可能性が十分にあります。内容的にも充実した祈祷会が可能です。・・ただし全てをZOOM祈祷会方式にすることは良し悪しもあると思われますので毎月一回くらいは教会に集まり直接の集会を行う等色々試行錯誤が必要と思われます。LineやタブレットによるZOOM設定方法も調べることが必要です。
 こうした情報機器ををいかにこの時代に有効使用し、教会員だけでなく、ご近所や一般の方々への教会周知方法としても多用途に活用方法を検討してみたいという本多牧師の若い情熱がほとばしっておりました。感謝です。
 今日の御言葉第一コリント13章8〜13節については以下のように進行しました。第一コリントでは「預言の賜物はすたれ、異言はやみ、知識はすたれる」、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛である。」とあり何が一番大切かという事が書かれておりますが、実は今日、私は祈祷会へ向かう夜道で心にあったのは、宇宙の果てについての色々な思いでした。私は創造論調査を楽しいライフワークとさせて頂いているので、時空や物質、精神等の問題は現代の自然科学表現システムでは不完全にしか表現できていないことを私なりに気づかせて頂いているのですが、(数学や物理学等の基本構造の改変が必要)色々試行錯誤しながら調査を進めさせていただいておりますが、今日は特に無限の彼方の宇宙の姿はどのように創造論的に捉えるのが最善かを色々なアイディアを思索していた中で、逆に言えば宇宙がどんなに広く深く、どれほど多くの銀河が発生し消滅しようと、いったいそれが何だというのだろかという事に気づいたわけです。銀河の爆発(ビックバン等)があろうがなかろうがそれは打ち上げ花火がいくつあってもその花火を鑑賞して「鍵屋〜と感謝して鑑賞し天地の創り主を賛美する人がいないなら、何の意味もない、無用な時の流れだけの訳の分からない対象にしか過ぎないものになってしまいます。それなら山川や野の草花、昆虫や小鳥、動物達と共に地球の美しさを称え神を褒めたたえるほうがずっと優れた深く広く豊富な内容を持っているのではないでしょうか。神が天地を創られたとき「BerryGood」とご自身で感嘆されたその本来の生命世界の広さ深さ素晴らしさを感謝しつつ深く理解したいものです。無限については専門的には「可能無限」と「実無限」という考え方があり、現在でも数学的には左右に揺れて研究が続けられている状態にあります。純数学的には無限小、無限大、連続、切断という考え方を公理論的に定義した解析学分野が出来ており、この理論もわ私の目からはまだまだ不十分に見えますが、ただ現代数学では無限概念をある意味では自由に操作可能概念として限定的に捉えその性質をある程度明らかにすることはできます。これは専門的な分野ですので興味のある方があればいつかご紹介しても良いのですが、(進化論の矛盾指摘や創造論的世界観の方法論については色々な考え方があるのですが、いつかこうした思考法についても簡略に小学生から大人まで楽しく分かりやすく解説した創造論の考え方シリーズを紹介できる機会があれば教会HPの「信徒の広場」等に掲載してみても良いかもしれないと思っておりますが、ご希望があればお祈りください。)今回はそういう訳で、道すがら心に示された事をお証しし、牧師先生と語り合いましたが、牧師先生は光速度不変の原理をご承知で、宇宙の果てについても光が届かないような遠方に宇宙が更に膨張しつつあったとしても、いわば無限のその向こうの無限の世界でしょうか、それだから何だと言うのかという事をお話されており、元々自然大好き、星空観察大好きな牧師先生ですから、詳しく理解されており、さもありなんとは思いつつ、さすが聖書を全ての根本に据える福音主義に徹しておられる牧師先生であり、つくづく共感させていただき、不変のものは何かと言う話題に大いに学びの時となりました。実際、世の終わりには古い天地が滅びて新しい天と地に私達クリスチャンは住まわせていただくことになりますが、その時は全ての人が明確に聖書に書かれた世界の真実の姿を見ることとなると思います。
 こうした中で今回本多牧師が強調されておられた点は、最後まで残る最高のものは愛であるということでした、アーメンですね。
 このことは天地も被造物に過ぎず、やがて姿を変えますが、いつまでも変わらないのは(そしてそこにこそ注目しなければならないのは、)神の独子イエスキリスト様のご臨在とご愛の限りなき深さです。全てを創られた三位一体の主であるイエス様は不変のお方であり、分離分解も不可能なご性質を有されているお方ですので、私達はこのお方にのみ希望と期待をもって歩ませていただいている訳でございます。
 こう言う訳で真の目標は何かと言えば、結果的にイエス様がお教え下さっておられる不変のこの愛の充実した信仰生活であり、教会設立の普遍的目標も正にこのイエス様のご愛が教会内、そして信徒一人一人の心に満ち溢れるようになることであり、神様の愛を教会に立ち上げることこそが本多牧師がご自分の使命であると常に述べられておられることの深い意味はここにあるわけであります。本多牧師の解説では現代の日本教会は福音主義的ではありますが、その中身はどちらかと言うと知識を重視したものであり理論偏重のような面も多少あります、また一方最新のペンテコステ派等は御聖霊様の賜物として各種異言、預言、癒しを強調します。しかし本来教会の目指すべき姿は、バランスの取れたキリスト様の愛の教会であり、このことをもっと強調して目指すべきであるという事を強く語られておられました。使徒の方々やパウロさんが熱心に勧めておられるのもこの愛の教会であることは聖書全巻を読めば良く理解されます。・・・本多牧師がいち早くこの事に気づき麻溝台キリスト教会の将来の理想的姿として、キリスト様の限りなき愛の教会を目指そうと言われるその深い意味は正にここにある言えるのではないでしょうか。
 この小さき僕にもイエス様の麻溝台キリスト教会への将来ビジョンとして先週は神と信徒・信徒と信徒同士の縦横の関係の充実の必要性の大切さを示されました。今回は正にそうした中で更により詳しく鮮明に一人一人の信徒の方のご人生に、そして教会そのものにイエス様のご愛の充満した教会へと進むべきであるという具体的な幻を与えられた様に思われました。私どもの様な小さな僕に何ができるわけではないのですが、弟子訓練や小グループを通じて、信仰と希望と愛が育まれ、更に未信者の方々が一人でも多く教会へ来られてイエス様のご臨在に出会い、御救いへと導かれますように今後も祈らせていただき、イエス様の御業が進みますようにお祈り申し上げます。
本多牧師のご健康が祝福を受け、そのビジョンの実現に向かって良い知恵がこれからも豊かに与えられますように。           M.O.
 
6月23日 第一コリント14章1節〜19節「教会の徳を高める預言」

1.ZOOMについて
 今日の祈祷会はZOOMで本多牧師・安先生・岡田兄・小澤(望さんも含む)・松下姉妹の6人が参加出来てとても楽しかったです。御言葉を中心にお互いに語り合い、お証をし合いながら、皆で信仰生活の更なる成長を目指し励まし合い祈り合うことが出来ました。安先生が牧師室でノートパソコンを使用し、本多牧師は同室でディスクトップパソコンを操作してZOOM祈祷会を行いました。安先生がノートパソコンでオーディオを使用すると声がハウリングしてピーというような音が出てしまうのですが、オーディオは止めてもディスクトップパソコンで十分に安先生の声が聞こえる事が分かり、この方法も新しい発見でした。
 ZOOM祈祷会は数十名となると対応が困難かも知れませんが、小グループ13人くらいまでなら十分祈祷会の祝福を受けることが可能の様に思われました。今後更に少しずつ改良しながら、多くの兄弟姉妹に参加を呼びかけつつ(安先生が祈られておられましたが)木曜祈祷会等もZOOMを活用して再開出来ると良いですね。
 Lineを使用したZOOM等も便利そうです。
 今回松下姉妹は家事等があり途中参加でしたが、こうした参加の方法もありでとても楽しいものでした。今後は教会の各グループによる神の家族として御言葉を中心にした良き交わり会が十分に可能の様に思われますので、祈りつつイエス様の御心による最善の方法を焦らずコツコツと探して行くことが良いであろうと思われました。
 また今回もつくづく思いましたが、ZOOMでは本多牧師の導きのもとに一人一人のご意見を伺う事がとても大切なコミュニケ―ションの流れをつくり、素敵な神の家族としてお互いに理解し合い、祈り合いながら進んで行くことができるのですが、このシステムは教会でZOOM使用の場合とても大切なポイントである様に思われとても感謝でした。
 小澤家では先日昔の教会の友人ご夫妻が訪れて下さりとても素晴らしい恵まれた神の家族としてのひと時が持ててとても感謝でしたが、教会でも今後ZOOMを上手に利用することにより神の家族としての素晴らしいイエス様にある交わり会が出来ることの確認が今回出来たのではないかと思われました。
 お互いが神の愛にあってそれぞれの持ち場立場から自由に今日の御言葉から教えられたことをお証し合うことがとても一人一人が信仰と希望と愛の成長をさせていただくのに大切なことであること、イエス様と共に生きて行くことイエス様に励まされながら生きて行くこと、敬愛する兄弟姉妹方との神の家族としての愛のこうした良き御言葉を中心とした勉強会、あるいは祈り会、賛美の集会となることがそれぞれの人生において、とても意味の深い集まりであることが分かります。牧師先生や全ての信徒一同がイエス様の更なる恵みを受けてコツコツと進んでまいることが出来ますようにお祈りいたします。
2.今日の御言葉より
 御言葉の分かち合いについては異言や預言のお話と教会成長との関係について聖書からの研究でした。
 本多牧師は現在エレミヤ書14章7節から「主よ、あなたの御名のために事をなして下さい。」(リビングバイブルでは「主の栄光の為・・となっているそうです。)という御言葉により麻溝台キリスト教会の発展のために主が行動をして下さることを祈り期待するというお話をされており、ご自身がそのために用いられて行動が出来るようにと祈り求められておられました。聖書には詩篇81篇10節に「あなたの口を大きくあけよ、わたしがそれを満たそう。」とあります。私達一人一人は小さな民に過ぎませんが神様は雄大な天地を創造された主ですのでいつでも上を見上げて、主に求め続けることを忘れないようにしたいと思います。
 岡田兄は断食までして祈る事まではしたことがないそうですが、教会員の信仰生活の向上のため聖書研究会での進行役のご奉仕をされたこともあるので、色々な形で神様の栄光の為にそれぞれが今までも多用に用いられてきたことが分かります。
 異言の問題については、現在は安先生と小澤が与えられており、安先生は個人で祈るときは異言でお祈りをされることがあるそうです。小澤も同じですが、色々な課題がある時は特に自身の信仰の祝福を受けることが出来るので、異言で祈ると内なる人が不思議にふつふつと感謝と喜びが湧いてきますのでとても感謝です。異言はコリント書に書かれている通り教会の為には異言を解く賜物をいただいておられる方が加わるととても面白い不思議な形で教会員や求道者の恵みに役立つこともあると思いますので将来そうした賜物がどなたかに与えられることも大切な事と思います。ただし異言の賜物についてはサラン教会のオクハンフム牧師も受けておられないという事であり、最大に必要なのは一人一人に与えられている信仰と希望と愛であることに変わりはない事は本当のことであると思います。
 預言の賜物については、正に教会の徳を高めることになり、それは神様からのご意志を知性の言葉で語ることになるためどなたでも分かり、御言葉の解釈等も含めてとても良い効果があることをパウロさんは述べておられますがそうありたいものであると思います。
 人に理解出来る言葉を使用するということは命と直結した内容を持つ様に思われます。天地創造の主が初めに御言葉により世界を創造されたという事はこうした言葉と命の深い関係を示しておられるように思われます。ですから教会で知性の言葉で聖書を語ることはとても深い意味があると思われるわけです。
 更に本多牧師は最後に第一コリント14章1節より愛と預言の問題についてどちらが大切かを語られていました。現在の日本語の聖書訳では預言することを熱心に求めなさいとありますが聖書原典の言葉からは逆で、どこまでも愛を熱心に求め、続いて預言をすることを求める形に表現されているそうです。第一コリント13章13節「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」の言葉は本来的に生きて語られているという事ですね。
 教会はキリストの花嫁と聖書では表現されますが、真実の愛の関係が第一とされる理由も分かる気がいたします。
 (聖書では救われた人について、生まれる前から救いに計画されいた人として表現されることがあります。これは創造の神様が天地を創られる前から人の姿をイエス様により救われ生まれ変わった心の状態(ボーンアゲイン)の姿を思い描いておられて、正に救われた方がその本来のイエス様の心に近く生きるように目指して行く時に私達はまるで故郷に戻るかのように思うのに通じているのではないでしょうか。6月20日礼拝賛美歌373の4番の歌詞には「恵みにあふれる祈りのひと時、ピスガの山よりふるさとを臨み、御国めざして旅立つときまで、慰めあたえる祈りのひと時」とありますが、しみじみとイエス様のお心を思うひとときを与えられて感謝でした。)     M.O.
 
6月30日 第一コリント14章20節〜40節「教会の成長を促す預言2」

 4名参加のZOOM祈祷会でした。
 本多牧師は先日ぎっくり腰の為、整骨院に通ったそうですが、日曜学校の子供達2人が教会へ来て、牧師先生の様子に気づき自分の肩に寄り掛かるようにとしてくれたそうです。牧師が断っても無理してはだめだと強制的にサポートしてくれたそうです。この時代にあってこうした微笑ましい暖かい心を持っている子供達が育っていることはご両親の影響もあるでしょうが、実にこころ温まる恵みをイエス様がお与えくださっておられることを覚えて感謝申し上げました。子供達の魂が救いへ導かれますように。
 小澤は個人的事情があり、中央区青葉にある青葉ブドウ園(障碍者作業所)のホームページを閲覧してとても感動したお話を致しました。漆間牧師が経営されているのですが、ここには星野富弘さんの言葉が掲げてあり「食われてもよし、つぶされてもよし、干されてもよし、一番甘くなって、枯れよう。」とあります。また牧師の文章で「葉が陽を浴びて、実に栄養が与えられ、十分に実ったのちに役目を終える。支援者として、誰かの為に葉になれますように。」とありました。すごい言葉です。主の小さき僕として私なども少しでもこのように生きて行ければなとつくづく思わされました。
 また、最近交通事故にあった家族の夢を見て、ハットしましたが、その後千葉県八街市で児童の列に大型トラックが突っ込み、5人が死傷した事故をニュースで知りました。大変悲しい思いがいたしました。またつい最近読んだ本「聖書カウンセリング概説」山口勝政牧師/著の中にも自宅近くでお子さんを交通事故で亡くした方のお話があり、いつも「お母さんが守ってあげるからね」といっていた中での事故ですので、お母さんは自責感にさいなまれました。しかし彼女はキリスト様の十字架の贖いを信じて救われたという事が書かれておりました、その晩初めて数年来失った睡眠を十分にとったというお証でした。多くの苦難困難の中にあられる方が今も多くおられるものと思います。この地域からも一人でも多くのこうした方々が救われるようにと思いました。
 安先生はイザヤ書30章21節より「あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ、これに歩め」ということばを聞く。」という御言葉を示されて、ご自身の進む道がどのような道であろうとイエス様が励まし支えてくださるなら心配しないで良いことを覚えてとても感謝ですと言うお証をされておられました。真にこれから安先生の進まれる道が山か川か、砂漠が、草花生い茂る野原か分かりません。何がどう進もうとこれからも安先生ファミリーのために信徒一同が祈りをもってお支えすることが大切であると思います。共に継続的に祈ってまいりましょう。
 岡田兄は先日の教会での床ワックスがけの時に、ある姉妹がとても素晴らしいご奉仕をされえいる姿に感動したことをお証して下さいました。本多牧師も気づかれており、ご聖霊様が着々と信徒一人一人の信仰と希望と愛の成長をお導きくださり続けておられることにとても感謝されておられました。イエス様が目に見えないところで着々と信徒の方々をお育てくださり続けておられることを思い心から感謝申し上げました。
 第一コリント14章20節以降からの今日の御言葉の学びについては次の通りです。
1.小澤が異言の賜物をいただいたのは、昔この賜物を求める集会に参加したことがきっかけでしたが、安先生の場合は何と小学生の時教会のキャンプで先生に進められて聖書に書かれている良いことは全て求めましょうというお話があり異言の賜物をいただいたそうです。正にヨエル書2章28節の預言の通りです。「その後、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子、娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」・・幼子にもイエス様の愛は限りなく降り注がれます。感謝です。
2.こうした中で、教会の中で使用される異言や預言・癒しの賜物のことをパウロさんの手紙のから深く学ぶことが出来ました。異言が自分でも分からない内容を霊により神様に直接祈る祈りであるのに対して予言は知性の言葉で語るため教会の徳を高めることができ多くの兄弟姉妹にとって教会を立て上げるのに非常に役立つことを学ぶことが出来ます。
3.岡田兄は同コリント書22節と23節で、異言が未信者の為と書かれているにもかかわらず、更に未信者の方が教会に入って来たときに何を語っているのか分からずに困惑して躓くことになると語っていることの矛盾をご指摘されて、この解釈の難しさを述べておられました。牧師もこの点については注解書でも解釈に色々な混乱があることを解説されておられました。異言は個人で神様と直接語り合う為その人が信仰が厚いか薄いかによらず恵みでありプラスに働きますが、教会で無秩序に語られるなら混乱を招くだけであるとするパウロさんの進言が恐らく一番正統であり、真実であろうと理解出来るように思われます。
4.小澤の経験では、以前の教会では聖霊の賜物が強調されており、目の不自由な姉妹が救われていたのですが、ある時突然牧師室をその方がご主人と共に訪れ大声で別人の声を出し大暴れをしたという事をお聞きしたことを思い出します。その姉妹は救われて信仰を持っていたはずですが、目が癒されることを求めて、なにか狐憑きのような宗教を訪問したそうです。そこで結果的に大暴れの悪霊に取りつかれてしまったと言う事でした。異言・預言・癒しの賜物は聖書的に正しく理解されて、正しく活用するならこの世では意味のある大切な良いものであると思いますが、この場合大きな問題は正にそうした賜物を与えられても直接にイエス様の救いには繋がらないというケースが多いという事です。正に10人が癒されても一人しかイエス様の元に戻ってこなかったという聖書の記述の通りでありましょう。イエス様が真実に私達に伝えたいことは一人一人の魂の問題であり、深い信仰と希望と愛の成長の世界、正に魂の永遠の救いの世界でありこれが見失われてしまい、これを目指さないならいったい教会生活は何のためにあるのか全く無意味になってしまうことをつくづく教えられます。
5.安先生のお話では昔はカリスマ派やペンテコステ派・福音主義派や正教会等色々な教派が聖霊の賜物について異なる見解を持っていたため争論が耐えない時代もあったそうです。日本でも同じようであったでしょう。岡田兄のお育ちになられた教会では宣教師の方が異言は昔のことで現在は無いのだと明確に語られていたそうです。小澤の昔のホーリネス教団でも異言があることすら語られておりませんでした。しかし現代では世界中の教会が聖書の言葉全体をそれぞれの解釈も含めて容認されており、互いに助け合う教会形成が出来始めていることはとても感謝なことと思います。
6.本多牧師も教会のより真実な在り方として、パウロ先生の言われる通り、異言も預言も正しく活用されるなら教会形成にも役立ちますが、しかし信徒の方々が第一に求めるものはもっと一人一人の魂に直結した御言葉の世界であり、信仰と希望と愛の世界であること、永遠の命の世界であることを強く強調されておられました。・・・今回はコリント教会がギリシャ近くにあったこともあり、繁栄していた商業都市であり、異言・預言・癒しやその他の哲学的議論・世俗的価値観等蔓延していた大混乱の教会であったことが良く分かりました。
7.そうした中で麻溝台キリスト教会が本多牧師の言われるように、イエス様の御心に沿った御言葉を土台とした、より真実の神の家族としての聖い愛の教会づくりを目指しているという事の意味、そしてその深い素晴らしい目的地を祈祷会参加者全員が共通して深く学ぶことが出来て本当に恵まれました。教会はキリストの花嫁です。イエス様の愛が満ち溢れた、より真実の神の家族としての教会づくりを今後も皆さんと共に進んでまいりましょう。とても感謝な祈祷会でした。
9.ZOOM使用の為、賛美が4人とも少しずれて歌われたのも面白い現象ですが、これは本多牧師が今後メロディーソフトをZOOMに流すことにより、多少改善されるかもしれません。祈りましょう。
 ZOOM活用は姉妹方にはそれぞれ独自の趣向や課題の方向性もあると思います。山村愛子先生の時は「子育て母の会」等に求道者が来られていたこともあり、将来はソヘヨン先生(現在は忙しすぎると思いますが。)などにより聖書学習会(祈祷会)等が適時開催されると教会の良き働きとなるのではないかとも推察されます。祈りましょう。
M.O.
 
7 月  
「まな」6月号巻頭言

友の為にいのちを捨てるほどの大きな愛はない 

                                          ヨハネ1513

コロナの脅威がなかなか収まらない。見えない敵に戦々恐々している毎日が続いている。外出すれば、マスクをし、店の入り口では手を消毒し、また帰りに消毒し、そして家に帰れば、また消毒し、うがいをし、マスクをごみ箱に捨てる。出来るだけ密にならないように、互いに注意し、外出や公共交通手段を避ける。こんな毎日が続いている。そんな中、ワクチン注射が始まり、高齢者から次第に年齢の低い方々へとその枠が広げられている。良かった、と素直に思う。私も高齢者の一人として一回目を受けた。勿論、ワクチンに抵抗を感じて受けない人もいるだろうが、その人はその人で、やはり自分を守ろうとしている。いのちはすべて大事にされなければならない。
 だが、一人のキリスト者として、改めてこのコロナ禍の中にあってふと考えた。自分の命を守り、他人の命を守るために最大限の事をしなければならないことは誰しもが考え、実行している。そして、その一人のキリスト者としても、最大限、神から与えられた命を大事にし、主にも、人にも、健康な体で仕えたいと思っている。しかし、先日の主の弟子訓練コンベンションで聞いたことが耳から離れないのかどうかわからないが、自分の命を守ることだけで良いのだろうか、とふと思う。あの講演の中で、かつてヨーロッパで疫病が流行って、無数の人たちが死に、遺体を放置される中で動いた人たちがいた・・今の時代の衛生管理とは違う中で・・。それはキリスト者たちだった、と言っておられた。放置された遺体をそのままにするなら、さらに疫病が広がるそんな非常に危険な中で、その遺体をきちんと葬っていた。何でそんな危険なことを彼らはしたのか。それは、自分たちは仮に死んでも、主の御許に行くことができるから、という信仰に立ってしていたという。今回のコロナでも中国の武漢でもそのようなキリスト者たちがいたとも言っていた。すごい信仰と愛だ。到底まねはできない。
 確かに、今、自分の命を守ることは、他人の命をも守ることにつながっている。だから、自分の命を危険にさらすような行動は慎まなければならない。しかし、十字架の主がそうであったように、「人が友の為にいのちをすてること、これより大きな愛を誰も持っていません(ヨハ15:13)」と主は言われたことが気になる。自分の命を守ろう、守ろうとする中で、「友の為、人の為に命を捨てる」という生き方が本当にできるのか、今、このコロナ禍の中で、新たに何か問われているような気がする。
 重い課題だが、自分のいのちを守ることのみに関心が向きやすい中で、何か大事な生き方を忘れてはいないかと、思う。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタ10:38)」と主は言われた。十字架は誰かの為に死ぬこと。今、健康に生きることを大事な生き方とされている中で、全く真逆な生き方、「友の為にいのちを捨てる」とか、「自分の十字架を背負って、主についていく」、こんな生き方を、キリスト者として考えることが求められているのではないか。捨てる事、十字架を背負う生き方です。皆さんはどう思いますか。私にも解答はありませんが、いつしか自己保身になっているままの自分で良いのだろうか、と思う。自己保身から抜け出し、主の為、人の為に何ができるかを考えることが、今、このコロナ禍の中でキリスト者に問われているのではないでしょうか。

 
7月7日 第一コリント15章1節〜11節「キリストの復活の事実」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
 岡田兄は九州へ出張のため、疲労があり参加休止されました。水曜祈祷会はお勤めの方には意識的に相当工夫しないと参加困難な時間帯であることと、主婦の方には家事の時間帯であり難しさがあると思います。ですので無理をされないようにお勧めいたしますが、工夫できる方は大切な恵みの時を共有でき、一週間の霊性が祝福を受けますのでクリスチャンライフの豊かな恵みの為にも参加をお勧めいたします。毎日のデボーションも大切にされますように。
 今日のZOOMでは賛美ソフトを本多牧師のPCだけで流して、後は皆さんのミュート機能をオフにして試しました。本多牧師ご自身がミュート機能オフを忘れたため音楽ソフトの音が小さくなり聞き取りにくい状態が生じましたが、逆に本多牧師の賛美に合わせて2人とも賛美が出来て楽しかったのではないかと思います。感謝です。今後も試行錯誤をしてみましょう。
 また小澤家では本多牧師がワンワンの声に気づかれて、私の隣にワンワンが横になっていますとお話を致しました。テーブルの下のワンワンもまた御言葉を聞いて祝福をされることでしょう。感謝。
1.参加者の近況報告タイム
(1)本多牧師は腰痛の為動きにくくなり、じっとしていると更に活動意欲や霊性も低下するのでつらい状況が続いているそうです。私なども高齢化の為、長期間活動を継続する事が困難になりつつあるので良く分かります。焦らずに無理せずに生活全体を工夫して祈りつつ前進をさせていただきたいものと思っております。本多牧師には元気に長寿を全うしていただき、楽しい牧会人生を過ごし、神様の栄光溢れる素敵な恵まれた教会つくりを目指していただきたいと願いますので、どうぞお祈りください。先日はこうした中で食料を購入しにサンレモにお寄りして西山兄や鈴木姉・松下姉にお会いできたそうです。また近くでは林兄姉にも久しぶりにお会いでき、いつか教会へお寄りしたいというお話だったそうです。近くに敬愛する兄弟姉妹がおられることは教会にとってとても楽しいことですね。イエス様に感謝申し上げます。8日には民生牧師が都合により本多牧師宅へ来られるそうです。家族団欒の良き時が持てますようにお祈りいたしましょう。
(2)小澤は7月7日は丁度妻の光枝さんの葬儀のあった日であり、家族で小さなケーキを購入して光枝さんへの感謝祈祷会を持とうと思っております。光枝さんの救は親戚に斎藤烈宣牧師(名前は記憶によりますので正確ではありませんが、アメリカで勉強されて大戦前に香港などで宣教をされた宣教師です。)の奥様がおられて、間接的にはその方などの影響もあり、光枝さんが困難の中にある時にイエス様の救いに与かることができ、そのことを通じて私も結婚前に受洗へと導かれた経過があります。(本多牧師も昔、福音主義の本質的恵みを韓国のキム・コンガン牧師の著作を通して初めて深く学べたことを語られておりました。)こうしたことは安先生がこれから本格的に日本で宣教をしてくださいますが、どこでどうイエス様の救いの道が繋がってゆくのか計り知れないものがあると思いますので、安先生ファミリーの宣教の御業が祝福されますようにお祈りいたしました。
(3)安先生はイザヤ書でヒゼキヤ王の祈りが聞かれたことににより、逆にバビロンからの使者に神殿の宝物を全て見せて自慢するという油断をしてしまったことが書かれている箇所から、逆に祈りのきかれない時の大切さもあることを知り、思い通りにならない場合などにもイエス様の深い御計画があり、そのことを信じて進む事の恵みをお証されておられました。アンジュちゃん達もお元気だそうです。感謝いたします。
2.聖書の学びタイム
(1)今日はコリント教会の人々が繁栄と各種の主張論争の中でパウロさんが初心に帰ることの大切さを勧めておられる個所です。それは十字架の贖いとキリスト様の復活こそが聖書の何よりの中心的出来事であり、救われた時の初心に信徒の方々がいつも戻ることの大切さを教えておられます。イザヤ書51章1節には「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とあります、くれぐれもこの事を大切に致しましょう。
 本多牧師はご自身が田舎者の一学生に過ぎなかったのに突然救われて、神様の救いを述べ伝える事となったことに対して、大変恐縮されており不思議な導きと共に、恐れ多いことであることをお話されておられました。・・・しかし私は最近読んだ本でつくづく考えさせられたことがありました。それはイエス様は律法学者と対等に渡り合っただけでなく、その解釈の過ちを明確にご指摘された方ですが、なんと全天全地をお創りくださった神のひとり子が文明から離れたド田舎のしかも名も知れぬ貧乏大工の息子として生まれたという事、(特別な教育を受けた様子もないと思います。)しかし正にここにこそ天地創造の神様の救いの本質的すごさがあること、真理の深い意味があり、神の愛の全き完全性が現わされていることをつくづく教えられるのです。12弟子も無学のただ人であり、敢えてそういう方々を選んでおられるイエス様の選びの確かさと深い御計画は限りない救いの真実の表明そのものであるようにわたくしには思われます。もしイエス様が神学校卒業のバリバリのエリートであったらどうでしょうか、金銭にも困らず自由自在の贅沢三昧の家に育ってご自身がそのように暮らしていたらどうでしょうか。思っただけでもぞっとする情況であり、全人類のだれも救われなかったのでは無いでしょうか。形式主義・律法主義だけの中身のない信仰に陥っていたイスラエル、貧しい人、悲しめる人、病める人々を思いやることすらしないイスラエルになってしまっていたことは、小預言書全体を読んでも心傷む記事が続きます。キリスト様があえて貧しい人は幸いである、悲しめる人は幸いであるという事を弟子たちに語られたことは偶然ではなく、目の前におられる苦しみ悲しみの中にあられる人々にそして罪の中にどっぷりとつかり出口無しの中でもがいている人々に真実な救いを伝えることはイエス様をおいてどこの誰にも不可能なことです。私達、最初に救われた者が福音をお伝えする事の深い意味や方法をここでとても深くイエス様がお教えくださっておられるように思います。イエス様がお与えくださった真実の永遠の命はこうした中から初めて何が大切で何がそうでないかを教えていただけるのではないかと思われます。そうした中で私の様な小さな者も雄大なイエス様の深いご愛の十字架を見上げつつ最後まで信仰と希望と愛の山頂を目指しつつイエス様と共に歩ませていただきたいと願っております。イエス様に心から感謝申し上げます。
(2)コリント書ではイエス様の復活の証人として500人の兄弟達に同時に現われとかかれていますが、実際には女性や子供達を合わせれば2倍以上の人々に現れ証しされていたであろうと本多牧師はご説明くださっておられました。聖書には難解な個所も多く、私も山口勝政牧師の「福音主義聖書論」やヴァン・ティル牧師の「十戒」等を不思議な導きにより楽しく読ませていただいておりますが、全ての基礎は聖書全体を貫く天地創造の神様のご臨在と、十字架のイエス様の復活の事実のお証です。こうしたことはご聖霊様のお助けをいただいて経験させていただいた方にしか詳しいことは分からないと思いますが、真実にイエス様の救いに与った方であれば聖書の真実の言葉がひしひしと心の中に浸透してくることがわかるでしょう。
(3)本多牧師は私達信徒個人が聖書を学ぶだけでなく、何とかこの地域の方々が一人でも多く救われるように御言葉をお届けしたいと、熱く語られておられました。ご聖霊様の豊かなお助けをいただきながら新しい道を開いていただくように今日も心から祈らせていただきました。
(4)安先生も初心に帰ることの大切さを明確に語られておられました。真にアーメンであります。
3.今日の祈りタイム
(1)牧師の腰痛の癒しのために。
(2)最近教会へ来られておられない兄弟姉妹のために、また新しい求道者が導かれますように。
(3)小澤家では聖子さんが新しい最善の作業所へ通えるように牧師先生等にお祈りいただき、少しずつ着実に最善と思われる道が与えられてきておりますが、感謝と同時に今後もお祈りをお願い申し上げました。
(4)一人でも多くの兄弟姉妹が恵まれるように、福音が地域に広がるためにも祈りがとても大切な切り札の様に思われます。木曜聖書研究会等も再開できるとよいと思います。祈りつつ出来る工夫を色々と重ねながら皆様と共に進んでまいりましょう。イエス様に感謝申し上げます。
M.O

 
7月14日
第一コリント15章12〜19節「信仰者の復活の事実」

 4名参加のZOOM祈祷会でした。小澤望さんと小澤家のワンワンのマリーちゃんも特別参加いたしました。牧師先生が祝福してくださいました。神の家族が多く参加できるようになるととても楽しいですね。
1.参加者の近況報告タイム
(1)本多牧師のお証・・へブル書13章「主は見放さない。」の御言葉により今までの牧会人生を守り続けてくださったイエス様をお証されて、今後も麻溝台キリスト教会を祝福してくださるに違いないという励ましをいただかれたそうです。イエス様が若い人々を救いへ導かれるように祈られておられました。
(2)安先生は道を歩いていて日曜学校の子供たちと会う事が出来ました。奇跡です。「私の小羊を養いなさい。」の御言葉は子どもたちが十分に幼いうちから救いが与えられ、やがて素晴らしいクリスチャンに成長できることが不可能ではないことを明らかに示して下さっておられると思います。日曜学校生徒達のために祈り続けましょう。
(3)小澤のお証・・日々のデボーション箇所がヨナ書に入りました。「小預言書の福音」高橋秀則/著:命のことば社・・によりヨナが何と敵国であるアッシリアの首都二ネベへ行って悔い改めを語りなさい。彼らの悪が私の前に登ってきたからだというご使命をいただいたのですが、生粋のイスラエル人であるヨナはそんなことはできないと、頑なにこれを無視してタルシシ(現在のスペインあたりですので当時としては世界の果て)に逃れようとします。このため船が大嵐に合い、船員たちのくじ引きによりヨナのためにこのような大嵐が起こったことが分かり、無実の船員達を危険にさらすわけにもゆかず、ヨナは自分を海に放り込む様に船長たちに指示します。恐らくヨナご自身も死を覚悟したと思いますが、気づくと大きな魚のお腹の中にあり、そこで悔い改めがあり、祈ると3日目に岸に打ち上げられ、すぐに二ネベの人々に悔い改めの宣教が始まります。二ネベの人々になんと悔い改めが起こり人々が救われてゆくという奇跡が起こります。これはイエス様の十字架の死と復活、また世界宣教の雛型とも言われる箇所ですが。全く敵国を愛して宣教するようにというご指示を受けた時、果たしてどれだけの人がそのことに使命を感じてしっかりと宣教できるかという事を思いました。しかしこれこそ本来の聖書の神様のイスラエル建国の目的でもあり、やがて祭司の国としてイスラエルを成長させて、世界中の人々に救いを伝えようとされたイエス様の雛型そのものである訳です。いかにすごいことが十字架のイエス様が限りなきご愛をもって私達に福音をお伝え下さったかをあらためて思います。感謝。・・・牧師からのコメントは昔韓国へ初めて福音宣教へ招かれた時のことを、感慨深くお証しして下さいました。韓国が敵国と思われているような時代に韓国の教会でヨナ書からメッセージを語られたそうです。(深い神様のお取り扱いを覚えます。)大変な圧迫を本多牧師も経験されれながら韓国でのご奉仕をされたそうです。また今日でも韓国やアメリカから多数の宣教師を日本を愛しつつ派遣してくださっておらることなど、イエス様のご愛とご計画をつくづく本多牧師はお証されておられました。アーメンですね。麻溝台キリスト教会でも今後もできる限りのことが世界中の宣教師の方々のためになされ続けますように。
2.聖書の学びタイム
(1)コリントの教会はヘレニスト(中東のヘレニズム文化圏の人々)が多くてギリシャ哲学の影響から抽象的霊的な思想が渦巻いており、人間の復活を信じなかった。(肉体は悪・霊は善の考え方から肉体の復活を信じず拒んでいた。)これでは真実の復活の信仰に立ません。本多牧師は霊と体の復活の信仰をしっかりと得ておられます。何と現代ではミッションや牧師でさえ復活を信じていない人がおられるそうです。本多牧師は復活を語らない牧師は聖書を勝手に解釈しており、嘘を言っていることになることをコリント書から強く強調されて語られておられました。日本中、世界中の諸教会のための祈りが必要ですね。アーメン。
(2)小澤は最近、創造論調査のために「レヴィナス無起源からの思考」斎藤慶典/著:講談社・「デカルト的省察」フッサール/著:岩波文庫を読み始めています。ともに現象学という哲学分野を作り上げた方々ですが、哲学の世界と聖書神学の世界との対比などをしながら聖書創造論の調査を継続しています。一般的には現象学もまた人間の思考(これは直接的にそれ以上遡れないと仮定される人間の認知能力を指向性という概念に求めて、近代哲学の一つの流れを作っている方法です。)のみを土台としようとするため、デカルトさん流の全ての学問知識の原点を探すという誠実な哲学探究の良さはありますが、結果的には人間の思考力のみにその可能性を越えて価値を置くため、どちらかと言えば人間の認知能力を偶像化しているように私には判断されました。これらの方法では現代自然科学論の欠点(自己矛盾の論理や欠点が同じようにあります。)と同じく、それだけでは神と世界と人とをより正確に全体的に把握することは困難であると思います。キリスト様を知り、キリスト様と共に歩むという事が無いととても真理を正しく深く広く知る事は不可能であるとつくづく思います。本多牧師も現代の日本人が仏教や神道その他の宗教が曖昧な抽象的天国観しかもっていないと話されておられました。何ものかを偶像化し易いという人間文化の大きな欠点がこの時代にも継続しているという事を思わされます。真理に目が開かれるという事はご聖霊様によらないと全く不可能なことですね。私達も亦聖書のお教えくださる命の道からずれないように注意しながら、共に祈り続けてまいりましょう。
(3)望さんは子どもの頃は自然に神様を信じていましたが、高校・大学では復活を霊的なこととしている先生がおられて、命の復活は強調されなかったため、今は詳しく分からないということを話されておりました。・・・本多牧師がご自身が若き日に宣教師との出会いの中で救いの経験をされた時のお証をしてくださいました。感謝致します。
3.祈りのタイム
(1)牧師に与えられている大きなビジョンは麻溝台キリスト教会に次世界を引き継ぐ若い方が一人でも多く与えらえ、救われることです。全ては祈りから始まります。共に祈り続けましょう。
(2)31日の連合オンラインキャンプが祝福され、麻溝台キリスト教会でも子供達が参加できますように。
(3)牧師先生他全ての教会員の方々の霊性が祝福され、健康やお仕事・ご人生が豊かに祝福されますように。
イエス様に常に栄光がありますように。お祈りいたします。
 M.O
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 ヒメオオギスイセンと思われる花が咲き始めました。教会の自転車置き場の整理に伴い教会員の方が植えておいてくださった草木を小澤家に移植してみたものの一つです。南アフリカ産で繁殖力が強く耐寒性もあり、佐賀県では移植禁止されているようです。美しい花でもったいないですね。現在も教会の物置の傍に何本か咲いております。・・・ご自身で造られた自然を愛するイエス様のお心が分かりますよ。・・感謝です。ご覧あれ。(右脇写真です。)

 
7月21日 第一コリント15章20節〜34節「復活を焦点にした生活」

 参加者4人のZOOM祈祷会でした。
 松下姉が施設でのシャワーの順番待ちの時間帯を活用してZOOM祈祷会に参加出来てとても楽しい祈祷会でした。
安先生のアンジュちゃんの声が鳴り響く中、ソヘヨン先生が部屋の中を行き廻り、時々あわただしく音声が途切れたりしましたが、とても楽しい祈祷会となりました。祈祷会参加者が増えると、更に賑やかになるのでありましょう。神の家族の祈り会です。とても楽しい大切な時間帯ですね。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師は今週のメッセージから父が子に良いものを伝えるという事について、ご自身がどれだけ子どもたちに良いものを残せたかという事を反省的に語られていましたが、民生牧師の愛音ちゃんは寝る前にいつも聖書を読んであげてから寝かしておられるということで安心しましたとお証されておりました。(あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ・・伝道者の書12章1節)
(2)小澤は最近読んだ「フランシスコ・ザビエル」浜田けい子/著(講談社火の鳥伝記文庫)のお証をしました。ザビエルさんは日本に最初に福音を伝えて下さった方ですが、うかつにも詳しいことは知りませんでした。図書室に立ち寄った時に目に留まり、この本を読みなさいという主の示しを心に感じてお借りしました。
 ザビエルさんはパリ大学で立身出世を目指していた時に、イグナチオ・ロヨラさんと出会い、彼のアシジの聖フランシスコさんを思い出すような熱心な信仰(「この世の全てを得ても、もし命を損すれば何になろうか」の御言葉を実地で進んで行った方です。)に心打たれて、献身されて同じ志を持つ仲間7人と共にイエスズ会を結成し、この活動がやがて教皇庁にも認められて、ザビエルさんは東洋宣教を示されてマラッカ滞在中に薩摩の国のヤジロウという武士(後にキリスト教徒となる。)に出会い、日本の状況を知り日本への宣教を目指します。
 当時の海路は海賊だらけで嵐もあるので命がいくつあっても足りないような情況ですが、それらを乗り越えながら九州へ上陸し伝道を開始します。教皇庁やポルトガルの援助があるとはいえご自身は清貧を地で行くような宣教活動ですので感動を与えて、多くの日本人がキリスト教信仰を持つようになります。ザビエルさんは天皇に宣教の許可を得るのが良いと考えて、京都へと旅立ちますがこれもまた命がけの旅です。しかし京都では既に戦国時代にあり、焼野原、天皇の権威も失われている時代ですので、やがてそこから元の九州へと戻りますが。こうした中、日本文化が明国の影響が強いという事に気づき、明国への宣教を先に行うことを決意して、日本を去ります。この間、僅か2年間です。
 ここで救われた方々がやがて日本の鎖国政策とキリシタン弾圧の時代へと進み、多くのキリスト者が殉教してまいりますが。ザビエルさんの真実の信仰を思えばさもありなんと納得できる歴史展開です。つくづく教えていただくことが多かったです。
(3)本多牧師はコメントで日本の北海道でも宣教師達が隠れキリシタン達が金鉱で働いているのを知り、身分を隠して命がけでそこ行き礼拝を守る様にしておられたという事があったそうです。後にこうした宣教師は江戸で火責め水責めのj殉教をされたとの事です。実に神様が日本を愛して下さって、命がけの宣教師達を多数お送り下さり、日本の宣教を進めていてくださったことを知ることは、とても感動します。
 現代日本の私達が何が出来るかを改めて反省的に祈らされたことでした。
(4)本多牧師は夏休みに九州へ行こうと考えておられたとのことで、ゆっくりと休養をお取りになっていただきたいと思いつつ、殉教者の方々の足跡のあるところですので感慨深いものがあると思われます。安全に旅行が出来ますように。
(5)安先生はイザヤ書64章8節より、来週のメッセージ個所と重なりますが、「あなたは私たちの陶器師です。」という御言葉から、全て私達がイエス様の守りと導きの中にあることをお証されておられました。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師は復活した時に家族と再会できる希望の素晴らしさをお語り下さいました。
 また、聖書では第一コロンと15章29節のお話もあり「死者のためにバプテスマを受ける人たち」について、色々な解釈がありますが、当時は信仰を持っていても受洗する前に死んだ人の代わりに関係者が受洗を受けるという事があったようです。これなら私は父が召された時、山村牧師が聖書のお話をされている時にアーメンという事を語っていたので大丈夫と言うことを言われて安心していましたが、私が代わりに再受洗すれば良かったと思いましたが、本多牧師は信仰があれば大丈夫ですよと励まして下さいました。感謝です。
(2)松下姉のお父様が9年前の7月4日に召されたそうですが、私の妻が召されたのが同じ年の7月3日でした。不思議ですね。しかし天国があるという思いがあるので深い悲しみは乗り越えることが出来ますし、再会の希望がありますので感謝であります。これはクリスチャンの特権ですね。
(3)本多牧師は生き方の優先順位というものを心掛けているそうです。@神の御心を優先すること。A自分の使命(牧会)を考えて行動すること。B天国を目指して走るべき行程を走りぬことが出来るように最善を尽くすこと。Cご自身の弱点の克服を目指すこと、具体的には麻溝台教会へ来てからは、弟子訓練は良いのですが、伝道の弱さがあり、若い方の救いを目指しておられるという事でした。(静岡教会時代は伝道が中心でしたが、札幌南教会では弟子訓練に重点を置いていたため麻溝台キリスト教での現在は再度伝道の力が必要とされ祈っておられるという事でした。)D捧げものについて自分自身を捧げること、天に宝を摘むことを目指すこと。を語れておられました。
3.祈祷タイム
(1)若い方の救いがとても大切であり祈りました。
(2)実結ちゃんが、教会紹介のインスタグラムを作ってみるというお話をしてくれたそうです。こうした若い方々の力がどうしても教会の将来の為に必要です。お祈りのサポートを継続しましょう。
(3)西山兄が教会礼拝後も積極的に色々な信徒の方々との会話を大切にしたいという事を話されていたそうです。神の家族の素晴らしい交わりがなされてゆきますように。
 教会は天国の雛型です。自分自身が救われることはとても感謝なことですが、それだけではなく、神の家族が死ぬことない永遠の国で再会できる望が与えられていることはどれほどありがたい素晴らしいことでしょうか。共に祈り合い続けましょう。感謝いたします。    M.O.
 
7月28日 第一コリント15章35〜58節「復活の体」

 参加者3名のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師はエレミヤ書31章から「主は永遠の愛をもってあなたを愛した」「再びあなたを立て直し、あなたはタンバリンで身を飾り喜び笑う者達の踊りの輪に出て行こう。」と書かれており、リバイバルを期待しましょうとお話しくださいました。麻溝台キリスト教会の若者達が賛美と喜びの声で湧きたつような日が来るように祈られておられました。厳粛な聖い教会であることと同時にこうして賛美と喜びに溢れた教会となるように夢と幻をもって祈り続けましょう。感謝。
(2)安先生は毎週韓国のオク牧師の後継者と思われているイ・チャンス先生のメッセージを毎週一回聞かれているそうです。ヨハネ5章5節より「世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の御子と信じるものではありませんか。」とあり、クリスチャンは思い煩いをせずにイエス様を信じて勝利を得る者となることが出来ることをお証されておられました。アーメン。
(3)小澤は最近読んでいる「さわやかな風のように」八巻正治/著(キリスト教新聞)のお証をしました。ご本人は福祉関係の講師であり、教会も牧会されておられますが、奥様(2代にわたる牧師先生の娘)の弟さんが知的障害のある方で、その方を親御さんの家から自分達の住んでいる四国の家に引き取り、共に暮らしながら弟さんの心の成長を支え励ましつつ生きておられるご家族のお証文です。八巻牧師の故郷は北海道ですので北海道家庭学校のことも掲載されておりました。明治時代のキリスト者留岡幸助牧師により東京にあった感化院の分校として北海道につくられた学校です。問題のある子供達を預かり今も活動をされているキリスト教中心の福祉学校です。八巻牧師のご生活を垣間見させていただきながら、今日も多くの苦難困難の中にある方々の具体的な生活状況を学ぶことができ、同時に信仰をもって色々な出来事を感謝しつつ乗り越えていかれる八巻牧師から教えていただける事は多いです。明治以降キリスト教徒による福祉活動はこうして現在も九州の孤児院や四国のらい病棟、京都の近江学園、北海道の家庭学校等全国でキリスト者達の活動が目に見えるところ見えないところでキリスト様の特別な恵みにより継続的に活動がなされていることを知り、つくづくと日本を愛し働き続けて下さっておられるイエス様に感謝申し上げました。一人でも多くの障害をお持ちの方々がイエス様の祝福を受けられますように祈ります。
2.聖書学習タイム
(1)種は死ぬ事により芽を出し成長することを学びました。私達の体はいつか朽ち果てますが、新しい栄光の体として蘇る希望が聖書に書かれております。本多牧師は光り輝く体に蘇ることと、瞬間的にそのように変えられることを思うと心が弾むという事をお話されておりました。
(2)個性はそのまま残りますが、もはや朽ちることない病や障害もない癒された完全な体が与えられることをお話されていました。
(3)安先生はご自身の不完全性として怒りっぽい事があると話されており、このこともやがて癒されてゆくことでもありますね。キリスト様に似た形に変えられるのであることと思います。感謝です。
3.祈祷タイム
(1)私達クリスチャンは神の家族であり、この事は真にイエス様のご愛をもってお互いに仕え合い、愛しあう事が可能であるという事を、教会を通じて経験的に私達クリスチャンは知っています。こういう世界は世の中の普通の人々は不可能であると思っているではないかと思われます。実際、天国が現在と同じ状態の世界であれば無理に長生きなどしたくないと思うお方がおられるのではないでしょうか。希望の無い世界となります。真にイエス様によりボーンアゲインされた方々により初めてイエス様のお教えくださった平和で愛の満ち満ちた世界が可能となると思います。この世でも少しでも教会を通してそのようなイエス様の栄光溢れる集会へ更に成長させて頂きたいとつくづく思います。
(2)今日も3人で信徒の方々一人一人の祝福のために祈らせて頂きました。こうして教会の神の家族のために私達一人一人が祈り合う時間が与えられていることが何よりも素晴らしいイエス様の恵みの時であることをつくづくと覚えました。どうぞご自身のご家族の為にも、また教会の兄弟姉妹方の為にも継続してお祈りください。祈る人自身にイエス様から豊かな祝福の心が溢れます。
皆様に祝福が豊かにありますように。     M.O.
 
8 月  
「まな」7月号巻頭言

絶えず、しきりに!

エレミヤ253

朝起き、洗面をし終えて、書斎の小さな、そして雑然とした机に向かう。そして、椅子に座り、小さな祈りをささげた後に、聖書を取り出し、今日読む個所を開く。いつもの変わらぬ光景だ。何も特別な事はない。だが、小さな祈りの中で主に祈った。主よ、お話しください、僕、聞いております、と。これもまたいつもと変わらぬ光景だ。小さな期待を込めた祈りを捧げつつ、いつも通りに聖書を開く。その日の読む個所を、いつものように何度も繰り返し読んで黙想しようと思って、その日も聖書を開いた。エレミヤの、神の裁きの宣告が繰り返されていく中で、今日も、同じ繰り返しかな、と読み始めた。読み始めて直ぐに、小さな言葉が、目に、いや心に飛びこんできた。「あ、」と思った。心のどこかに隠れていた言葉が目に飛び込み、誰かが言っていた言葉だったことを思い出し、一通り聖書を読んだ後、後ろの本箱から思い出した先生の本を取り出して、開いてみた。「宮村武夫著作5 神から人へ・人から神へ」。その中に「エレミヤに学ぶ」の「エレミヤの生涯」の中で、エレミヤ同様に、恩師・宮村先生が絶えず、しきりに繰り返していた言葉が書かれていた。それが、何とこのエレミヤ253節の言葉。少し長いが、この節全部を書き出してみます。
  『ユダの王、アモンの子ヨシュアの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主の言葉があり、私はあなたがた絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった』
 宮村先生は、会うたびに、このエレミヤの言葉「絶えず、しきりに」という言葉を語り続け、エレミヤに学ぶことの大事さを熱心に説いていた。まさにエレミヤがユダの民に、絶えず、しきりに語り続けたように、多くの人に、私に語り続けていた宮村先生を思い出した。懐かしい。今は、天国にその身を置いている。天国から響いて来る。堪えず、仕切りに、と。
 エレミヤは、主からの召命を受けたのは20歳前後。それから23年間、エレミヤ自身、40を超える年齢になった。一口に23年間は長いか、短いか。状況によるかもしれない。エレミヤが神の言葉を伝えたユダの民は、一向に彼の語る神のみ言葉に耳を傾けなかった。こんな民との23年間はかなりしんどかったと思う。だからもう語りたくないと思った事もあった(209節)。しかし、神はエレミヤに、絶えず、しきりに語りかけ、その聞いた言葉を、絶えず、しきりに民に伝え続けた。そして、宮村先生は言う。「エレミヤは主の言葉を語る前に、先ず聞く者であった」と。
 そう、私もまた、何よりも聞く者である事だ。絶えず、しきりに語りかけて下さる主の御声を聖書に聞きつつ、今日の、一日を始める者、それが私であることだ。もう何年になるか、高校3年生の時に、はじめて聖書を開いた時から、エレミヤや他の聖徒たち同様に、絶えずしきりに語りかけて下さる神に聞いてきた。58年にもなる。神は、この58年間、絶えず、しきりに語りかけ続けてきて下さった。何と恵み大きいことだろうか。そして、そのように生きて来た。絶えず、しきりに語りかけて下さる主に聴きつつ生き、生きつつ聞き、そして、なおも聞きつつ語り、語りつつ生き続けて来た。こんな恵みの生涯を何と表現した良いだろうか。恵みの生涯! 何か足りないようにも思うが、罪人に注がれ続けた主の恵み、それには変わりない。神の言葉を絶えず、しきりに聞ける生涯は、やはり恵みの生涯だ。
 今までがそうであったように、主よ、どうか、これからの残る生涯もあなたの小さき僕に、絶えず、しきりに語り続けて下さい。聞きつつ生き、生きつつ語り伝える生涯であらしめてください。私のみならず、麻溝台教会の全ての兄弟姉妹にもまた、あなたが絶えず、しきりに語り続けて下さい。そして聞きつつ生き、生きつつ語り伝える歩みとさせて下さい。アーメン

 
8月4日
第一コリント16章1〜12節「パウロの情熱と配慮」

 3名のZOOM祈祷会でした。
 賛美データが上手く稼働しないため、本多牧師の独唱に合わせて参加者が唱和いたしました。
1.近況報告タイム
(1)安先生・・エレミヤ書からイスラエルの民がバビロン捕囚70年後に帰還する中で、最終的にバビロンは主のご意志に叶わずに滅びますが、エレミヤ書51章36節にもユダヤ民族に対して「見よわたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する」とあり、主は困難な時にも祝福の時にも共にいて見ておられるということをお証されておられました。時が良くても悪くても見ておらる主に信頼することの大切さを語られておられました。
(2)小澤はJECAフォーラムに掲載されいた野村牧師のお証で箴言24章11節の御言葉(新共同訳聖書箴言24章10節〜12節が主のご意志が分かりやすいのでこの訳をメモします。「苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕えられた人を救いを出さず、殺されそうになっている人を助けず、「できなかったのだ」などと言っても心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じてむくいを返される。」)が牧師献身へのきっかけとなったそうです。
 これはお姉さんが病苦の中で亡くなられた時、夢でお姉さんが現れてなぜ救いを語ってくれなかったのかと言うのを見て泣いた経験から得られた御言葉であることを知り、私も昔母が入院していた病院にお見舞いに行ったとき、その階の奥から「だれか助けて―」と何度も何度も大きな声で叫ぶ女性の声があり、何とかできないものかと辛い思いをした経験があります。
・・・本多牧師は昔お母さんが入院していた時、お母さんが「イエス様助けて―」と大声で叫んだというお話をしてくださいました。お母さんは病床洗礼を受けることが出来たそうです。感謝です。
(3)また私はゼカリヤ書を日々の黙想で読み始めておりますが、1章11節に神の使者達が「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は穏やかでした。」・・続いて報告を受けたミルトスの木の間に赤い馬に乗っている御使いが「万軍の主よいつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか、あまたが呪って70年になります。」と答えます。・・・これはバビロン捕囚から主の恵みにより帰還したエルサレム住民が、神殿建築を途中でやめて自分達の生活を中心にして神殿が荒れ放題の情況を見て再び神殿建設へ向かわせようとされた主のご意志の表れでもありました。・・・今の日本も世界もある意味では平和で穏やかのように見えますが、戦争・犯罪・コロナ・貧困・家庭崩壊等は止むことがありません。正にこうした表面的平和の中で教会はきちんと整備され、大切にされ、恵まれた状態にあるでしょうか。反省させられます。
・・・本多牧師はハガイ書とゼカリヤ書の中にはエルサレム再建の中での尊い御言葉が多くあることを解説して下さり、札幌南教会の新会堂建築の時も教会員が17人も去り、そうした困難を極める中で、古くなった会堂を改修し新たに増築する必要が示され、現実に不可能と思われる中で、本多牧師に御言葉が複数与えられますが、その一つがゼカリヤ書4章6節で「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という御言葉だそうです。真に神の御業はこのように御言葉により進んでゆくものである事をお証しされておりました。
(4)本多牧師はローマ人への手紙1章20節から「神の見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らの弁解の余地はないのです。」から現代世界の情勢を見て、社会問題や性的乱れ、あるいはジェンダー問題等色々な困難が人類を襲っている理由が正に人本主義にあり、天地を創られ人を創られた創造の神に帰らないことがこのような自体を招いているのであると深くご指摘されておられました。正に聖書の神が分かれば自ずから道が見えてくるという事でありましょう。祈りましょう。
2.聖書学習タイム
(1)第一コリント16章はパウロさんがコリントの教会に向けてエルサレム教会への献金を募るお話です。当時のエルサレム教会が人数的にも経済的にも困窮を極めていた時であり、パウロさんがガラテヤやコリントの教会へ献金を募るのは正にパウロさんの愛からでた行為でした。本多牧師はローマ10章でパウロさんがユダヤ人とギリシャ人との区別が無いこと、また11章では神はご自分の民を退けてしまわれたわけではないことを明確に示していること等を語られておりました。現在の麻溝台キリスト教会でいえばブラジルの佐藤牧師が日本で牧会された後に故郷ブラジルで現在も福音宣教のために熱心に働かれている情況を示してくださいました。
(2)麻溝台キリスト教会で聖餐式献金が日本中、世界中の教会の必要の為、区分されて集められていることと同じであり、なんと貴いことかという事を話されておられました。
(3)宣教師が故国のために祈り続ける事の大切さをお教えいただきました。安先生はイエス様が区別なく人の魂を愛しておられることであると思いますとお話されておられました。
(4)小澤の経験では昔若い頃に牧師を志願された方がおられましたが、交通事故などにより挫折された方であり、宣教師等は召命がしっかりしているかどうかが問題であるという事を本多牧師は言われておられました。
 昔本多牧師の元で弟子訓練を受けた方の中に途中で宣教師志願を中止された方もおられたそうですが、この場合はご本人が弟子訓練の中で納得されて自分は宣教師としての使命ではなく別の方向へ進むのが最善であると確認されて進まれたそうです。
(5)救われても教会を離れてしまわれる方々が時々おられますが、今週のメッセージの様に狭い道を通ることがキリスト者としての生き方であり、色々と苦難困難があっても御言葉により支えられてこそ、信仰と希望と愛の成長が与えられ、恵まれたクリスチャンに成長できるのですというお話を本多牧師がされていました。感謝です。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師に与えられているビジョンとして信徒の方々の為に次のような希望をもって祈りました。@麻溝台キリスト教会を愛していだきたい。A御言葉によって成長していただきたい。B福音宣教をすることを考えましょう。(伝道)
(2)最近教会堂での礼拝に参加できない方々の為に祈りました。
(3)日曜学校の子供達やCSKの方々の祝福のために祈りました。

 教会を愛し、教会員の方々の為に祈れることは幸せですね。  M.O.

 
8月11日 第一コリント16章13節〜24節「最後の勧め」

 4名参加のZOOM祈祷会でした。
(祈祷会終了時に岡田兄が牧師の背景画面にちらつきが見られることに気づき色々とスイッチを試しましたが原因不明でした。今後詳しく調査してみることとなりました。)
1.近況報告タイム
(1)本多牧師がローマ3章より・・ローマ書を読むと旧約聖書の引用が多くありますが、当時は現在の様に書物の携帯は無かったので不思議に思われたという事でした。パウロさんは幼児の頃から聖書に親しみ暗記し続けていたのではないかと思われます。聖書を読むことの大切さを教えられます。(日本ではガラシャ夫人等当時の人は聖書が普及していなかったので丸暗記する方法をとることが一般的であったように記憶しております。)
(2)旧約聖書が今日の様に整えられたのは、バビロン捕囚から帰還したエズラさんの努力によるものと思われます。それまでは個別に記録され口述されていたものがエズラさんにより編集されますが、当時は神殿もなく契約の箱も失われていたようです。(契約の箱は本多牧師によればエチオピアへ移動したという説もあるそうです。)・・・
 こうした中でダビデさん以降神殿と契約の箱中心の信仰形態から聖書の御言葉中心の信仰姿勢へと進みます。ただし現実的にはバビロン捕囚70年を経てヘブル語はしだいに失われており(恐らくアラム語中心になっていた)、旧約聖書も丁度例えれば、中世カトリック教会の様にラテン語やギリシャ語で書かれていたために神父の様な専門の方の解説によってしか民衆には理解されなかった可能性もあるように思われます。宗教改革を経てルターさん等の努力により各国語に翻訳されて今日私達が聖書を直接読めることはとてもありがたい時代であるという事です。感謝いたしましょう。(日本ウィクリフの活動等今日も世界の各国語への翻訳活動を続けてくださっておられる方々にも感謝申し上げます。)
(3)安先生は最近韓国において、ご自身を献金をもってサポートしてくださる方が一人新たに加えられたそうで感謝のお証をしてくださいました。特別なアピールをされたわけではなかったそうですが、支援者が不思議に起こされることに神様からの恵みを覚えて深く感謝しておられました。・・ブラジルの佐藤宣教師の活動も日本全国の支援者の方々に支えられております。命ある限り神様をお伝えしようとされている佐藤牧師の信仰姿勢にもつくづく教えられますね。感謝いたします。祈り続けましょう。
 また、安先生は最近日曜学校に来ている2人の子供達に自治会広場で会う事が出来たそうです。感謝です。祈りにお答え続けて下さっておられるイエス様の深い御愛に感謝申し上げます。
(4)岡田兄は今週のメッセージの良い実を結ぶというお話から良い実とは何かの行為をするという事ではなく、全てを神様の栄光に帰するという事であるのではないかというお話をされていました。また具体的にどう生きてどのような信仰姿勢で進むべきかを模索されていることをお証してくださいました。深い問題です。祈りつつ進んでまいりましょう。
(5)小澤は最近ゼカリヤ書を読み始めています。ハガイ・ゼカリヤ書とエズラ・ネヘミヤ書は対になっている旧約聖書箇所であることを本多牧師が解説して下さいましたが、聖書編集の順番から言うとエズラ・ネヘミヤ書はバビロン捕囚後第2神殿が建設されるまでを歴史的に書いていますが、ハガイ・ゼカリヤ書は第2神殿の建築が地元の住民からの抵抗に合い18年間も建築が中断する時期の預言の書です。バビロン捕囚帰還者は第一陣が僅か4万2千人くらいとありますので生活のためにエルサレム周辺の農地等にも人々が生活のために散っていったとすると、エルサレムそのものは廃屋そのままで、まばらな人しか住んでいなかった閑散とした状態ではなかったかと想像されます。そうした中でハガイ・ゼカリヤというそれまで無名の預言者が神殿再建の重要性を指摘し、神様の励ましの啓示を受けて将来の預言を力強く語りだします。
 この中にはやがて全世界の救い主となるイエス様のご様子を書かれた有名な預言がいくつも現れますが、私は今回次のような御言葉に励まされました。ゼカリヤ書8章23節「万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる国のうち十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』という。」・・・このような予言は荒廃し中断している神殿建設の目前の様子を見ているユダヤの民にはびっくり仰天するような預言であったのではないでしょうか、そんなことが起こるはずはないと思われるような状況の中で、まさに予言の通りにやがてイエス様がお生まれになり、今日の様に全世界に福音が語り広げられる時代が来ようとは!!・・・この事はいつの時代にも全天全地をお創りになられたイエス様が働き続けて下さっておられることを強く私に示していただき、イエス様に深く感謝をさせていただきました。不可能と思われる道にこそイエス様の導きがある限り奇跡は継続的に起こります。どこまでもイエス様の栄光を拝させて頂きながら祈りつつ前進を続けさせていただましょう。
2.聖書学習タイム
(1)良い意味を結ぶ良い木になることについて、本多牧師は現在の西山兄の聖書の学びの中で、西山兄ご自身は今まで良い実を結ぶことだけに集中しておりましたが、祈りつつ考えつつする中でまず何よりもご自身が良い木になることが最大に大切なことであることを悟らせていただいたと語られていたそうです。サンレモの様なお仕事は西山兄のようなご人格の方でないと不可能な働きであると思いますが、しかし西山兄がイエス様の救いに与り、ますます神様の栄光を更に表すことのできるサンレモになる事が出来ますように、つくづくお祈りさせていただきたいと思います。
(2)第一コリント16章13節〜14節の@目を覚ますことA信仰に立つことB強くあることC愛を持つことについて個別に学びました。
@については安先生は大事なこと(神様の事)を大事なこととして意識的に生きることと話され、岡田兄は再臨の心構えを持つこととされ、小澤は日々のデボーション等による信仰の成長を示していると理解しました。本多牧師は神の言葉に傾聴することを大切なこととお話してくださいました。眠った人は逆に御言葉を脇において世の中のことに重心を移してしまう事に危険性をご指摘されておりました。特に大切な信仰姿勢としてはより深く、より広く、より高く信仰の成長を目指して信徒の方々がどれだけ熱心に求めつつ生きて行けるかが本当に大切なことですとお話して下さいました。
A教会においては信仰的に尊敬でき人が具体的にあられるかどうかというお話もあり、安先生はご自分の奉仕の手の届かない部分を力強く補ってくださる方々がおられることを大変感謝しておられました。パウロ先生が言われるように色々な考え方が教会内にあってもお互いに仕えあう事の大切さを語られておられました。
 岡田兄は教会会計を担当させていただいている関係で、金額の多寡にによらず忠実に宣教師や教会に長年献金をされている方がおられることをつくづく感心させられ感動されているというお証をされておられました。
 小澤は教会中の兄弟姉妹にそれぞれに素晴らしいご聖霊様が内住されているおられるのを日々感じており、どなたというより私も教会活動を多少ともお手伝いさせていただきながらこうした敬愛する兄弟姉妹方にいつも大きく励まされ続けていることをお証させていただきました。高橋姉妹等長年忠実に教会に仕えてこられた姉妹とお話させていただけるだけでいつも励まされます。
 本多牧師も90歳を過ぎる高橋姉妹が忠実に礼拝で御言葉を聴かれている様子に素晴らしく励まされるそうです。やはりそういうものである事を思いつくづく感謝申し上げました。・・・・教会中の兄弟姉妹がそれぞれ独自の賜物を神様から頂いており、互いに愛し合って生きて行ける教会を目指しましょうというお話でありました。
3.祈祷タイム
(1)教会員一人一人の為に、名前を上げて、それぞれの現在の課題や必要の為に祈り合う事が出来ました。
(2)安先生が祝福されていることを感謝し、また来年以降新し献身者が派遣されるようにもお祈りいたしました。
(3)若い方々や日曜学校の祝福の為にお祈り致しました。
 祈祷会では毎回こうして一人一人の名前を具体的にあげて祈らせていただいております。神の家族の為にこうして心を合わせて祈りの時が与えられていることがどれほど素晴らしい恵みの時であるかは計り知れません。・・・今後も共に祈り続けましょう。        M.O.

 
8月18日 ルツ記1章1〜7節「人生の嵐の中で」

 4名参加のZOOM祈祷会でした。
(途中から松下姉が参加出来ました。音声が上手く繋がらなかったので安先生が携帯電話で操作をお教えして対話が可能となりました。)
1.近況報告タイム
(1)安先生はエレミヤ書33章から、エレミヤが監視の庭に閉じ込められている中で、身動きできない時にも「わたしを呼べ、そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事をあなたに告げよう。」との御言葉により励まされたとのことでした。
(2)本多牧師はローマ人への手紙6章6節から「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷ではなくなるためであることを私たちは知っています。」からご自身が静岡教会牧会の時に信徒の方と心が通じず、表面上は穏やかですが内心は怒りで爆発するような状態が8年間続き、その他自分の罪との壮絶な戦いを心の中でなしていた時、このみ言葉に突然出会い自分の罪はすでに十字架にかかって古い自分は既に死んでいるのだと言う事がビーンと心の奥深くに示され、瞬間的に全ての悩み苦しみがすっ飛んでしまい、見事に牧師として立ち直ることが出来たご経験をお話しくださいました。ご聖霊様に導かれた御言葉は人の心を開放する、とてつもない力があるものですね。
 またこうした状態にあって明日はメッセージを語らなけれならないという中で準備もできずに力なくぐったりと机にうなだれていた時、主が牧師を両手で後ろからしっかりと抱き上げて立たせて下さったその手の温もりを今も忘れることが出来ませんと語られておられました。ご聖霊様の働きですね、感謝申し上げます。
 現在、西山兄の聖書の学びにおいて「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」というイエス様のお言葉を学んだ時に、西山兄の魂の中にびっくり仰天するようなイエス様の御心が伝わり、興奮して1時間30分くらいそのことにかかりっきりで学ばれたそうです。西山兄にもご聖霊様が力強く働かれておられるのですね。祈りましょう。
(3)小澤は図書館でお借りしたイグナチオ・デ・ロヨラさんの「霊操」という本を読んでいて、「われわれの主キリストがこの使命に遣わされる僕や友のすべてに向かって語られる言葉を考察する。キリストは次のような方法ですべての人を助けるように務めることをかれらに進めるのである。人々をまず、いと高き霊的清貧に導く。もし「神聖な威厳に満ちた方」がかれらを奉仕させようと思われ、彼らを選ぶなら、実際上の清貧にも彼らを導く。第2に辱めや蔑みさえをも願望するように導く。なぜなら、この2つから謙遜がおのずから生ずるからである。」の文章に出会い。ウームとうなりました。
 私の家には父の書いた額に「清貧」の文字があり、アシジの聖フランシスコさんの生き方等に私は共感を覚えていたので、かくありたしとの思いで実家から遺産としてもらい受けてきたものです。父は普通の人で両親を幼いうちに亡くして、親戚の家で育てられており苦労をして育ったことを知っていましたし、戦争にも行っていた人ですので、なるほど「清貧」の思いを心に深く刻んでおられたのであろうと思いますが、キリスト者の私にとって、なおさら道を間違えないようにいつも「清貧」の思いを心の奥に持つ様に心掛けているものです。この本ではロヨラさんが謙遜を身に着けることなくしては神様のお役に立てないことをイエス様のご人生から深く学んでおられるのであるなとつくづく関心した次第です。牧師先生も信徒の方々も色々な苦難困難に出会いますし、侮辱されたり、裁かれたり色々な目に出会われると思いますが、そうした時こそ清貧の思いを強く持ってイエス様の様に生きていけたら感謝ですね。イエス様のお助けを祈ります。(本多牧師が信徒用に作成された冊子の中でもロヨラさんの書かれた言葉を掲げておられるそうです。)
2.聖書学習タイム
(1)ルツ記の時代は士師記の時代であり、ギデオン・サムソン・デボラさんらが活躍しておりますが、イスラエルの民は基本的にはバラバラで自分で良いと思われる方法で暮らしていたそうです。モーゼさんが申命記等を残して下さっておりますが、一般にはまだまだ普及せず、口頭伝承の時代であったのでありましょう。
(2)そうした中でベツレヘム(パンという意味だそうです。おそらく作物が豊かに育つ地方であったことでありましょう。)に住んでいたエリメレク一家がその地方を襲った飢餓(雨の降らない乾燥の飢餓か、外敵によるものか、イナゴの大群によるものかは不明、恐らく乾燥かもしれません。)によりモアブ地方へ逃れます。そこで一家は10年滞在しますが、本多牧師のお話では、生活苦に疲れて早期にエリメレクさんが召されてしまい。その苦難の中、2人の息子がモアブの女性と結婚して悲しみが少し癒されますが、やがてその息子2人もこの10年のわずかの間に召されてしまいます。
 本多牧師は昔、子供を初めて授かった時にどれほど嬉しかったか、しかし結果的に子どもは死産となり、あまりの悲しみの中、丁度その時信徒の人のお店が火災に会い、その援助の為に駆け回らなければならないという非情に苦しい時を通られたそうです。まことに人生には多くの苦難困難があります。
(3)安先生は韓国で学生の時にお母さん代わりに育ててくれたおばあちゃんが召され、一週間の内にお爺さんも召されてしまいました。その悲しみがあまりにも深くて閉じこもり生活に入ってしまった時があることをお話しくださいました。しかしお母さんの祈りが聞かれてパン職人への道が開かれ、続いて日本にパン職人の留学の道が開かれ、日本に暮らすようになり、それがとても良い心の癒しの時となり、日本を愛するようになったこと、そして今日、日本の教会の現実を知り、宣教師へと導かれていることをお証下さいました。全く神様は悲しみ苦しみを通して、信じがたいような導きをお与え下さり、全てが益となるように導き続けて下さる主です。イエス様に感謝申し上げます。
(4)小澤も人生において苦難困難の時をいくつも通らせていただきましたが、もうだめだという様な時期をも御言葉を中心として周りの方々の豊かなお助け等を得ながら今日があります。苦難困難を通して初めてイエス様の信じがたいご愛の真実の世界を学ぶことが出来ていることをお証させていただきました。
(5)ここで私なりに今回ルツ記を学ぶにあたり多少予習を兼ねてルツの家系を調べました。ルツ記18章の記載順によるペレツについてはヤコブの子ユダがカナン人と結婚し、長男が生まれ、その子の嫁にタマルを選びますが長男が死に、その後をとった次男も死んだ後、実は売春婦に変装したタマルがユダに生んだ子がペレツです。(ペレツは不義の子でありましたが、ユダにペレツが生まれなければユダの子孫は途絶えていたかもしれません。驚きです。)次にその代々の子孫のサルモンはヨシアのエリコ攻略の時、斥候として選抜された人ですが、この人がエリコの遊女ラハブの家に隠れたときにラハブはこの2人の斥候をかくまいます。この時、このかくまった事がばれれば自分も親族も恐らくエリコの兵隊に皆殺しにあっていた可能性が高いと思われます。ラハブはイスラエルの神を信じていたことがヨシュア記やへブル人への手紙でも明らかですが、そもそもラハブは遊女であり、自分の罪を深く知っていたにもかかわらず、天地創造の主の助けを信じていたという事が何を意味するのか全く仰天の世界です。私達がどのような罪の中にある人々をも決して裁いてはならない、その人のことを本当に知っておられるのはイエス様だけであることをつくづく思い知らされる出来事です。後にサルモンがラハブと結婚する事になりますが、ここにも命がけの信仰をもって自分達を守ってくれたラハブに対するサルモンさんの心が何か深く思われて感動します。更にその子がなんとルツ記に登場するボアズなのです。ボアズが人々の苦しみを深く理解する人柄であったことはこうした家系からも自然に推察される気も致しますが、深い神様のご計画以外の何ものでもないと思われれます。驚きです。
 ルツの信仰にもびっくりします。ナオミ達がモアブの地へ飢饉を避けて出かけた時には恐らく本多牧師も言われていた通り、祈りつつ進んで行ったものと思われます。申命記7章3節にはイスラエル人はカナン地方の異邦人とは結婚してはいけないと書かれております。モアブはアブラハムの義弟のロトの家系が住んでいる場所です。ですからルツもその子孫の一人であったのではないでしょうか。祈りつつ神の御心を選択しながら恐らくナオミご一家は赦される範囲で移住をしたものと思われます。そうした中でナオミ一家を襲った苦難困難は軽いもではなかったはずですが、人生の苦難困難の時、義理の母を見捨てることをせず。普段のナオミの信仰姿勢を学びながら暮らしていたルツが「あなたの民は私の民、あんたの神は私の神・・・もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ルツ記1章16節〜17節の全き母を愛する信仰はいったいどこから来るのでしょうか。全くの驚きの世界です。・・・このような流れの中からやがてダビデが生まれ、そして更には最終的には全天全地の創り主イエス様が全人類の救いの為にお生まれ下さるとは、まったく聖書の世界の深い神様のご愛の世界に驚愕する以外にありません。私の様に小さい僕も救って下さった主に限りなき栄光がありますように。
(6)本多牧師は麻溝台キリスト教会へ遣わされる時、順子先生が認知症になりかけていたので住所を移動するのはためらっておられたそうです。しかし山村牧師の信仰が明確に本多牧師の招聘を示されており、更に本多牧師もこのために祈り込んでいる中で明確な御言葉が与えられ、決断をされて麻溝台キリスト教会へ来てくださいました。結果的に順子先生にとっては試練の多かった時間を過ごすことになり、大変申し訳ない思いが致します。本多牧師も、今もその事を思う時に答えに詰まるご様子が見られます。愛する奥様を失う辛さがありますが、御言葉に示されて麻溝台キリスト教会で牧会をして下さっておられる本多牧師につくづく感謝申し上げます。ここ数日、本多牧師も疲れが出ていたという事をお話なされましたが、ご健康に留意されて無理をなさらないようにと安先生と共にお声を掛けさせて頂きました。麻溝台キリスト教会の次世代の方々の祝福の為にも本多牧師に更に主の祝福があります様にお祈りさせていただきました。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師のご健康の為、また今後の牧会にも良き補助者の方が与えられるように祈りました。
(2)安先生に新伝道地が最善に導かれるようにお祈りさせていただきました。
(3)本多牧師は一人一人の信徒の方々の為に丁寧に個別に祈られておられます。
 教会は祈りの家と唱えられるべしですね。・・・正にこうして兄弟姉妹方の祝福を祈り続ける教会こそが本当のイエス様の栄光溢れる教会の真実の姿であり、恵み溢れる信仰者の生き方そのものでは無いでしょうか。
 つくづく教えられれる祈祷会であり、感謝申し上げます。                M.O.

 
8月25日 ルツ記1章8〜18節「決断の時」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)安先生・・・日本福音宣教会のZOOM会議があり、そこで韓国の先生方からメッセージをいただくことが出来ました。ルカの福音書9章11節で「イエスは喜んで彼らを迎え」とありますが、イエス様は意見の異なる人や反対する人たちも含めて集まってきた全ての人を喜んで迎えた様子が分かります。・・・まず何より歓迎することの大切さを学びました。・・・麻溝台キリスト教会で宣教師として訓練を受けて4年になります。(へヨン先生のお子さんが生まれたため、実質3年くらいでしょうか。)この間に学んだ最も大切なことはどのような方でもまず歓迎すること、宣教師等同僚を含めてまずは受け入れることの大切さを学ぶことが出来ました。こうして心の器を広げることの出来た大切な時間であったと思います。感謝です。
(2)本多牧師・・・ローマ8章2節「キリストイエスにあるいのちの御霊の律法が罪と死の律法からあなたを解放したからです。」(新改訳2017)・・この個所は以前の聖書では「キリストイエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。」とあります。ローマ書7・8章は多くの牧師や信徒の方にとっても中心的テーマであり、聖書全体の大きな恵みのクライマックスでもあるので、明らかに本多牧師としては以前の聖書訳「原理」の言葉の方が明確であり、新改訳聖書2017の訳の方は強調点が薄れており受け入れがたいというお話でした。・・注意して聖書を読んでいないと気づかないことですが、人の救いにかかわる重要な箇所ですのでなるほどとつくづく関心させていただきました。
(3)先週の礼拝メッセージは岡田兄がビデオ録画して下さったため本多牧師は自宅で4回も再生して御覧になられたそうです。これはご自身が準備して語られた御言葉でもあったのですが聴くたびに新しく恵まれ、その都度アーメンと言える恵みを頂いたそうです。御言葉の恵みとはそのように常に新鮮さをもって一人一人に本来迫って来るものでありましょう。
 小澤も毎週土曜日に牧師先生から送られてくるメッセージに祈り心をもって目を通して恵まれますが、日曜礼拝でその御言葉を本多牧師が流暢に素晴らしい迫力で語られているのを聞くと、びっくりして感動いたします。そしてまた新しい発見がその都度あるのです。御言葉を聴く姿勢はいつも祈り心をもって対応したいものですね。教えられます感謝です。
(4)小澤は8月29日の礼拝用PPTファイルを作成していて、讃美歌327番を入力している時に、どのような賛美であったか不明であったのですが、楽譜を見ている中でその後知らぬ間に自然と心の中からこの賛美が湧いてきました。不思議な経験です。たまに思ってもみなかった不思議な賛美が心の底から思い出されて賛美することがありますが、今回もご聖霊様の導きをつくづく思わされました。イエス様が安先生を新しく伝道地へお導きくださる中で、安先生ご自身がいかに期待と不安が入り乱れた状態にあるかを思う中でこの賛美は心にしみます。しかし同時に安先生ファミリーの為に祈ることのできる祝福をイエス様は私達麻溝台キリスト教会の信徒全員にお与えくださっておられることを思い、つくづく感謝な恵みを思います。イエス様に感謝申し上げます。
2.聖書学習タイム
(1)ナオミがルツとオルパに別れを告げる言葉の意味は、申命記25章5節より死んだ夫である人の名をイスラエルで絶やさないためのレビラート婚と呼ばれる規定です。イスラエルは神様の選民として本来特別の任務を受けていたため、このように民族保護のための規定がなされていたと思われます。本多牧師はナオミが嫁たちを愛して、主の御名により嫁たちのその後の人生が祝福される様に祈っておられたことをご指摘されておられました。なるほどナオミさんが普通の姑としての愛だけでなく強い信仰をもってお嫁さん達を愛しておられたのだなとつくづく関心させられます。
 ・・人に親切にされる経験についは次のようにお証がありました。
(2)本多牧師は順子先生のお姉さまに子どもたちの学費も含めて多くの助けをいただいていたこと、そのお姉さまが癌で入院された時、お子さんの薫姉妹が病院に行き付き添いをしましたが「信じているよ」という言葉を聞けたそうです。感謝ですね。また神学時代には学費を無名の方から4年間もご送金いただいたそうですが、未だにどなたからか不明であり、とても感謝しておられるそうです。イエス様の御業ですね。
(3)安先生は神学校を卒業するときに社会人となるか伝道者となるかについて考えていた時に、まだ特別な宣教師への使命が与えられていないなかで、伝道師となればただお金の為の働きになってしまう事を考えて諦めたそうです。しかし7年間のパン職人の道を歩む中で不思議な導きにより宣教師への使命を受けて献身できたことを感謝しつつ、最近は宣教師仲間の方々2人からも、祈っていますと声をかけていただいたそうです。宣教師にとって祈りの支え手が一人でも多く与えられることはいかに大きな恵みであるかをつくづくと思います。とても感謝ですね。
 また、ソヘヨン先生に赤ちゃんが生まれるという大変な時にオーミギョン姉妹がとても助けて下さったことをお証されておられました。
 また、ご自身でも現在ヨランダ姉妹をご家庭に招いて食事を共にするときを持ちになっておられたそうです。現在の様なコロナ禍の中でも親切にされ、親切にすることの大切さをつくづく教えていただけます。
(4)小澤はルツさんの信仰姿勢を見ていて、オルパさんが義母を離れていったことに比べて、何か決定的にルツさんとの差があったように思いました。それは祈りつつ考えてみると恐らく信仰であろうと思いました。ルツさんはナオミさんから姑としての愛を受けていただけでなく、その中に信仰の世界、天地創造の神の愛の世界を垣間見ていたのでは無いでしょうか。
 本多牧師はこれはコンバージョン(回心)であるとご説明くださいました。つまり私達クリスチャンも親族になかなか福音信仰が伝わらないもどかしさもありますが、本多牧師の場合は7人のご兄弟があり、経済的にもお世話になった愛のご家族ですが、しかし信仰が最終的に分かれ道になってしまう事をつくづくと感慨深く語られておられました。祈りしかないですね。小澤も親族の最後を看取ることがあるのですが、無念の悲しい思いにさせられます。全てのクリスチャンの方々の課題でもあると思います。
(5)本多牧師はルツ記8章16・17節の中でルツの語った言葉で「お母様」と「あなた」という言葉の箇所を「キリスト」と読み替えてみて下さいとご指摘下さいました。・・・「ルツは言った「キリストを捨て、別れて帰るように、仕向けないで下さい。キリストが行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。キリストの民は私の民、キリストの神は私の神です。キリストが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも私がキリストから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」・・・むむ、これは完全な信仰告白としか言いようがありません。ここまでくれば本物でしょう。このように少しでも近く生かしていただきたいな〜とつくづく思わされました。ルツさんがキリスト様の系図の中に組み込まれている理由も良く分かります。祈りましょう。
3.祈祷タイム
(1)親族の救いの為に祈り続けましょう。
(2)お仕事で遠くに通われている方々がコロナから守られるように祈りました。
(3)申命記でレビラート婚が推奨されているのは、故無くしてではありません。教会の将来のために若い方々が一人でも恵まれ救われるように本多牧師は祈り続けておられます。継続的に祈り続けましょう。
 感謝いたします。   M.O.
 
9 月  
「まな」8月号巻頭言

山上の説教を終えて!

マタイ53

山上の説教を終えた!マタイの福音書を説教し始めたのが昨年1213日、そして山上の説教は314日から始めた。なんと、この山上の説教だけで約半年の間、読み続け、聞き続け、語り続けてきた。これまでの牧会生活50年の中で、こんなに山上の説教に取り組ませていただいたことがなかった。独りよがりかもしれないが、何という充実の期間だったかと思う。そして、読み終え、聞き終え、語り終えた今、何か充実感と共に、疲労感も出てきた。こんな経験、初めてです。どうしてだろう!
 この山上の説教を読み続け、聞き続け、説教し続けてきて、何を感じたか。一言で表現するのは難しいが、主の弟子たちに対しての燃えるような主の情熱とでも言えるでしょうか。「心の貧しきものを幸いです」に始まって、「私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者は皆、岩の上に自分の家を建て賢い人に例えることができます」と終える主の思いは一貫して、弟子像、主の弟子の在り方、主が望むご自身の弟子の姿、生き方を、主は熱い思いで語り続けてこられたのです。私自身、主の弟子の端くれとして、遠く、遠く、その理想像には及ばないけれど、この主の弟子、そうです、あの12弟子たちのみならず、今、この21世紀の日本に生きる、そしてこの相模原に生きる小さな僕たちにも、あのペテロ達に向けられた熱い、熱い思いが時空を超えて、私にも向けられていたことを感じざるを得ませんでした。なぜそう思うでしょうか。主は今も生きておられ、愛して下さっているからです。
 私の弟子として、このように生きよ、生きよと、み言葉を読むたびに、またみ言葉を説教するたびに、迫ってくる思いがいたしました。これは同時に、私のみならず、共にみ言葉に耳を傾けて、共に聞いていた麻溝台教会の兄弟姉妹、皆さん一人一人に対する主の熱い思いとして、毎回、私の心に迫ってきていたように思います。麻溝台の私のしもべたちよ、子供たちよ、このように生きよ、生きよと、山上の説教の一回一回ごとに、迫ってきていたように思うのです。だからこそ、私の心は、自然にというか、主の熱い思いに押し出されて、熱く、熱く語らざるを得ませんでした。あまりにストレートに語っていた節がありと思いますが、しかし、それは私の気質であったと共に、私を押し出す主の愛の熱心だったように思います。
 山上の説教は主の弟子の生き方です。パリサイ人や律法学者に勝る生き方を主は教えて下さいました。「心の貧しき者は幸いだ」と、衝撃的な言葉で語り始めた主。主の弟子の最も基本的な生き方、心の在り方、それは心の貧しさ。心の貧しいことに気づき、心の貧しきに生きる、これは主の弟子としての出発点であり、一貫した主の弟子の姿だと、主は語られたのです。だからこそ、少しもおごることなく、高ぶることなく、主のみ顔を仰ぎつつ歩み、主に寄り添いながら歩むように、主は私たちに教えられた。そしてそこから始まった主の山上の説教はやがてクライマックスを迎え、何と「主の教えを行う者」へと高めていって下さったのです。貧しき者が、主のみ心を行う者へと、引き揚げて下さっていく山上の説教。この説教に、主の、弟子である全ての者への愛の情熱と夢を感じざるを得ません。
 愛する兄弟姉妹、どうか、山上の説教は終えても、繰り返し、山上の説教を読み続けてほしい。そこに、私たちの生き方、主の弟子としての、主の望まれる生き方が啓示されているからです。山上の説教を生きる私達であり続けるために、愛する兄弟姉妹、今日も、心を貧しくし、主を仰ぎつつ、そして聖霊様の助けを頂きつつ、主のみ心を行う者として、共に生きようではありませんか。貧しき者に注がれる神の愛に促され、少しずつ成長し、御心を行う者になり、御心を行いつつ、成長させて戴こうではありませんか。

 
9月1日 ルツ記1章19〜22節「ルツの存在」

 ZOOM祈祷会参加者3名
1.近況報告タイム
(1)安先生・・・今週から弟子訓練が再開されます。暗唱聖句が与えられますが、今回はヨハネの福音書15章7節です「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」・・・この御言葉は現在安先生が進路に不安の気持ちもある時に励まされたそうです。まず第一に神様の元にあること、次に御言葉をいただきその御言葉を基礎とすること、そうする事によりご自身の願いが初めて叶うこと、最善の道を導かれる主を思い、第一にすべきことを認識させていただけたそうです。安先生の将来については教会員全員で祈り続けることが大切であるとつくづく思います。皆さんで祈り続けましょう。
(2)小澤・・・「ツィンツェンドルフ」伊藤利男/著を図書館でお借りして読み始めました。ヘルンフート同胞教団を創り、1700年代にルターさん等のプロテスタント運動が起こる前(60年くらい前)にフス(火刑にあう)さん等の信仰復興運動がありましたが、これはボヘミア地方(現在のチェコ)での新しいプロテスタント運動の先駆けとなる運動でしたが、カトリックによる強い迫害に会いドイツへ逃れてきた当時の人々を積極的に匿い、助けた人で信仰の流れとしてはドイツ敬虔主義とされています。この時代にプロテスタントの一派でもあるフス派信仰に従う人々を保護することは誰も成しえなかったことですが、ツィンツェンドルフさんが保護をして新しい独特のプロテスタント運動を当時展開していったことは知っていました。イギリスのジョン・ウェスレーさんがフス派モラビア宣教団の宣教師から聴いたメッセージにより、ボーンアゲインされて、それ以降イギリスのメソジスト派のリバイバルが起こり、さらに今日までホーリネス教団としてプロテスタントの一翼を担う存在として継続した活動を展開しているものであり、私もホーリネス教団の中で育てられた者ですので、ツィンツェンドルフさんについて興味を持っていたのですが、詳しい資料が無いままでした。最近インターネットでこの本が書かれていることを知り早速お借りして読み始めた次第です。人生長生きをさせていただける限り頑張りましょう。恵まれます。
・・ツィンツェンドルフ(伯爵)さんはオーストリアの貴族ですので財政的には裕福でしたが、父親は早くに亡くなり母は再婚して嫁いでいったためご自身は母方の祖母(この方の信仰が実はとても優れており敬虔主義への理解も教養もある方。)に育てられるなかで彼が若いころから信仰が育まれていった様子が分かります。
・・・聖書のルツさんの場合もそうですが、人生何がどう益となるか実に分からないものですね。神様の雄大な御計画だけが着々と進んで行くという事をつくづく考えさせていただけます。感謝です。・・・信仰者には迫害や困難は形こそ違え、いつの時代でもあると思いますがそうした中で神様がどのように信仰者を守りお育て下さっておられたかを歴史的に学ぶことが出来るので、現代教会を考える上でも役に立つと思われます。続けて読んでまいりますので今後楽しいお証が出来るかもしれません。感謝いたします。教会の図書室にも色々な優れた本がありますので是非お読みください。
(3)西山兄の聖書の学びがコツコツと進んでおられるそうですが、今回は祈りの時に本多牧師の為に西山兄がお祈りをして下さり、とても驚いて感謝であったそうです。西山兄とは礼拝後私が示されてお互いにお祈りの時を持たせていただきましたが、本多牧師のお話ではそのことが良い影響をもたらしておられるのではないかという事でした。教会は祈りの家と唱えらるべしでありお互いに祈り合える教会造りをしましょうと本多牧師は常に推奨しておられるので、こうした恵みが与えらるのであると思います。感謝です。西山兄はご家族の為にもお祈りを始めておられるそうです。
 本多牧師はデボーションではローマ書9章2〜3節「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とありますが、本多牧師にとってもご自身のご家族と順子先生のご家族で何とか一人でも多く救われまいかという思いが強くいつも心の底にあられるという事です。ご自宅で相模原の街並みの様子を見ながら、いまだ救われていない方々の多さを思うとどうしたら福音が伝わるのだろうかといつも考えさせられているそうです。祈り続けましょう。
2.聖書学習タイム
(1)ナオミとルツはモアブからベツレヘムまで150qくらいを徒歩で旅を続けて帰って来たのですが、寒暖差の激しい砂漠地帯を強盗の危険もありながら帰郷するだけでも大変なことであったと思われます。ベツレヘムではナオミの顔をみて知り合いの女の人々が歓迎するとともに、苦労により老けてしまったナオミに驚いた様子が語られています。ナオミの苦難の種類は@大きな悲しみA素手で帰郷する事となったB卑しくされる(心を砕かれたの意味)C辛いめにあわされた。等が重なっており労苦の大きさが自ずから分かります。
…本多牧師の伯母様はとても良い人でしたがダンプカーが道を横切るときに巻き込まれて死亡されたそうです。その娘さんがこんなに良い母がこんな死に方をするなんて神様なんかいない!と怒鳴っていたそうです。本多牧師にとってはつらい出来事だったとお証をしてくださいました。・・・ナオミ(快いの意味)は自分をマラ(苦しむの意味)と呼んで下さいと言いますが、本田牧師の解説では日本名にすると幸子と辛子という程の差であり、同じ似た名前でも意味が真逆であるという状態であるそうです。(私達はとかく悪いことは覚えていますが、良いことを忘れがちですが、ナオミもまた、ルツの存在をここで語っていないことは残念ですね。)
(2)安先生は哀歌3章33節「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない」という言葉を示され、この訳は韓国語では「苦しめることは主の本心ではない」と解説されることをお話し下さいました。本多牧師はピりピ書1章29節では「あなた方は、キリストの為に、キリストを信じる信仰だけでなく、キリスのための苦しみをも賜ったのです。」と示されました。信仰者として学ばされますね。
(3)小澤は昔の教会で祈祷会の司会をさせていただいた時、へブル書12章7〜8節「神はあなた方を子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」を読ませていただきました。すると丁度その時、苦難の中にある求道者の方が来られており、その方は妹さんが数年前だと思いますが、戸板に載せられて病の癒しを祈っていただくため教会へ来られた方の兄であり、また親しい友も亡くして苦しい人生の只中にあった方でした。その方がこの御言葉を聴いたとき、スパーと心の奥深くに染み入り人生の全てが変わってしまうという経験をされて救われました。真にイエス様の御業はどこでどう働くか計り知れません。祈りつつ最善をなされるイエス様にお任せして進んでまいりましょう。
(4)3人それぞれの10年前の思い出も話し合われました。安先生はパン職人をされておられて、やがて日本への渡航希望を持っておられました。本多牧師は札幌南教会を次の牧師に引き継ごうと決心されて、適任者を探すことを始めた時であったそうです。またスマホの記録を見ると、奥様と沖縄旅行をされていた時でもあるそうです。小澤は退職後、それまでの課題だった創造論の調査研究をライフワークとして僭越ながら再開しようとしていた時期であり、、最近はこの方面でも自分なりにとても色々なアイディアが与えられて感謝しておりますが、ライフワークをイエス様と共に楽しく進められていることもとても感謝です。
3.祈祷タイム
(1)安先生が現在日曜学校生徒が数人よく教会に来ることが出来ています、これは誰に促されたのでもなく、自ら来る子供達です。まことにこの様な時代に、不思議なことであり、マタイ9章37〜38節「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫の主に、収穫の為に働き手を送ってくださるように祈りなさい。」を引用されて日曜学校の教師が更に与えられて対応がしっかり出来るように祈りましょうということで、教会の祝福の為に祈り続けておられました。
(2)本多牧師は最近細かい文字等目が良く見えないようになり、本を読むことが困難になりつつあるそうです。ハズキ等拡大鏡を使用しても難しいようです。また体力的にも歩くことをしないため多少弱くなってきているという事でした。年齢によるものであり、小澤もそうですが無理はしないように注意しながら本多牧師には楽しく末永く牧会生活を進めていただくことを祈らせていただきました。アブラハムもモーゼも70歳前後で本格的活動が始まっていますから、長期戦覚悟で祈りつつ健康を保ちつつ前進をさせていただきたいものです。このために祈りました。教会の高齢者の方々も豊かに祝福されますように。
 日本福音宣教会のリ・スーグー牧師も手術をされたようにお聞きしましたが、日本の宣教の為に努力して下さっておられる大切な牧師先生ですの祈り続けましょう。
(3)小澤はピリピ人への手紙1章3〜6節「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべての為に祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」という御言葉の通りに、牧師・宣教師先生、そして敬愛する兄弟姉妹方の為に祈るたびに心に喜びが湧き上がって来ます。恵みの世界ですね。宣教は人には不可能に見える世界ですが、神には出来る世界でありますのでご聖霊様にいつも期待しながら歩み続けさせて頂きましょう。教会の祝福を祈りました。  M.O.
 
9月8日 ルツ記2章1〜16節「ボアズの親切」

 ZOOM祈祷会参加者3名
1.近況報告タイム
(1)本多牧師はデボーション箇所ローマ書9〜10節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」これは、順子先生が通われたていた教会で救いを受けたときにいただいた御言葉だそうです。順子先生は人前で話すことが苦手でしたがこの時は夕拝に出かけて牧師先生に直にお話がありますと語り、「御言葉が与えられたのでイエス様を信じます。」とお証されたそうです。本多牧師が後々順子先生が直接お話出来なくなった時、原稿を書いて上げたので詳しく救いの経過を記憶されていたそうです。
(2)小澤は「ツィンツェンドルフ」伊藤利男/著を読んでいて、ヘルンフルート同胞団がリバイバルにより成長していった時、周りのプロテスタントの人々から迫害を受けたそうですが、当時はフランケさん等の敬虔主義は罪の深い悔い改めが無くては救いはあり得ないという立場であり、敬虔主義の学校は常に悔い改めを徹底的に教えるという教育方法を取りますのでツィンツェンドルフさんの様に子供の頃から伯爵育ちで祖母からキリスト教を自然に教えられて信仰を持ったと言う人のつくったヘルンフルート同胞団を教会離脱主義者と見なして排斥したそうです。
 私もこの本を読んでいてツィンツェンドルフさんはどの時点で真実な悔い改めの経験をしたのか疑問に思っておりましたので、彼の信仰が果たして本物かどうかという事を危惧もしておりましたが、しかしその行動はずば抜けて聖書的であり、努力家であった事を思うときにイエス様が言われた「神の国はこの様な者達のものである(マルコ)」という事を思い出しました。私の経験からもイエス様を信じる方法は真に不思議で千差万別でありますからイエス様が人それぞれに良しとされる方法で救いに導かれるものと思いますが、今回本多牧師のお話をお聞きして、救いの基本は順子先生の様に「御言葉」を中心にご聖霊様のお助けにより、人は初めて明確にイエス様を知り、信仰の世界へと導かれるものであることをつくづく思わされました。いかなる方であれ聖書の語る御言葉の力が人を変えるのであると思います。真に不思議なイエス様の導きの世界であります。
(3)安先生は韓国の「ヒロシャカイ」という本をお読みになって、昔の人は権威によって動かされる、他の人の言葉によって苦しめられる。しかし現代人は夢やビジョンを持つことを勧められており、それが達成できない時に自分自身で自分を苦しめるということであるとお話されました。
 昔は教会で他の人の言葉により自分がどのように評価されているかを知り心に傷を受け、語った姉妹が憎かったりしましたが、今麻溝台キリスト教会へ来て大切に学べた事はそうした自身に反対する人々に対しても神様のご意志を想い、その方のために祝福のとりなしの祈りをして差し上げる事が出来るようになった事だそうです。人に褒められたいとか認められたいという自分自身を責める想いを超える事が出来て、自由になり、苦難困難の時には自分自身を励まして上げる事が出来るようなった事がとても大切な恵みとなっていることをお証しして下さいました。安先生の様な愛の宣教師でもこのようなことがあるのですね。自分自身を反省させられました。
 本多牧師は信仰の成長が少しずつ増すことにより、あらゆる事を受け止められるようになって行くというお話をされておられました。・・キリスト者全員がどこまでもイエス様による信仰と希望と愛の成長が出来ますように祈り続けさせていただきたいと思います。
2.聖書学習タイム
(1)ナオミとルツがベツレヘムに着いた季節は、大麦の取り入れ時期でした。何も持たずに帰国したナオミ達をまず待っていたのは、こうした中で食料もない貧乏な生活です。ルツは優しさを誰よりも持っている方でしたが、その中には強い意志をも有していると本多牧師は語られました。ですから窮地に陥っても落穂拾いへ行くことをナオミに許可を得て出かけることが出来ました。神様が用いられる方はこのように愛情が深く、その底に深い意志も持つことが大切であり、こうした方々を色々な事にお用いになられるものである事をお話されました。大切なことですね。
(2)落穂拾いは世界のどの国でも恐らくこのような制度はなかったと思われます。それはレビ記19章9〜10節にある通り、神様の人への分け隔て無い愛の表れであり、特に貧しい人や在留異国人の為の深い思い遣りの精神が反映しております。
(3)聖書全体が貧しい人や病める人々への思い遣りの心で満たされております。私達の神様がこの様な方であることを忘れない様に致しましょう。
(4)ルツがボアズに出会ったのはその記述を読むと全くの偶然としか思えない様子ですが正にこの出会いこそが深い神様の導きでありご摂理であったことが次第に分かる様になります。
 同じ様なことが私達も経験させていただいているのでは無いでしょうか。小澤の場合は妻との出会いは母が昔生け花の先生をしており、そこにたまたま習いに来ていた姉妹が、やがて私の妻となってくれました。それは私も道を求めていたので、キリスト教に大変興味を持っていたことがあり、姉妹に教会へ何度も連れて行っていただく中で、やがて結婚へと導かれたものです。生涯に掛け替えのない大切な女房との出会いの中で私の救いを導いて下さったイエス様に真に感謝に堪えません。
 安先生は沢山の神学生が集まる集会で不思議にソヘヨン先生とお話しするように導かれて、やがて結婚へと導かれました。神様を信じる者には神様のご計画がありご摂理があることをお話されておられました。
 本多牧師は順子先生との出会いは同じ神学校ですが、何十人もおられる学生方が食堂を利用する時にテーブルの数がありますので抽選で席を決めるという事であったそうです。しかし不思議なことにいつも順子先生とご一緒の席になり、やがて本多牧師が積極的に結婚を考える様になり、アタックを始められたそうです。イエス様は全く不思議な方法で導きをされますね。神の恵みですね。
 本多牧師は最後に今日の祈祷会では箴言19章21節を思いましょうという事でした。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」・・・主は私達キリスト者をいつも見守って下さっておられて、全てを益にして下さる天地創造の主でございますね。感謝いたします。
3.祈祷タイム
(1)ナオミさんルツさんボアズさん等がそうであるように、一人一人に与えられた独特の人格が大切であり、それぞれがそれぞれの形で主を崇めて進んで行く時に主は全てを最善にお導きくださることが分かります。教会も全ての信徒の方がそれぞれ色々な歩みをされ、色々なお仕事や人生を歩まれておられます。一人一人が夫々に与えられた個性を大切にしながらイエス様と共に祝福の道、そして主の栄光を拝する道を歩んで行けますように祈りました。
(2)教会がそうした中でイエスキリスト様だけを見上げつつ神の家族として増々一つとなって行けるように、ヘルンフート同胞団では元は世界中から集まったバラバラな信仰姿勢の人々の集まりでしたが。気心の知れた数名の方々がバンドという小グループをいくつも作るようになり、 和気あいあいの交流がなされ、こうした各バンドグループが次第に全体の交流を深め信徒の方々の相互の考えの差を越えてイエス様にあって一つの共同体として成長しています。リバイバルはここから来ます。本多牧師はイギリスのジョンウェスレーさんも小グループをつくりこの働きがやがてリバイバルに大きく貢献されていることをお話されておりました。麻溝台キリスト教会にも将来このようなセルグループが形成される日が来ることを祈りましょう。
(3)留学を控えている姉妹や敬老の日(19日)礼拝の祝福の為、また結婚された姉妹の祝福の為に祈りました。
(4)安先生が来年は新しい伝道の地へ遣わされます。このためにもぜひ皆さんと共に祈り続けたいと思います。祈祷会でも心を込めて祈らせていただきました。
(5)本多牧師のお話では、JECA教職者会でのお証で、湘南キリスト教会でこのコロナ禍の時代でも子供たちが送られて来ているそうです。また他の教会では病床の中で洗礼を受けることが出来た方がおられたそうです。今も着々と祈りに答えて働かれておられる主を崇めます。祈り続けましょう。イエス様に栄光がありますように。
(6)若い人が一人でも多く教会へ来て、救いを受けることができ信仰の成長が与えられますように。         M.O.
 
9月15日 ルツ記2章1〜16節「ボアズの親切」(連続講義)

 参加者3名のZOOM祈祷会でした。
途中で小澤のZOOM画面がフリーズしたため、再立ち上げを行いました。ZOOMの場合は色々なアクシデントがありますが適切に対応する方法を考案しながら進めるのが将来の為にも良いと思います。
1.近況報告タイム
 牧師先生より祈祷会開始前に、緊急報告で花坂兄が道で倒れて入院されたとのお話があり、娘さん(K姉妹)もまだお会いしていないそうです。コロナ時代に入院出来たこと、花坂兄を見つけて助けて下さった若い方ががおられたそうで助かりました。感謝です。・・まず心を込めて皆で癒しと救いが与えられる様に祈りました(ご家族も守られますように)。また祈祷会途中からはY姉妹が携帯で牧師へお問い合わせがあり、こうして敬愛する兄弟姉妹が共に事故に合った兄弟の為に祈りあうことが出来ることにつくづく感謝申し上げました。花坂兄が癒されますように。
(1)牧師はデボーション箇所、ロマ書13章1〜7節「あなたがたは、だれにも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」から、ご自身の奥様が入院された時等医療費が公費で賄えたので生きることが出来たとお証されて、こうした税金や社会福祉の制度等も、基は神様からのご摂理でありご計画でありとても感謝していますとお話されておられました。アーメンですね。
(2)また聖書を読むときに新改訳2017の訳文が、今までと違うため「おやー」と思いその都度ギリシャ語辞典を読むため時間がかかり、多少困難を感じておられるそうです。小澤などは広く解釈できるのでデボーションには新共同訳聖書を使用していますが、それぞれに合った聖書を活用するのは良いように経験から思われます。
(3)小澤はインターネットで月刊誌「ダビンチ」が昔行った面白いアンケートの結果があることを知り深く考えさせられました。曰く「余命3カ月と宣告されて、読みたい本は?」との問いに・・当然当時流行っていた死を明るく話題にした「大往生」永六輔/著が第一位になると思ったそうですが、予想に反して、なんとダントツの一位は「聖書」だったという事です。日頃「聖書」など見向きもしない層の人々が「やはり、天国へ行きたいから」といったご利益(?)を求めて、一度は読んでみようと思ったのでしょうか。しかし実際には一般書店でも入手可能な聖書に普段から真正面から取り組んで人生の指針としているかと言えば、そういう意味での読者人口は貧弱なものではないかと思われると書かれておりました。御言葉は人を確かに救う力がありますが、傍らに解説をしてくれる人がいなくてはどうして聖書を正しく理解できるでしょうか。多くのことを考えさせられました。
 もう一つは国際飢餓対策機構の冊子からボリビア民族国駐在の小西姉妹のお証文に共感させていただきました。内容は最近3人の同労者等の方の死にあったという事です。一人は同年の親友のボリビア人国内宣教師ジュディさんが長距離バスの事故(崖から転落し45人の内21人が死亡)により、またFHBコチャバンバ事務所代表であった?ベンさんが、新型コロナ治療中に天に召されました。そして最後はサンタクルス県在住の8歳年下の日本人クリスチャンの友人が心臓発作で召されました。・・・小西宣教師はこうして3人を次々と失ってとても寂しい思いがしたそうです。しかし彼らは皆、精一杯に与えれた生涯を走り抜けられました。そして今は痛みも苦しみもなく天国の神様の懐で憩っていて、いつの日にか天国で彼らと再会できることが残された私達の大きな希望と慰めです。こうした中で今も御自身が生かされていることは御自身が地上でやるべきことがまだ残っているという事にほかなりません。今自分が成すべきことを着実に進めながら歩んで行こうと思っています。とありました。・・・私も今は妻にも先立たれて最近ふと妻と歩んできた道を思い、心に涙の思いがしないではなかったのですが、キリスト様は妻も、救われた家族も、信仰の友も今は御国でイエス様と幸せに暮らさせていて下さることを強く教えて下さり、私の方をポンと叩いて「わたしである。」心配せずに私が与える雄大な夢と幻をもって歩み続けなさい。と励ましてくださいました。イエス様がお与え下さった走るべき行程を走り切りたいとつくづく思わされました。イエス様に感謝申し上げます。
(4)安先生は韓国の最近のニュースから世界最大の教会の牧師チョーヨンギ牧師が召されたことをお伝えくださいました。30年以上昔、座間教会にいた時に祈祷会に来られたチョー牧師とお会いしたことがありますが、ついにこの時がきたかと時の流れを思いました。チョー牧師の最後のメッセージは「イエス様と泥棒のお話であり、人の心には色々な思いがあり、それは食べることや飲むこと、また夢を叶えるよう努力すること等ありますが、最後に地上の生活が終わる時には神様の審判があり、イエス様を信じて救われることが大切であり、人も社会もイエス様を信じて歩むことが大切であること。」をメッセージされておられたそうです。
 また、デボーションではエゼキエル書18章32節「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」を掲げておられました。
2.聖書学習タイム
(1)ルツはモアブ出身であり、アブラハムの親戚のロトの子孫でありますが、当時のモアブは既に宗教的には多神教であり、聖書の神からは離れていたことが知られています。ですからベツレヘムに着いてもそこでは異邦人と同じで全くのよそ者扱いであり、ルツ記でもモアブ人、モアブ人という呼び名で何度も書かれています。しかし本多牧師は神の系図は違うことを強調されておられました。正にルツを通してボアズの家系からキリスト様はお生まれ下さいました。旧約聖書の代々の家系図に登場する人々により罪びとを招いてくださる正に神の深いご愛と御計画が見えてくると解説されていました。
(2)ボアズの性質についても@落穂を拾わせてくださる。A水を飲ませて下さる。B自分の昼食のパンを分けてあげる。等々限りない親切をルツにしておられる様子が分かります。安先生はこうした事の中に「あり得ない」親切であると表現しておられました。どこからこうした人知を超えた親切な愛の心が生まれるものでしょうか。
(3)本多牧師はこの秘密はルツ記11・12章にあることを示されました。「ボアズは答えて言った。「あなたの夫が亡くなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについては、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてださるように。またあなたがその翼の下に避けどころを求めて来たイスラエルの神、主から豊かな報いがあるように。」・・・このことはボアズが単なる人間的親切心だけからルツを保護しようとしたのではなく(それだけならあまり深い意味は無いでしょう。)、ボアズさんの主に対する深い信仰の心があってのことであることが分かるという事です。またこのことはボアズさんが稲穂刈りの仕事を始める時にも、刈る者達を主の御名により祝福を与えて応答をされている様子でも推測されます(ルツ記2章4節)。
 こうして尊い信仰が人々を導いてゆき、神様の深いご摂理が歴史的にも進められてゆくことが分かります。私達もまたイエス様の不思議な豊かなご配慮の中を歩ませていただいているものですね。
(4)ボアズさんの愛の心から学べるものとして牧師は@教会から離れている方々が戻り、教会から離れないように配慮して行きたいことA本来クリスチャンとして兄弟姉妹がお互いに優しい配慮のできる助け合える人格が育つ様に努力したいと言う事を語られておられました。アーメンですね。
3.祈祷タイム
(1)花坂兄や病気や障害のある方々の為に癒しを。
(2)高齢者の方々の為。M姉妹の英国留学が上手く進む事が出来ますように。
(3)最近メッセージの録画が出来るようになり、牧師先生ご自身も再生して恵まれておられるそうです。有効に用いられますように。また教会ホームページも最近中国やアイスランドからの閲覧がありました。御言葉が伝えられていることを感謝します。
(4)安先生がイエス様の深い御計画の中で新しい牧会地へ導かれようとされておられます。最善の道が導かれ、キリスト様の愛の教会づくりがなされます様に。
(5)その他教会員の為に出来る限り名前を上げて、一人一人の祝福を祈りました。(教会は祈りの家ですね。感謝。)   M.O.
 
9月22日 ルツ記2章17〜23節「恵み深い神」

 参加者3名の祈祷会でした。
安先生のお宅ではアンジュ君が飛び入りで、出たり入ったり賑やかでした。感謝いたします。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師はロマ書15章1〜2節「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」からデボーションで自分自身に適用され、どれだけ他の人々の為になすべきことをしてきたかを強く思わされて、すぐ傷害で礼拝をお休み中のO兄へお電話されたそうです。幸いご本人も自宅でデボーションで詩篇を読まれているそうで、2週間ぶりに連絡を取ることが出来たことを感謝されていました。
T姉妹が最近お友達を訪ねて永谷キリスト教会へ行かれる中で、姉妹は足がお悪いので、受洗準備中のN兄弟が同伴サポートをされる事となったそうです。また高齢のT姉妹が礼拝を守れない状態になっているため、S姉妹とY姉妹がご自宅を訪問して下さったそうです。
 本多牧師も病める兄弟姉妹を一人にしておきたくないという思いがあり、こうして兄弟姉妹方がそれぞれ自主的に愛をもって助け合えるというのはすごい恵みですね。神の愛の御業ですね。感動させられます。励まされます。
(2)小澤は最近読み始めた「孤児たちの父フランケ」伊藤利男/著を読み始めた感想をお伝えしました。・・フランケ(1663-1727)さんはドイツのハレに貧民学校と孤児の家を始めた神学者であり、教育者です。ドイツ敬虔主義プロテスタントの代表者の一人でもあります。当時のドイツはカトリックとプロテスタントの30年戦争などで荒廃しており、またペスト等も発生した時代ですので苦難の時代です。そうした中でハレの町の人々は毎週木曜日には各家庭の前に、その日の食にも事欠く貧しい孤児や貧民に集まってもらいパンを分けるというようなことが行われていたそうです。フランケさんの家の前にも人々が集まるのですが、孤児たちの様子を見て何とかしなくてはと思い、初めは家に入れて教育も受けていない孤児たちに15分間だけ聖書のお話をしてあげます。その後パンを与えるという事を繰り返している中で、やがて子供たちも1週間の内にいつもの悪童仲間により生活習慣が治らないため、友人宅に子供たち数人を夫々住まわせていただくこととして資金的援助を少しでも行うという方法へ変更します。またご自身は大学教授でもありましたので、貧困学生に僅かの報酬を援助し、協力していただき児童たちの学習指導を依頼し始めます。この頃は次第に周りの人々がフランケさんの奉仕活動に気づき、いくらかずつ献金を送って下さる様になります。フランケさんご自身は自分からは一切献金の要請はしないのですが、祈りだけで始めたこのご奉仕が次第に周りの人々や王侯貴族にも知られるようになり、かなりの大金の献金等も集まるようになります。そしてやがてハレの地に4階建てのビルの建物が何棟も立て上げられ孤児たちを集めて住み込みで教育する場として成長します。全て祈りのみにより為されており、驚くべきことが起こります。この事についてフランケさんは神の「先慮」と呼んでおりますが、資金不足で明日はどうなるかという丁度その日に大金の献金が届けられるというような事があったわけです。
 このようなことは英国のジョージ・ミュラーさんが祈りだけにより孤児達数千人をを養い育てたことと同じことがドイツでも既に起こっていたという事です。・・また貧しい未亡人達の為に初めは4人の未亡人を選び、住まいを建てるという奉仕をしますが、この目的は単に生活を援助するというだけではなく、町や国の全ての人々の為や、教会の祝福の為に祈っていただきたいと言う事にあると語られているそうです。日本の高齢者の方々の生き方としても深く教えられます。
(3)本多牧師は日本では岡山孤児院設立の石井十次さんや中国宣教師のハドソンテーラーさん等が同じように神様への信仰だけにより進んで行った人であることをお話しくださいました。
 本多牧師が札幌南キリスト教会の米国姉妹教会のタクマハーバトチャーチのビル牧師を訪問された時にはご自宅を朝食の取れない子供達を集めてスクールバスが来るまでお世話をされていたそうです。目に見えないところで愛の心を出来るところから実践されてこられた方々をキリスト様が世界中に置かれていることを学び、つくづくと驚きと感謝にあふれます。札幌南キリスト教会の船渡川牧師はダウン症の子を養子にされお育てされておられます。現在は同じような障害児をもつ方々を「ダウン症児を守る会」として立ち上げ活動をされておられるそうです。主の栄光がありますようにお祈りを続けましょう。
(4)安先生宅ではソヘヨン先生が先日インドネシアから来られたY姉とアンジュちゃんを連れて買い物に行って来られたそうです。素晴らしいですね。恵みの大きさにつくづく感謝申し上げます。
 またへブル書11章35〜40節で信仰の在り方として「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられる目にあい、また石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、・・・この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためさらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちを別に全うされるこということはなかったのです。」により信仰者の歩く道は表面的に恵まれたこの世の富の世界だけでなく、苦難困難の中にある信仰の素晴らしさを学ばれた事をお証されておられました。
(5)本多牧師はローマ人への手紙8章16〜17節「私たちが神の子どもであることは、ご聖霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難をも共にしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」を引用して、安先生が大切なことを学ばれていることを示しておられました。感謝です。
2.聖書学習タイム
(1)ルツ記は先週に引き続いた箇所ですが、先週からのお話を総括して次のように今回教えられたように思います。
(2)ナオミが何も財産を持たずに身一つでベツレヘムへ帰郷することとなった時、ナオミの心にはこのまま嫁たちを食うや食わずの極貧状態へと一緒に連れ戻ることは出来ない。それぞれの幸せを考えてあげなければ。・・そこでルツとオルパへ親族の元に帰るように説得します。しかしルツだけはこれを良しとせず、姑だけを帰郷させて極貧の生活の中、死なせることは出来ない。あなたの死ぬところで私も死に、あなたの葬られるところで私も葬られます。という驚くべき愛と信仰の証をして、決して姑と離れようとはしませんでした。恐らくモアブの砂漠を少しの荷物をロバ一頭くらいに載せて5〜6日間、昼は太陽の暑さ、夜は星空の下に寒さに凍えながら、また強盗等の難にひやひやしながらベツレヘムに帰郷できたものと思われます。とりあえずロバを処分して貸家に住みますが案の定、明日の食べ物にも事欠き、正にナオミが知り合いの人に私をナオミ(快い)と呼ばずにマラ(苦しむ)と呼んで下さいと言ったことは、ご自身の境遇をそのまま述べていた事でしょう。
 そこでルツの決断力と実行力がものを言います。ナオミに恥をかかせないため、当時極貧の人々が行く落穂ひろいに行くことの許可をまずいただき、早速あらゆる苦難を覚悟の上で出かけます。・・・しかし、しかし何とその落穂ひろいをする場所がエリメレクの親戚のボアズの畑とは正に神ならぬ誰が知る事が出来ましょう。神は見ておられます。私達の先へ先へと先手を打って下さる神の業(本多牧師は顧みて下さる神であるとご説明されておられました。)、ご摂理(先慮)に驚愕いたします。・・・私達クリスチャンは同じように人生において多くの苦難困難に出会うのではないでしょうか。しかし祈りつつ進む時、常に神様の深い守りと祝福があったのではないでしょうか。つくづく教えられます。
 ナオミとルツの深い愛と篤い信仰の心、そして神様の深いご配慮によるボアズという信じがたい暖かいやさしさを持つ親戚との出会い等、旧約聖書の中でも大変短い記録の中に、特別のダイヤモンドの様な輝きを放つ出来事がここに記録されている理由も良く分かります。こうしてボアズとルツの子孫からやがてイエス様がお生まれくださることも真にアーメンと理解されるのではないでしょうか。(ボアズは「買戻しの権利(ゴエール)のある親戚と言われますが、これは「贖うことの出来る親族」という意味にも通じており、最終的にはキリスト様との深いつながりが感じられる言葉です。)
(3)小澤は昔、これで終わりかと思われた出来事に遭遇した時の御言葉のお証をすると、本多牧師が聖書の箇所をすかさずお教え下さいました。それは詩篇121編5〜6節「主は、あなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰。昼も、日があなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。」です。こうして私の様に御言葉により励まされ乗り越えて来られたは方は多いのではないでしょうか。主は生きておられます。全てを感謝しつつ前進をさせていただきましょう。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師が一人一人の苦難困難や課題をお持ちの方々について具体的に非常に熱心に心の底から祈られておられる姿には、いつもながら驚愕いたします。まさに本多牧師は祈りの牧師であられるとつくづく教えられます。本多牧師から祈られておられる兄弟姉妹方は本当に幸せであると思います。
(2)安先生も一人一人名を上げて心を込めて祈られます。特に信徒一人一人のご性質をご存じで、非常に広い範囲の方々の為に祈られます。将来の牧師先生の姿が重なり、つくづくイエス様に感謝申し上げます。
(3)小澤は病の中にある方々を中心に、M姉がイギリス留学を控えておられますがご家族の祝福の為、安先生の将来の牧会地へイエス様が先慮してくださり深いお導きがあるようにお祈りさせていただきました。
全てを最善にお導きくださる主に感謝申し上げます。
(聖書引用は日本聖書刊行会の新改訳聖書によります。)
M.O.
 
9月29日  本多牧師が夏季休暇の為、参加者2名のZOOM祈祷会でした。

1.近況報告と祈祷をさせていただきました。
2.賛美は教会福音讃美歌433番で「一人では負いきれぬ重荷を」主に告げよと歌う歌詞の真実をつくづく理解しながら賛美出来て感謝でありました。
 続いて、アメージンググレイスを賛美いたしました。教会福音讃美歌では304番ですが、昔の歌詞とは異なる文章(ひむなる委員会:訳)となっておりました。基はジョン・ニュートンさんの歌詞(「英文参照」インターネットに掲載あり)ですが、恐らく昔の訳詞の方が原文に近いのではないかという思いがいたしますがどうでしょうか(私にとっては思い出の深い賛美であります)。新しい聖書や賛美歌では訳されている言葉に深い味わいが少し失われて来ている気がする時もありますが、良い訳が今後も成されてゆくように祈りましょう。(祈祷会でこのことに気づかせていただいたことも不思議な感謝です。)
3.近況報告タイム
(1)安先生・・エゼキエル34章16節(わたしは失われたものを捜し、迷いでたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」・・・この23節では牧者であるダビデを起こすと書かれてあり、安先生は主イエス様がお誕生されて人々を救いへ導かれる約束であり、とても励まされた聖句であることをお証されました。
(2)小澤も現代は社会情勢全体から見ても、キリスト者としても課題の多い時代であると思われますが、こうしてイエス様は今も失われた羊を捜し求めて下さっておられることを思い、つくづく感謝いたしました。
(3)安先生は来週金曜日にコロナワクチン2回目の接種を受けることが出来るそうです。へヨン先生は今週の金曜日には2回目の接種が受けられるそうです。感謝です。
(4)日曜学校では現在小学6年生の子供達が多くおり、来年は中学生になるそうです。来年以降も小学生が多く集まれるようにお祈りの必要を語られました。
(5)日本では中学生になると部活動等が多くなりますが、韓国では部活動は少ないそうです。ただし学年が上がると塾通いの子供達が増えることがあるため、韓国の教会では若いユース(中学生や青年達)のため土曜日に集会を開催したり、日曜日は9時から礼拝をされる教会があるという事でした。(コロナ禍の為、現在はどのように変化したかは不明とのことです。)・・・中学生達の為にもお祈りが必要と思います。
(6)小澤は最近読んでいる本「パンソフィア」(汎知学の訳)J.A.コメニウス/著(東信堂)のお証を少しさせていただきました。300年以上前のボヘミア地方で発生したカトリックとプロテスタントとの30年戦争で荒廃したヨーロッパを再び平和の福音により各国の相互理解を構築するために、教育分野を中心に、聖書的に当時の学問や技術の意味、文化全体、国家全体をどのように改善したら良いかを聖書を土台に分析統合した研究本です。著者は牧師先生ですがこうした各種文化、学問全般を、個別的にもかなり詳しく聖書的存在理由(由来)や意義を著者なりに見事に分析統合しておられて、当時は世界中でかなり読まれていた様です。・・・小澤は聖書解釈と学術論の相互関係とその意味論を中心として創造論の参考となるために読み始めています。300年以上前に私と同じようなビジョンを持ち体系化(自然科学論自体は資料が古いのでそのままでは使用できませんが、聖書との関連付けは見事です。)を行って下さつていた方がおられたことと、この本に出合えたことも不思議なイエス様の導きがあり、とても感謝しています。・・・具体的な内容はいつか教会ホームページの信徒の広場等でお証出来ればと思っております。
5.祈祷タイム
(1)安先生・・信徒の方がなお一層キリスト様と似た者へと成長が導かれますように。
(2)麻溝台キリスト教会が「愛に生きる聖なる教会」に成長できますように。
(3)信徒の方々にとって、私だけの神ではなく、家族の方々の為の神様にもなって下さるように。
(4)来週の礼拝が聖別された清い聖なる礼拝となることが出来ますように。
(5)本多牧師のご健康と霊性が祝福されますように。
(6)小澤・・高齢者の方々、病のある方々の癒しの為。病の苦しみは私も経験させていただいておりますので、特に重要であることを思い祈らせていただきました。
(7)本多牧師不在ではありますが、安先生が心を尽くし兄弟姉妹方や私の為にも適切なそれぞれの課題を具体的に上げてお祈り下さり、主イエス様のご臨在の中、共に教会の祝福をお祈りさせていただけることがどれほど感謝で有難い恵みの一時であるかをつくづく思い、感謝に溢れました。安先生とイエス様に感謝申し上げます。・・一人でも多くの兄弟姉妹がこうしたZOOM祈祷会へ参加して、恵まれたご人生を進めて行くことが出来ますようにお祈り申し上げます。
(8)今回の祈祷会は2名でしたが、共におられるイエス様とご聖霊様のご臨在を常に意識しつつ、共に祈れることのすごさに感動させて頂きました。祈祷会とは祈ることの喜びであり、ご聖霊様の働きを確認しながらイエス様の毎週、毎週の導きをいただくことのできる大切な時であります。安先生のお祈りはとても深くて恵まれます。クリスチャン全員がこのように恵まれたご聖霊様による祈りの人となられますようにとお祈りいたします。
 今回、祈祷会報告を書かせていただきながら、私の如き小さき僕がどうして主の多少ともお役に立つことが出来るだろうかと自分自身に問う時、「タリタ・クム」とお声をかけてくださるイエス様によって、はじめて何度倒されても再び起き上がる事が出来るのであるとつくづく思います。イエス様に感謝申し上げます。       M.O.
 
10月  
「まな」9月号巻頭言

ローマ書13章・人を救う神の力!

ローマ131114

最近、目が何となくしょぼしょぼしていて、本を読むのが苦痛になっている。数週間前も、眼科に行って見てもらったが、特別な治療はなく、目薬もなかった。少し白内障の根見たいのもが見え隠れ始めているので、半年後にもう一度来てください、という事になった。年もあるのだろうか、家内が4月に召された事もあるのだろうか、こんな理由で、本に手が行かない。魂の養いが出来ていない状態が続いている。

そんな916日の、朝のディボーションでローマ書13章の後半を読んでいる時、あの有名なアウグスチヌスが救われて聖書箇所に出会った。それは1311から14節。『取りて読め、取りて読め』の有名なわらべ歌の言葉に誘われるようにして、彼が手に取って読んだ聖書の個所がこの箇所だった。この聖書を読むや否や、彼の魂に救いが訪れて、まさにキリストを着る事となった。ここから、あのアウグスチヌスへの新しい始まりが始まった。

そういえば、私にとっても生涯忘れられない一冊の本の一つが、彼の「告白」だった。神学生当時、聖歌隊のキャンプで、茅ケ崎を訪れていた時、聖歌隊の練習を抜け出し、宿舎で夢中になって読んでいた本が、この『告白』だった。二段ベッドでカーテンをしながら読み続け、『告白』11章に来た時、それこそアウグスチヌスの魂に、突然に光が差し込んだように、私の魂にも光が差し込み、「わかった,分かった!」と、狂気するようにベットから飛び出し、狂ったように友人たちの元に走って行った。何が分かったのか、神中心とはどういうことかが、私の中で、分ったのです。アウグスチヌスが、あのローマ書13章、以降、読む必要が無いほど、救いの恵みで包まれたように、私の場合も、この11章でストップしてしまっている。

そして16日の朝、再び、「告白」を手に取って、その個所を開いた。そして54年の時空を超えて、今救われたばかりのように、アウグスチヌスの喜びが私の魂に伝わってきた。そして思った。このように主イエスの救いによって、歓喜に満ち踊る魂が、この地にも起されるようにと、祈らざるを得なかった。聖書を手にして読んで欲しい。そして、この人生を全く変えるキリスト福音の言葉に出会って欲しい、と。この相模原が人達にです。そう祈らざるを得ない。

 そういえば、私自身が救われた時も一瞬の出来事。一度たりとも考えた事のなきキリストを信じる信仰告白をしたその瞬間、キリストの今生きている姿の目撃者となり、自らの魂もその一瞬のうちに古きを脱ぎ去り、新しい人に作り替えられ、見上げれば満天の空に、唯一真の神にして、創造者なる神の存在を知り、歓喜に満たされ、翌早朝にして聖書を読む人へと変えられたあの夜、あの朝の出来事を決して忘れることが出来ない。これをして神の恩寵というのだろう。この救いが、この相模原に生かされている者として、この相模原の人にも起こらんことを切に願い、祈る。「主よ、こんな貧しき者にも、あの偉大な救いの恵みを賜ったように、この地に生きる人にも与えたまえ」と。これは、私の本心であり、常々に祈っている事でもある。どうか、一日も速く、この事を為して下さい、と。

更にアウグスチヌスの本を手に取り、ページをめくっている内に、祈りの貧弱なこの僕の目に留まった言葉がある。『生きることは祈ることでしかなかった。』この言葉に新たに衝撃を受けた。迫害する者達かの危機・危険迫る中で、母モニカ達が生きる道はただ一つ。それは祈ることだけだった。残された道は他になく、ただ祈る事、それが生きることだった。これ読んで、生きることは祈る事の真理に、どれ程、遠いかを身に染みて知った。この母モニカのような祈る人があって初めて、あのアウグスチヌスという人物があったのだろうかと、思う。神の恩寵があってこそとはいえ、祈りに生きている人あってのことだと、いまさらながら思う。

 
10月6日 ルツ記3章1〜13節「ルツの真実」

 参加者3名のZOOM祈祷会でした。
途中から松下姉妹が参加されましたが、音声通信が上手く繋がらず祈祷会のお話を聞くだけとなってしまいました。次回は上手く繋げる様に安先生にご指導いただきましょう。
・・・小澤家ではインターネットが時々切れるのでルーターを新しく交換しました。セキュリティ機能の向上等もあり時期に応じてルータ交換が必要になることも分かりましたが、パソコン機能に慣れている人でないと設定が難しく、現代ではスマホの方が一般の方には取扱い易く、故障しても簡単に販売的で修理していただけますし、普段使用にはパソコンより便利になりつつある時代であることを痛感させていただきました。本多牧師が言われるように、教会でも新しいメディアをを上手に活用する方法を祈りつつ充実して行きたいですね。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・・エレミヤ書33章11節「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、」が再建したエルサレムに響き渡る日が必ず来ることを告げている箇所です。麻溝台キリスト教会にはしばらく無い結婚式の時や、信徒の方々の分かち合いの時が持てる日が来ることを祈りつつ目指したいとお話されておられました。
(2)小澤・・・私の以前の教会では若い信仰心のある元気な兄弟姉妹の結婚がいくつもありました。しかし、その中にも暫くして離婚へと進んでしまった方も何組もありました。何故こうなってしまうのかと辛い思いをしましたが、本多牧師の以前の教会では一件もこうした離婚のケースは無かったと言う事です。すごい神様の恵みですね。このことは信仰を理解しているだけでなく、一人一人が生活実践を通じて、弟子訓練の様により深く聖書の御言葉を学びきれていないことが原因ではないかとお話されておりました。マタイ福音書19章6節では結婚した者同士は「もはやふたりではなく、ひとりなのです。」とイエス様がお教え下さっておられますが、結婚の意味や意義は聖書をより深く学ぶことによって初めてその尊さや真理の価値理解を深く悟ことが可能となるのではないでしょうか。
 本多牧師はクリスチャンですら、最近は婚前交渉等、不自然な結婚形態がアメリアカ等をはじめかなり多くなって来ているそうです。この事は教会生活と世の中の生活がダブルスタンダードとなっており、それが当たり前の風潮が世界的に広がりつつある問題であることをご指摘されておられました。
 これらの問題は現代教会、またクリスチャンが抱えている課題であり、弟子訓練等による聖書の学びと実践生活を通して信仰者の真実の恵みの世界を学んで行く以外に無いと思われるという事でありますが、現在の麻溝台キリスト教会ではコロナ禍でなかなかそうした学びの時が持てなくなっており、祈り続ける必要があるという事でした。礼拝後にZOOMやLine等、何らかの方法で1時間でも30分でもそうした兄弟姉妹の学びの時が持てることを牧師は希望を持っておられます。
安先生・・・民数記20章12節「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なるものとしなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」との箇所から、イスラエルの民が砂漠で水不足の為に不平を言った時、神はモーセとアロンに「岩に命じれば岩は水を出す」と約束されたにもかかわらず。モーゼはイスラエルを怒り「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言って、これ見よがしに杖で岩を2度打った。と言うことが書かれており、神はイスラエルの不平を赦し、岩に命じれば水を出すと単純に語ったにもかかわらず、モーゼ達はあたかも自分達が水を出す権威があるように、民を怒り岩を2度打つということをしたために、神の栄光を汚してしまったことを語られて、モーゼが約束の地に入ることが出来ないこととなってしまいました。・・・私たちも神様の御業を為させていただく時には私達人間の知識や能力や知恵で行うものではなく、神様がなされることであり、その栄光を常に主に帰することの大切さをお証されていました。
 小澤も、実はこの聖書箇所は昔から疑問であり、なぜ杖で2度打ったことが、これほど神の心を傷つけたのか深くは理解されていませんでしたが、今回モーゼさんとアロンさんが、神様を出し抜いて自分達があたかも水を湧き出させたような自分勝手な行動であったことを新しく学び直すことが出来てとても感謝でした。人の業ではなく神の愛と赦しの御業であることは私達クリスチャンがいつも気を付けないといけない問題であるとつくづく思いました。感謝いたします。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・・ルツがボアズの麦束の上の寝床に入ったことは、現代の常識からすると危険で常識を欠いていますが、当時のイスラエルでは一つのプロポーズの仕方であり、文化の違いがあり、こうしたことがあったと言う事だそうです。
(2)ルツのナオミに対する答えとして「私におっしゃることはみないたします。」という言葉はルツの母に対する信頼の大きさと、またナオミから学んだイスラエルの神に対する強い信頼であり、人間としての誠実さの深い表れでもありましょう。・・・何一つ条件を付けずに身の危険をも顧みずに愛と信頼をもって進んでゆこうとするルツの誠実さが煌めきます。
(3)ボアズはルツに気づいたときに、ナオミの言葉とイスラエルの神に対する信頼の心の深さと共に、何よりも自分を信頼してくれているその真実な心に仰天して、ルツの誠実さを今までのナオミに対する誠実さを更に上回って自分に示してくれたことに深く感謝しております。ルツのこの行動は明らかに富や名声や地位や権力でもなく、若さや見た目の問題でもなく、価値眼がこの世の全てを越えて神のご意志にお任せする態度であり、このことに驚かない人は無いでしょう。私たちクリスチャンも常にこうしたルツさんの様に何が大切かを心にしっかりと祈りつつ理解して、誠実に主に仕えさせていただきたいものであります。
(4)ルツはその町の人々から信頼されていたことが書かれておりますが、本多牧師は教会員の皆さんがこのようにクリスチャンとして周りの方々に信頼されるような生き方が出来るように祈りましょうとお話されておられました。10月には本多牧師は福島の実家に一時お戻りになるそうですが、そこでも少しでもお証出来るように心を備えたいとお話されておられました。祈りましょう。
3.祈祷タイム
(1)病や障害のある方々の癒し、種々の理由により教会集会に来れない方々の為のとりなしの祈り。
(2)H兄弟の救いの為の祈り、また信徒一人一人の名を上げて、皆様のご人生が必ず神様の豊かな祝福に与れる様に3人で熱心に祈りの時が持てました。祈ることは喜びです。感謝申し上げます。
(3)安先生が新しい伝道地へ遣わされると祈祷会参加者が減るため、新しい祈祷会参加者が増えるように祈りました。
 今日の御言葉「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」マルコの福音書10章32節
(報告書の御言葉は日本聖書刊行会発行の新改訳聖書参照)   M.O.
 
10月13日 ルツ記3章6〜18節「ボアズの誠実」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
新聖歌386番「主にまかせよ」で始まりました。・・・とても良い賛美であり心に励ましを受けます。インターネット上の曲を本多牧師が送信してくださるので、楽器演奏付きで賛美をいたしましたがやはり楽器が入ると賛美が広がり良いですね。感謝します。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・実結ちゃんが14日にイングランドへ出発しますので祈りましょうという事でした。姉妹のご人生にイエス様の守りが豊かにありますように。
(2)小澤・・「孤児たちの父フランケ」伊藤利男/著(鳥影社)を読んでいますが、約300年前のドイツで人々の献金だけで4階建てビルの孤児院を建て運営を継続された牧師の伝記ですが、初期には田舎町の牧師として赴任しますが、伝統的ルター派からは敬虔主義牧師として地域組織から非難され、苦しい時を通ります。友人たちは反論を勧めますが、彼は「ただ神の御心ならこの道は全て主が守られます。」という信仰だけで、全てを主に委ねる生きかたを貫きます。今日の賛美も「主にまかせよ」でしたが私たちも周りの人々からクリスチャンであることにより誤解を受けたり、苦境に立たされることも何度もあるのではないでしょうか。そうした時、正にこのフランケ牧師の様に、人と争わず、全てを主に委ねて主がお与え下さる平安の道を行くことの大切さを再度豊かに学ばされております。
 常に祈りつつ神様のみ旨だけに頼るという敬虔主義の生き方は、本多牧師によると当時のモラビア教団や現在の福音主義やリーベンゼラ活動へと引き継がれているそうです。一人一人が聖書に生きようとする中でご聖霊様が働かれると、私達一人一人の人生が色々な形で主に用いられ、祝福を受けながら前進できますことを感謝申し上げます。
(3)安先生・・ヨハネの福音書11章5節「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」(韓国聖書では「この人々を何の条件もなく以前からずーと愛しておられた」という形で訳されているそうです。)から、マルタは良く働く姉妹であり御言葉を聴きたくても、お客さんのお世話に忙しいお仕事を引き受けていた方であったことが知られておりますが、イエス様はこうした忙しく働くだけのように見えるマルタをも心から愛しておられた様子が分かります。教会も同じであると思われたそうです。色々な事情から教会のご奉仕が出来る人とそうでない人がおられます。しかしイエス様は誰彼の区別なく全ての信徒を心から愛して下さっておられることを深く学べることをお証されておりました。教会のお掃除をしていると、信徒の人々との交わりや祈りの時間が持てなかったり、ご奉仕をされている方々には色々な制約がかかります。しかしイエス様はマルタをも愛し、その愛から漏れることなどないことを教えて下さっていることに深く気づかされて感謝でしたと語られました。
小澤は現在健康上体調管理に努めていますが、なかなか上手く行きません。時々礼拝に遅れてしまうのですが、兄弟姉妹の躓きにならない様に祈りつつ礼拝出席をさせていただいております。その日は2階礼拝室がかなり満席だったので私は一階集会室でテレビ礼拝を守らせていただこうとしました。アンジュちゃんも喜んで膝に乗って来てくれたり、私的にはとても楽しい礼拝でもありますが、安先生が怖い顔をして、ここは礼拝する場所ではないです。アンジュちゃんが走るので、正式の礼拝は2階へ行かなければなりませんと、強くお勧めになりました。私はびっくり仰天して、いつの間に安先生は礼拝の在り方について、このように深く自覚されて対応をされているのであろうかと、すでに牧師先生としての自覚が満ち満ちておられる様子をイエス様からお教えいただき、平身低頭慌てて2階へ上がりました。イエス様は安先生をこうして導き守り祝福して牧師先生としてお育て下さっておられるのだなーとつくづく教えられ感謝いたしました。イエス様に栄光がありますように。安先生ファミリーは必ずやイエス様がご計画された新しい素晴らしい牧会地へと着々とお導き下さるに違いないとつくづくと思いました。感謝申し上げます。
(4)本多牧師・・エレミヤ書35章より・・お酒を飲まないことと、牧畜生活を守ることはレカブ人(北王国からエルサレムへ非難し住んでいた人々)の先祖ヨナダブの命令であり、それを何世代(200年以上)も守り抜いている人達であることを証明し、それにもかかわらずイスラエル人が主の何度も語られた悔い改めの言葉に従わなかったことを示される場面です。私達も神の御言葉を着々と世代を超えて引き継いで行く事の大切さをお話し下さいました。
・・本多牧師の家でも現在、お孫さんは愛音ちゃんだけですので、いつか愛音ちゃんが結婚されて苗字が変われば、本多家は2代で姓としては絶えることになるでしょう。しかし信仰は民生牧師の家でも愛音ちゃんに日々教えらえており、何世代にも渡り引き継がれて欲しいと願われておりました。
 教会も同じで、信徒の方々のご家族が、それぞれ何世代も信仰を引き継ぐ事が出来るように祈り続けましょうと言われておられました。非常に大切なことであると思います。出来ることを為し続け、祈り続けましょう。
2.聖書学習タイム
(1)選ばれた人(「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」第U歴代誌16章9節)ナオミ・ルツ・ボアズそれぞれの心、生き方、信仰を見ておられる主。不思議に3人を深いご摂理の中に出会わせておられる主。強くその事に気づかされます。私達も小さい者ながら小事に忠でイエス様にお仕えして行く時、主は最善をもって御守り下さり、必要に応じて豊かにお用い下さることを覚えます。祈りましょう。
(2)3人の相互の信頼関係、ナオミはルツを思い、ルツはナオミとボアズを思い、ボアズはルツとナオミを思う、自分の事ではなく他者の幸せを願う深い心が共通しており、その人柄と誠実さに深い感動を覚えます。
(3)本多牧師の願いは教会も同じような信頼関係で神の家族として繋がり、相互に励まし合い、祈り合う信徒となることを祈りつつ目指したいと語られておられました。
(4)安先生はボアズが第2番目の買戻しの権利者(レビ記25章25節:名を絶やさずにイスラエル国を存続させるための知恵)ですが、まず第1番の人を優先して律法の手順を無視せずにルールに則ってきちんと対応していることを学びましたと証されておられました。早まって自分勝手な行動をせず、祈りつつ主の御心を優先して、主の導きに従う信仰姿勢に深く教えていただけます。(ヤコブの様に兄を押しのける様なことはしないボアズの心に本多牧師は注意を促されておられました。)
(5)本多牧師は昔、お友達の結婚の時、その方は申し込みに相手方の実家のお父さん宅を訪れる時、お父さんはかなり怖い方だったようで、色々と悪知恵を働かせて上手に取り入ろうと策略を考えたそうですが、結果的に自分がクリスチャンであり、そういう事は良くないと反省して、素直に率直に結婚の申し込みをお願いに行かれたそうです。(さて結果は?)・・・私達も神様の御言葉を土台に生きて行きたいものですね。
(6)小澤・・恐らくルツは、もしナオミが不幸になるならこの結婚も進めることを拒むであろうと思われます。世の価値観ではなく誠実さ、真実さを大切にしている様子が強く見られて、ボアズに対する信頼と、ナオミの幸せの為にも役立つという強い思いがあったものと思われます。かくありたし。
・・・当時の土地所有権についてはインターネットでも調べましたが、ナオミが10年前に飢餓の為モアブへ旅立つとき、もしかすると土地を販売して代金を資金として旅立ったかも知れませんがヨベルの年(レビ記27章24節)がその間に入ると、その土地は自動的にナオミの手元に戻ります。ただ女手2人だけで土地を耕し収穫を得ることは困難でしょう。貧困に窮しているナオミが土地を、買戻しの権利のある人に売ることが出来ればと考えるのは自然です。また、もしモアブに旅立つときに土地を近隣の人に預けて旅立ったとすれば、帰国した後、ナオミがその土地を資産として売却しようとすることも自然であると思います。
 一方買戻しの権利のあるボアズとツルの間に生まれる第一子をマフロンの子孫としてナオミに委ねる事になるので(申命記25章5.6節)、第2子が生まれなければ自分の子孫は絶えることになるのでははいかと思われます。3人とも聖書に則って自分だけのことではなく、相手の方々のことを深く思い誠実に対応されている様子が強く伺えます。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師・・日曜学校の子どもたちが平日に来るようになっています。。前に来た子供達が教会内でいたずらをしないように注意をされたそうですが、今まではドアフォーンを押すときも何度もピンポンピンポンと忙しくわざと繰り返していましたが、今回はピンポンは一回だけで落ち着いて対応しており、さらに本多牧師が前回の注意を聴いてくれた時にありがとうと言う言葉に驚いて、その後は子供達からありがとうと言う言葉が返ってくる様になったという事です。驚きです。子供達が元気に教会で活動してくれることは大切な事であると同時に、ドイツ孤児院の創立者フランケさんが言われたそうですが、「子供たちを真の敬虔とキリスト教徒にふさわしい賢さへどのように教え導くがいいか」(「孤児たちの父フランケ」伊藤利男/著(鳥影社)より)という事をやはり教会は常に祈りつつ考えてゆく必要があると思います。中学生になっても教会教育の良さを理解して教会へ通える子供たちに成長してもらいたいとつくづく思います。祈り続けましょう。
(2)最近教会へ出席出来るようになったH兄弟の救の為、また受洗準備中のN兄が最近は忙しくて一日17時間くらい働かれているようです。同じ職場で働かれているS姉妹もお忙しい中にありますので、ご健康が守られる様にお祈りいたしました。
(3)安先生の韓国の支援者の方々や支援団体の祝福の為に祈りました。とても大切な祈りですので継続して祈り続けましょう。
(4)本多牧師は録画された礼拝メッセージをご自宅で何度もご覧になり、その都度礼拝の姿勢で学ぶことをされておられます。礼拝は神様のご臨在が溢れますのでつくづく大切にしたいものと思います。心掛けましょう。またこうしたビデオが、有効に兄弟姉妹方にも用いられるように祈りましょう。
(5)実結姉妹のイングランド留学が守られ祝福されますように。・・・前回礼拝後の留学感謝送別会写真はLineで各人に送付できたそうです。教会ホームページでも信徒専用ページ(信徒の広場)に掲載出来れば、今後の祈りの為にもお役に立つと思われますので、掲載を計画しております。
(6)新しい教会を支えることの出来る方々が、そして新しい求道者が次々と今後教会へ来ることが出来るように祈りました。牧師先生の夢と幻は大変具体的であり、こうした継続的な祈りが今後もとても大切であると思います。主の祝福はこうしたところから始まると思いますので、兄弟姉妹で共に祈り続けましょう。感謝申し上げます。
(聖書箇所は日本聖書刊行会発行新改訳聖書参照)    M.O.
 

10月20日
ルツ記4章1〜12節「主にまかせよ」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
讃美歌400番「主よ、み手もて」を賛美しました。キリスト様の恵み豊かな賛美です。
1.近況報告タイム
(1)本多牧師・・エレミヤ書38章より・・ゼデキヤ王は日和見主義の王であり、周りの人の話に左右されて意見をコロコロ変える王でした。当時エルサレムの首長達の非難を聞いてエレミヤを監視の庭にある穴に投げ込みました。・・色々な行動を私達が起こす時も、何を基準として対応するのかを反省される事件であります。キリスト様の御心を伺いながら行動できるかどうかが大切なであると教えられます。
(2)この後、王宮の宦官エベデ・メレク(この方は主に対する信仰のある方でした)は王に進言して、エレミヤを穴から救い出します。・・私達クリスチャンもエベデ・メレクさんの様に主に導かれている自分の立場、持ち場を良くわきまえて行動することが大切であることを語られておりました。(エステルさんの時もそうでした。彼女は自らの立場を理解して、成すべきことを主に祈りつつ行動をされております。)
(3)本多牧師は福島の実家に25・26日に帰省される時、ご兄弟達へのお証の為に20頁程の、救われて以降、今泉牧会時代までのご自身の歩まれてきた歴史と神様の恵みの数々をまとめておられます。ご兄弟方が救われることは牧師先生の切なる願いです。本多牧師は今何をすべきかを祈りつつ準備を進めておられます。皆さんも背後のお祈りをお願いいたします。
(4)小澤は最近本多牧師からお借りして読んでいる本「福音主義聖書論」山口勝政/著(ヨベル社)のお証をさせていただきました。著者は本多牧師のお友達の牧師です。福音主義に徹しておられ、本多牧師よりも更に堅物と本多牧師が言われおりました(?)・・・この本は福音主義の何たるかを要領良くまとめてくださった本で、人間理性の自立性に絶対的根拠を置いている自由主義者の考えに真っ向から異議を唱えて、本当の福音主義のあるべきキリスト様に根拠を置き、聖書から学ぶべき本来の形を見事に解説して下さっておられます。次の2点についてとりあえずまとめると以下の様になります。
@聖書霊感説について・・機械霊感説(モーゼ律法・ヨハネ黙示禄等主が直接命じられた通りに記録する方法)・有機的霊感説(神の言葉は複雑でニュアンスが異なり、多元的視点を持つため、預言者達の人格の有機的複雑さ、多様さをあえて主が用いて記録される方法)・十全霊感説(聖書の全てが神の言葉)・言語霊感説(福音書記者が書かれた手紙等は著者の思想だけでなく、神の言葉であることを意味する)・・主な福音主義派教会はこうした聖書解釈を取ります。
A聖書の無誤性・・聖書の無誤性と解釈学に関する2つのシカゴ声明(1978年と1982年に表明された多くの福音主義指導者達による共同声明)が付録として掲載されています。(これは上記霊感説等を詳細にまとめてある具体的声明文ですが、長い文章ではないので、全体的に一度は読んでおくと福音主義の立場がより正しく理解できますのでお勧めです。)
B20世紀の代表的福音主義神学者ヴァン・ティル牧師の聖書論の解釈が解説されています。とても優れた解釈の一つであり、神の啓示による「前提主義」という考え方を基本に打ち出します。・・この考え方は私のライフワークとして調査研究中の創造論の立場と非常に似た構造を持っており、新たに教えられることも多いです。優れた聖書解釈学の方法の一つであると思います。この本に出合えて本当に感謝です。皆さんも本多牧師からお借りして一度は読んでみたほうが信仰の在り方について大変良い参考となると思います。
C山口牧師の「閉塞感からの脱却(日本宣教神学)」を次に本多牧師からお借りする予定です。「キリスト教とは何か(ヨハネ書簡に徹して聴く)」も山口牧師のメッセージ集ですが、次回読んでみる予定です。
(5)安先生・・・今週の礼拝には日曜学校生徒が5名参加できました。雨の為お友達同士で話し合い、教会へ集合してくれたそうです。一人は遠方の為、バスで参加してくれました。特別に宣教をしていないのですが、主が祈りをお聞き下さりこうして豊かな奇跡を起こし続けて下さっておられることを感謝申し上げます。(日曜学校教師の方々は具体的に、生徒達の名前リストを作成し祈っておられます。尊いことであり大切なことであると思います。)・・日曜学校生徒達が教会に不思議に導かれることでご自身がとても励まされているそうです。
 昔小澤が祈祷会でお証したこともありますが、小澤が職場で危機的状況に遭遇した時に、自宅で日曜学校をしていたため、その子供達と触れ合う中で心が癒されていった経験を安先生が覚えておられて、ご自身も辛く苦しい思いがする時に、日曜学校の生徒達にとても励まされておられるそうです。つくづく神様の御業ですね。感謝申し上げます。
(6)本多牧師は今泉教会におられる時、教会員が少なかった中でおばあさん方と中学生達数名にとても励まされたことをお証して下さいました。中学生3人が卓球クラブの主将等をされていたそうですが、そのクラブ活動を止めて、教会の礼拝を守る事を決意して礼拝参加をされていたそうです。そして見事に救われてまいりました。麻溝台キリスト教会でも日曜学校生徒がこれから中学生になります。クラブ活動の問題もあり教会に繋がるのが一番難しい時期を迎えます。しかし、この時こそ子供から大人への大きな変化を遂げる時期ですから、色々な問題も生じますが、一番信仰をイエス様から頂くことのできる大切な年齢でもあるということをご指摘されておられました。真にその通りであり、日曜学校生徒の方々の為にぜひとも祈り続ける必要があると思います。皆さんで祈り続けましょう。
2.聖書学習タイム
(1)本多牧師・・「ちょうどその時」の意味として摂理の神の信仰。神様に偶然は無い、信じるものにイエス様は働き続けることの信仰、最善をなされることの信仰がボアズさんにあったと思われます。・・ボアズさんは買戻しの権利が2番手であり1番の親族からその権利を譲り受けることが出来るかどうかが問題であったのですが、町の門で待っていると「ちょうど」その人が通りかかり、見事に2番手のボアズさんが買戻しの権利を譲り受けることが出来ました。不思議な不思議な神様のご摂理がここにあります。私達クリスチャン一人一人も同じような「ちょうど」の経験を幾度となくイエス様から恵みとして頂いているのではないでしょうか。思い出しましょう。
(2)本多牧師も神学校時代に、食事テーブルを抽選で引いて決めるのですが、いつも順子先生とご一緒の席になり、深い神様のご摂理の中でご結婚へと進む事が出来ました。そのほか牧会伝道の中で数々の不思議を体験されました。が、麻溝台キリスト教会でも、日曜学校生徒を平日に受け入れることを始めた、その時ちょうど安先生が神様により派遣されてまいりました。これからの麻溝台キリスト教会も更に色々な神様のご摂理により「ちょうど」の出来事をイエス様がお導きくださることを本多牧師は期待して待っておられるという事であります。すごいですね。
(3)安先生・・韓国の教会で日本語部の宣教師として採用された時、複数の候補者がおられましたが、今までパン職人として菓子作りも出来るご自身の経歴が教会での信徒の交わりの食事会の働きにとても役に立つことが分かり、選考される条件として大いに役立ったそうです(正に神様の深いご摂理以外ではないでしょう)。・・正に安先生のご人生の丁度その時でした。
 イザヤ書40章〜41章「恐れるな・・あなたを守る」・・この守るという意味は韓国の聖書では「あなたを手に握っている」という訳文だそうです。自分がイエス様を握っていると思いがちですが、それよりも更に強い力でイエス様がしっかりと私を握っていて下さるという意味だそうです。深いですね。有難いですね。
(4)小澤・・昔家族で県営住宅に住んでいた頃、プラントハンガー(吊り下げ鉢)にカズラの様なつる植物が綺麗に育ち喜んでいたのですが、丁度その時、庭先を通りかかった親子連れのお母さんが、様子に気づいて一つ分けてくれませんかと言ってこられました。私はクリスチャンの成り立ての頃でしたので、せっかく見事に育った植物なのでだめですと断ってしまいました。次の日にその植物を見ると何と全てが腐り枯れ果てていました。自分の力ではなく、主の恵みにより一日で育った「とうごま」が枯れたのを惜しみ主に不平を言うヨナを思い出します(ヨナ書4章)が、正に自分の事しか考えない親切心の無い自分の姿が明確に示されて、徹底的に悔い改めへと導かれた時です。その後日談もありますが、何年も経て、やがて今の家に引っ越して来た時、土手に美しい花が咲いていたのを見て、ある姉妹が庭に立ち寄り、あの花を摘んでもよいでしょうかと声を掛けて来られました。当時は家で日曜学校を開いておりましたので、看板を見てその姉妹はあなたは牧師先生ですかと問われてきました。私はとんでもない、そのような大それた者ではありません。ただのクリスチャンですとお答えしたのですが、なんとその方もクリスチャン人生を送られておられた姉妹でした。その後相互に交流が深まり励まし合って生きて来る事が出来ました。妻の葬儀の時には妻の思い出を発表して下さった姉妹です。とても感謝しております。神の御心に叶った生き方に少しでも努力されている方には、このように主は御心を恵み深いご摂理で導かれます。主に栄光。
3.祈祷タイム
(1)北海道三番通教会の中川牧師が再婚された奥様が癌で召されました。最初の奥様も同じ病気で召されたそうです。苦しみ悲しみの中にあられる牧師先生の為に祈りましょう。
(2)実結ちゃんのスコットランド留学先近くに元OMF宣教師のティラー先生がおられるので、その方の元で実結ちゃんが良き信仰成長が成されますように。また姉妹のご家庭の経済は子供達の成長に伴い、一番大変な時期を迎え始めておられるので、これからも豊かに守られますように。
(3)本多牧師も安先生も具体的に信徒の方々一人一人の名を上げて祈る事を多くされます。祈りが具体的であることはとてもイエス様のお喜びになられることとも思います。小澤も今後家で祈る時等も、信徒の方々のご家族の名前でご存知の方々もおられるので、具合的に名を上げて祈ってゆくことが良いことに気づかせていただきました。今後はそのように祈らせていただきたいと思いました。感謝です。
(4)本多牧師の帰省期間に、イエス様のお証がご兄弟方へ良き伝道の機会と成りますように。神様の栄光が現わされますように。
(5)安先生が素晴らしい愛と祈りの牧師として今後も豊かに、活躍できますように。新しい牧会地がイエス様の深い御愛の導きにより最善の地へと導かれますように。
(6)信徒の方々の祝福の為にひたすら祈りました。   M.O.
 
10月27日 ルカの福音書10章37節「あなたも行って同じようにしなさい。」

 本多牧師が福島から帰宅途中であるため欠席され、安先生と2人での祈りを中心としたZOOM祈祷会となりました。
讃美歌418番「いつも私を支え」を2回繰り返し賛美させて頂きました。イエス様がいかなる時も、私達クリスチャンと共におられ励まし続け、お支え続けて下さることを感謝申し上げました。
1.安先生・・標題の通りの箇所「あなたも行って同じようにしなさい。」から、律法に詳しく、聖書に詳しくても、もし行って同じようにしないなら何になりましょう。「愛は名詞だけではなく、動詞であり、行う事がとても大切である」という事を深く学ばれたそうです。これは弟子訓練でも同じ事の学びがあるそうです。
2.安先生は3月いっぱいで麻溝台キリスト教会から離れる予定ですが、現在まだ韓国の派遣団体からは宣教先は示されておらず、しばらく休憩をとってから宣教活動へ進まれる予定です。その間、韓国へお戻りになるか、日本に滞在するかは未定であり、やがて少しづつ主の導きが明確になってくると思われます。
 ご自身の希望は、昔は東北の無牧教会へ派遣されることを望まれていましたが、今は地域にこだわりはお持ちではないという事です。ただ神様の導きにより無牧教会へ進めればと願っておられます。
 日本の教会は開拓時代と同じですから困難も多くあると思われますが、神様が安先生を必要とされている方々の元に必ずお導きくださると思いますので、神様の豊かな導きを信じて、ひたすら夢と幻をイエス様から頂いて祈り続けましょう。
 日本へのビザはソヘヨン先生ともども来年6月までは有効期間があるそうです。アンジュちゃんは2023年まで大丈夫です。・・日本に住んでいる人はビザの更新が比較的楽のようですが、韓国から新たに日本のビザを取ることは難しい状況が現在コロナ禍の為にありますが、イエス様は最善をお導き下さるはずですので、祈り続けてまいりましょう。
3.また、安先生は人を愛しておられる神は、私達が思っている以上に遥かに大きい神様です。私(小澤)が娘達の将来を心配する以上に遥かに多くの配慮と助けを小澤ファミリーにお与えくださり、導いて下さる主ですから、主に信頼して行きましょうと励まして下さいました。とても感謝であります。
4.小澤・・最近我家ではトイレにカレンダーを飾っておりますが、御言葉が書かれているカレンダーが良いと思い、いのちのことば社で購入するようにしております。ただし、紙製の物は4枚1組でないと販売できないという事で、同じような値段で布製の美しいカレンダーがあったので、我家で唯一の贅沢をお許しいただき今年も購入しました。この時、いのちのことば社からいくつかのパンフレットが送られてきたのですが、その中の2つに目が留まり、とても感動させていただきました。
(1)1つ目は「小さないのちのドア」永原郁子/著の紹介ページです。思いがけない妊娠、困難な育児で追い詰められた女性達を24時間体制で支援する施設を開設された方です。平成15年から30年までの16年間で156人の0歳児が虐待死しています。この状況に深く心を痛めて、活動を開始されておれる助産婦さんです。驚きました。・・ニュースでも捨て子の問題もありますが虐待死の問題は最近でも耳にしてとても悲しい思いが致しましたし祈りましたが、こうして日本のクリスチャンでこのために活動を開始してくださった方がおられることを知り、つくづく主は生きておられると励まされました。
(2)2つ目はワールドビジョンの創設者であったボブ・ピアス宣教師の祈りの言葉です。・・「神の心を引き裂くものによって、私の心を引き裂いてください」の祈りです。これは中国で孤児院へも入れずその前でお腹を空かせてぼろぼろの服を着てしゃがみ込む女の子と出会った時に祈られた祈りだそうです。「私は全ての人々に何もかもはできませんが、誰かに、何かをしてあげる事は出来ます。・・・私が出来ることを示してください。」だそうです。ウームつくづく神様のお心ですね。深く深く学ばされます。
(3)今日安先生が御言葉をお示しくださったように、正に「あなたも行って同じようにしなさい。」が心に響きます。祈りつつ、ひたすら出来ることは何かを探しつつ為し続けさせて頂きましょう。深い神様の御心です。
4.祈りタイム
(1)安先生と2人で手分けして祈らせていただきました。祈りは必ず聞かれますので祈祷会で共に祈れる時間が与えられていることが、どれほど貴重であるかをつくづく思わされて感謝いたします。
(2)実結姉妹のグラスゴー留学が順調に進みます様にお祈りいたしました。全て神様のお導きがあると思いますので感謝致します。
(3)安先生の将来の宣教師派遣先について、いつもの様に心を込めて祈らせていただきました。必ずや主の栄光ある御業が成されることを信じて感謝いたします。
(4)本多牧師のご健康が守られ、昔の北海道宣教師バチュラー牧師の様に92歳までも楽しく牧会が出来ますようにお祈りさせていただきました。
(5)日曜学校生徒の方々の為
(6)安先生は小澤家の娘達の為にいつも心を込めてお祈りくださいます。励まされます。感謝いたします。
(7)信徒のご家族の方々の為の救いをお祈りいたしました。
(8)教会の各種ご奉仕の為にも、若い人材が次々と麻溝台キリスト教会へ導かれます様に。奇跡をなされる主に期待いたします。祈り続けましょう。
M.O.
(聖書引用は新改訳聖書c日本聖書刊行会)
(追伸)実結姉妹のスコットランド留学による教会での送別会集合写真を本多牧師がお送りくださいましたので、教会員専用ホームページの「信徒の広場」コーナーへ掲載しました。今後も実結姉妹が守られ祝福されるようにお祈りいたしましょう。
 
11月  
「まな」10月号巻頭言

神の栄光のための、いい日旅たち 

Tコリント1031

 私自身は、通常はイエス様の誕生を起点としてADとBCに使い分けている西暦を使っているが、昭和の人間であることが最近、何かとしみじみと感じることがある。例えば、昭和の歌手に山口百恵さんがいたが、彼女が歌っていた当時はあまり好きではなかったので、ほとんど聞かなかった。しかし、最近、ユーチューブで様々な歌や音楽を聴いていると、昭和の歌シリーズみたいなものが出てくる。そこに山口百恵さんの「秋桜」や「いい日旅たち」などが流れてくる。「秋桜」は昭和の花嫁の歌で、しんみり来る。私に嫁いだ日の昔の家内を思い出してしまう。「いい日 旅たち」も、まさに昭和のメロディー、メロディーだけを聞いていると、やはりしんみりする。しかし、その歌は寂しい歌、悲しい歌でしかない。「日本のどこかで私を待っている人がいる」と不確実な希望をもって旅に出る若き女性の歌。昭和の歌は、どこか寂しい。

そこ行くと我らの姉妹の「いい日旅たち」は全く違う。先日、高杉実結姉が英国はグラスゴーへ、バレー留学を果たした。最後の日曜日の礼拝になった1010日の礼拝終了後、姉妹はなぜ留学するのかを証しして下さった。二週間前に、旅経つ前に「なぜ留学なのか」を書いて残し、また礼拝後、みんなの前でそれを証ししてほしいとお願いしていた。それが、出発の日が早まり、文章にできないまま、口頭で急遽、証ししてもらった。実結姉は、今に始まった事ではないが、バレーに取り組み姿勢がどこまでも明確だった。その日も語っていた。「神様の栄光のためにバレーを踊り、自分の演技を見て、神様を伝えたい。自分の演技を通して一人でも神を知り、神に出会ってくれるなら」と言っていた。思い出したのが、札幌オリンピックの時、フィギャー・スケートのジャネット・リンさんだ。彼女もクリスチャン。彼女はあのフィギャー・スケートでの演技はただ単にメダルを取ることが目的ではなかった。自分の演技を通して、神様の愛を現わすためだった。ところが、演技中、転んでしまった。その時、彼女はどうしたか、笑顔だった。失敗しても、神の愛が豊かに注がれ、失敗の中でも、笑顔と喜びでいられた。その姿が、一位、二位の人は忘れられても、彼女は忘れられない人になった。彼女のその姿に多くの人は感動し、大きな影響を与えた。彼女は、失敗の中でも神の愛は変わらないことを現わせたのです。

我が高杉実結姉は、神栄光を現わす器に育っていくために旅立ったのです。これから様々な困難があるでしょう。失敗も多くあるでしょう。しかし、そのことを承知の上で旅立った。神の栄光を現わす器になるためにです。祈りましょう。そういえば、あのバッハも「芸術はすべて神の栄光の為」と言って、彼の作曲するすべてを通して、神の存在、神の愛、神の救いのメッセージがそこにある。そして宗教改革者のジョン・カルバンも「全て神の栄光のため」というスルーガンを前面に出して、宗教改革に乗り出した。そして、彼は何を書くにしても、どの本にも「神の栄光のために」と書いている。彼の生涯を描いた本のタイトルも「全て神の栄光の為に」であった。実結姉も、この信仰の偉大な先輩たちに一つも劣ることのないビジョンをもって、英国に旅立った。まさに、『いい日旅たち』であった。昭和の、不確実な希望をもっての旅たちとは違う。

そんな大げさな、と言わないまでも、聖書は語っています。「飲むにも食べるに、何をするにも神の栄光を現わすためにしなさい」と。これは、平凡な、普通の私たちの生き方です。教会の生き方です。偉大な人達だけが「神の栄光の為に」ではないのです。聖書は、普通の私たちの生き方が、そうあるべきだと語っています。実結姉も、私達と同じ平凡なクリスチャンです。しかし、何のために生きるか、何のために学ぶかを知っている普通の、そして神のしもべです。実結姉は遠く英国の地で、そして、私たちはこの相模原の地で、普通に、そして強い志をもって、神の栄光の為に、今日も、明日も、生きるのです。そうです、「いい日旅たち」をするのです。祝福あれ、神の栄光の為に生きるすべてのクリスチャンに、教会に!

 
11月3日 ルツ記4章1〜12節「御心を確信して進む」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
1.近況報告タイム
(1)小澤・・ルツ記を読んでいて、ナオミ・ルツ・ボアズの関係から、日本の河井道・一色ゆり・フェラーズさんの事を思い出しました。河井さんは恵泉女学園創設者であり、一色ゆりさんは愛弟子で生涯河井さんを愛し仕え続けた方です。またフェラーズさんは一色ゆりさんが河井さんに進められてアメリカのクェーカーの学校で学んでいた時の一年後輩です。先輩が後輩の面倒を見る習わしがあったため、フェラーズさんはゆりさんと親しくなり、来日にして河井さんともお付き合いが始まった人です。日本が敗戦後マッカーサーさんの元で天皇の戦争責任を問題としていた時にマッカーサーさんの補助役だったフェラーズさんが河井さん等の意見を聞き、進言して戦争責任を逃れる事が出来たことは有名です。日本では天皇制が果たして良かったか悪かったかは別として戦後の混乱が抑えられたことは何か深い意味がある様にも思われます(本多牧師によれば天皇制が神道と深く結びついているため、この時点で天皇制を廃止出来る方が良かったとする牧師先生方のご意見もあるそうです)。
 私も色々考えさせられましたが、第2コリント13章11節「終わりに、兄弟たち。喜びなさい完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」の御言葉が目に留まりました。実は昭和天皇はこの時以降キリスト教に入信しようと考えたこともあった様なお話を読んだことがあります。マッカーサーさんにより止められたようです。詳しくは分かりませんが滝元明牧師が天皇と親しかったようで、天皇が亡くなられるときに教会の入り口にその姿が見えたので天皇が召されたことが分かったというお話も読んだことがあります。天皇制は日本がキリスト教国に成長した時には自ずから国民の判断により対応されてゆくであろうと思われます。日本の将来の為に祈りましょう。
(2)安先生・・ローマ人への手紙8章26節「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」からここでの弱さについては単なる弱点という意味ではなく、自分の努力によっては治らない弱点であり、祈っても解決されない弱い部分を意味するという事だそうです。病人の癒しなども私達人間の力を超えて御聖霊様ご自身の働きですが、この御言葉により安先生ご自身が少し心が自由にされたそうです。大切なことですね。
(3)本多牧師・・エレミヤ42章・・エルサレムに残った少数のユダヤ人達はエレミヤから神の言葉を聞いてその通りに行うと約束したにもかかわらず、エレミヤがエルサレムに残れとの主の言葉を告げると、意を翻してエレミヤは神の言葉を語っていないとしてエジプトへ逃避するという記事です。私達も一人一人自分の歩んでいる道を点検する必要が常にある事を語られておられました。
(4)先日、今泉教会時代の信徒さんのお葬儀があり、参加されたそうです。このご夫妻は順子先生が導かれたご夫妻であったとのことですが、本多牧師が今泉教会を去られた時、別の教会へ移られたそうです。夫の方がすでに召されておられますが、奥様が現在献身して副牧師をされているそうです。人間の目では何がどのように進むかが分かりません。神様の深いご摂理を覚えますね。主は万事相働きて益としてくださいます。
(5)今週のメッセージではサラン教会で起きた差別の問題を語られましたが、日本でもある信徒の方は10年間通っていた、教会の牧師交代により、自分が中卒の資格しかないために、差別されてしまい、会話等も無視されるようになり、教会を去り点々とするようになられた方もおられたそうです。実に人生様々であり、牧師先生の責任の重要性さも考えさせられますね。祈りつつイエス様の導きを求めつつ、感謝しつつ歩むことを忘れないようにいたしましょう。何が大切で何がそうでないかを祈りつつイエス様に学びつつ歩みたいですね。
2.聖書学習タイム
(1)ボアズは第一の買戻しの権利のある親戚が、私が買い戻すと語った時に、きっともうだめだという辛い思いがあったかと思いますが、そうした体験(神様が道を閉ざさたと思われた瞬間)が皆さんにもあるのではないでしょうかと話されました。
(2)安先生は結婚前にへヨン先生を慕い、当時へヨン先生が通われていた神戸の改革派神学校へご自身も入りたいと願い、学長と面談しましたが、断られてしまいへヨン先生ともお会い出来ない状態になってしまいました。この時、実は不思議に足の力が失われ動けなく成っていた時であり、かつ当時大阪の教会へ宿らせていただいており,そこで「うどん・そば屋」へ行っていた時、連続3回も停電が起きたりして、何か今回のこの方法は違うのではないかという思いがしていたという事でした。神様の御業に時があり、方法があるという事でありましょう。不思議な導きをご経験されており驚きました。安先生はこうしてイエス様に育まれておられたのですね。
(3)小澤は学校を卒業後将来はパイロットに成りたいという夢があり、自衛隊の試験を受けて、海軍航空隊へ入隊出来るように成りました。しかしこの時、父はご自身が軍隊生活を深く経験している為反対しました。そこで地方公務員を職業とするようになったのですが、このことも不思議な導きで、当時生け花を教えていた母の元に通っていた妻との出会いがあり、妻の導きがあり教会へ通うようになりキリスト様の御救いを受けることが出来ました。(空を飛ぶことは天の御国で必要ならいくらでもイエス様がさせて下さることでしょう。それよりも永遠の真理の神イエス様に出会えたことこそが人生を大転換させて下さいました。とても感謝であります。)
(4)本多牧師・・献身の為に神学校へ進む時、2つの選択肢がありました。一つは田舎の神学校で学費が安いのです。もう一つは都会の為に高額な学費となります。この時に牧師の心には「都に留まりなさい」と言われた主の御言葉が響き、東京の神学校を選択します。田舎の神学校校長へお詫びの報告に行くと、なんと「おめでとう」という言葉が返ってきました。それはその年で実はその田舎の神学校は廃校となることを決めていたからでした。不思議な神様の御計画があるものですね。(一年後には再びその田舎の神学校は再開されたそうです。)
(5)札幌南教会では牧師は弟子訓練の必要を理解して(当時は他の教会牧師も弟子訓練には反対者が多かったそうですが)その方法を取り入れる様に勧めることを教会員にお話ししたところ、有力な信徒の方々から大反対があり、後で分かったことですが、牧師の留守にその信徒の方々が相談して、総会を開きこの件の賛否を取るという事になりました.当時牧師先生にはヨハネ黙示禄3章8節「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門をあなたの前に開いておいた。」の御言葉が与えられており、何の動揺も無かったそうです。そして総会へ提出された弟子訓令はしないという決議は見事否決されたそうです。主の御技です。その信徒の方々はその後教会を去られたそうです。
(6)別のお証もありました。昔教会の役員もされておられた姉妹でその後教会に躓いき、本多牧師もお電話されたそうですが、聞く耳持たずで、どうにもならなかったそうですが、あるご自身のデボーションの時、突然箴言21章1節「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」の御言葉が心に響き、その信徒の方必ず帰って来るという確信が与えられたそうです。するとその日の午後電話があり「帰ります」というお話でした。・・神の御業は見事なものですね。感謝申し上げます。
(7)最後に牧師先生は、ボアズの家系にはタマルとユダの名が出てきます。これは罪人の家系こそにイエスキリスト様がお生まれになられたこと、「買戻しの権利を持つ者」(ゴーエール)の家系であられることの系図的証明であり、もしそうでなければ誰一人この世界で救われる人はいなかった事でしょう。というお話でありました。真に深い主の御計画以外の何ものでもありません。
3.祈祷タイム
(1)最近小田急線での死亡事故が4回くらいあったようです。近辺でもこうしておそらく自殺者が多数あられることはつくづく心を痛めます。こうした苦しい思いをされている方が一人でも多く教会へ来られてイエス様の救いを受けられます様に祈りました。
(2)ヨランダ姉妹とへヨン先生が12月5日に日本語検定試験を受けられますので祈りました。
(3)車椅子のO兄弟の癒しと、ご健康を祈りました。
(4)日曜学校のお母さんが、礼拝の雨の中、子供達を迎えに来られて外で待っておられましたが、お声を掛けると教会学校の部屋を見ていかれました。不思議な神様の導きがあると思われますので、是非日曜学校の生徒の方々のご家族の救いの為にも続けてお祈りください。
(5)ホームぺージに準備が整い次第、本多牧師の礼拝メッセージのビデオを継続的に掲載することとなりました。このことは本多牧師が実家にお戻りになられた時に、甥っ子さん(60歳代)から本多牧師のメッセージをお聞きしたいというお話が2度あり、更に以前にも同じような要望があったという事であり、メッセージビデオのホームぺージ掲載をご決心されたそうです。・・内容的には岡田兄と美佐田兄がビデオ編集を行い、小澤が一般の方向けのホームぺージに転載することとなる予定ですが、一人でも多くの方がメッセージより励まされ、恵まれて救いに導かれます様にお祈りいたしました。新しい活動ですので皆様のお祈りをよろしくお願いいたします。(神様が一つ一つ新しい御業を成し続けて下さっておられることを思います。祈り続けましょう。)     M.O.
(聖書引用は新改訳聖書c日本聖書刊行会)
 
11月10日 ルツ記4章13〜22節「系図の継承者・・将来の希望」

 3名参加のZOOM祈祷会でした。
讃美歌376番「祈れ、み父のみ顔見上げて」で始まりました。ただし福音讃美歌の歌詞は昔のものと異なるため、牧師も私達も躓きながらの賛美となりました。(笑)
1近況報告タイム
(1)本多牧師より、西山兄の手の骨折は入院すると3カ月という事でしたが、お仕事を休むことが困難のため、注意しながら働かれておられるという事であり、祈りの要請がありました。
(2)玄関車椅子通路登坂の鉄の手すりに、以前は布が巻いてあったのですが、いつの間にか見当たらなくなりました。これは車椅子を利用する方が利用するために設置してあったものだそうです。どこへ行ったか分かる方があればお知らせ下さいという事でした。
(3)今まで祈っていたT兄弟が最近下溝へ引っ越してくることが出来ました。所在地は小澤が徒歩で教会へ通う道の傍であることが分かり感謝します。3か月くらいは役所等の手続きが忙しく、教会へは来れないですが、また礼拝や祈祷会へ参賀できますよう祈りましょう。兄弟には乗り越えなければならない課題もあります。救いと共にそうした課題を乗り越えることが出来ます様に祈りましょう。
2.聖書学習タイム
(1)ルツ記4章13節「主は彼女をみごもらせたので」と書かれており、聖書の中で直接主の御業としてみごもらせるという表現は少ないので、主の深いお取り扱いが分かります。
(2)詩篇139編15〜16節「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」とあります。・・本多牧師は胎児教育関係の本のお話をして下さり、赤ちゃんが生まれる前に、生まれて欲しくないという様な話をしていた母親から生まれた赤ちゃんはミルクを飲まなかったそうです。また赤ちゃんの誕生を願っていた母から生まれた子はすくすくと育ちます。このことは胎児のときから既に子供の意識に深い影響が与えられいることを示していると思われますが、ましてや真実は生まれてくる前から主のご計画が詩篇に書かれております通りですから、猶更赤ちゃんがどれ程大切であるかが分かると思います。中絶や児童虐待が頻繁に見られる時代になっております。祈りましょうというお話でした。(参照:詩篇127編3節「見よ、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」)
(3)小澤はこの詩篇個所から、実は九鬼周造/著の「偶然性の問題」を思い出しました。普通の人は自分がなぜ日本人でこの親から生まれて来たのかさっぱり分かりません。アメリカ人であっても良いし、別の親でもよいだろうとと疑問をいだきます。これらは人生に対する疑問の筆頭にまず出てくる問題ではないかと思います。しかし聖書は明確に各信徒一人一人の生まれてくる必然性とその系図の意味を語ります。私達一人一人に、神の選びと導きがあることを教えてくれる聖書はとてつもない重大な書であるわけです。私達はどこから来てどこへ行くのか、深い深い聖書の真理の世界に注目させていただきましょう。イエス様に感謝申し上げます。
(4)ルツとナオミはオベデの誕生により豊かな主の祝福を受けました。私達はどうでしょうかというお話があり、安先生はアンジュちゃんのお誕生をお証されました。
(5)小澤は神様から受けた最大の祝福は、キリスト様との出会いであり、「内住のキリスト様」の心であるとお答えしました。ヨハネ福音書4章1〜42節救われたサマリヤの女の記事は有名ですが・・23〜24節「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とあります。
・・ここで話は飛びますが、インターネットで聖書検索をすると個人プログの様なものでキリスト様をかなり自分勝手に解釈を施しているものが意外と多いことに気づかされました。祈りが必要です。一般の社会では聖書を福音主義教会でしっかり正しく学ばないと、色々な危険があることに改めて気づかされました。私は過去の経験からこの地上では霊的な戦いがあることを直接学んでまいりましたが、再度深くイエス様の豊かなお守りをいただきながらこの世の霊的闘いにも勝利して行かなければならないことを深く考えさせられました。全天全地をお創り下さった主は今も生きておられて私達クリスチャンの歩みの一つ一つを深く見守り続け、導き続けておられることが聖書の随所に書かれております。何と素晴らしい感謝なことでしょうか。
 創世記ではヤコブさんが石の枕で寝ている時に現れた主により尊い約束が与えれえております。・・創世記28章14〜15節「あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」・・私達クリスチャンにはこのように確かなイエス様からの計り知れない強い見守りのお約束が与えらえております。聖書全体からいつも謙遜にイエス様の真理の姿、その深い御愛の十字架を見上げつつ歩ませていただきましょう。イエス様が教えて下さり、敬愛する信徒の方々にお与え下さっておられる尊い命の小道を各人がしっかりと真っ直ぐに歩んで行く事が出来ます様に。また、この為にも教会がいかに大切な活動をイエス様から委託されておられるかも深く教えられます。イエス様が教会を設立された事は計り知れない深いご摂理の中にあります。このコロナ禍の中でも、教会を愛し信徒の方々が教会を離れることなく教会の祝福を受け続けることが出来ます様に常に祈りましょう。私達信徒一人一人がイエス様に強く守られ祝福を受けられる様に祈りましょう。求道者の方々が真実の神キリスト様に出会えるように祈りましょう。
(5)本多牧師は与えれた恵みについて、先日実家のご兄弟達の所でお聞きになられたお話をお証して下さいました。本多牧師が高校へ入学する時に月額学費が1万6千円必要だったそうです。当時の本多家は家計が困窮しており、ご両親がお支払い出来ない中で、働き始めておられたお兄様が何とその学費を出して下さっておられたそうです。当時のお兄様の月給は1万円です。どうしますか。見事3年間を乗り越えられました。先日お兄様から初めてお聞き成されたお話だそうです。神様の深いご摂理の中で、こうして素晴らしい御家族を本多牧師にお導き下さっておられたことが分かります。お兄様が救いに導かれます様にお祈りいたします。
(6)ルツ記ではオベデの名が現れます。この名は何とご近所の奥様方が名付けられた名であります。またこの名の意味は「仕えるもの」、「僕、あるいは奴隷」を意味します。この事は本多牧師はルツがいかにナオミを愛し、最後の最後までナオミから離れず愛し仕え続けておられたかを、ご近所の奥様方が深く知られていたことを示していることをご指摘下さいました。私達もそのように少しでも近く生きて行きたいとつくづく思わされますね。感謝です。
3.祈祷タイム
(1)本多牧師は仕える者という意味で、ご自身が神様にも教会員の方々にも本当に仕えているとは到底言い難いと御自身を謙遜にお話されておられました。私なども神と人々に仕える信徒に少しでも近く生きたいものと思います。本多牧師が高齢で頑張って下さっておられます。牧師の祝福を祈り続けましょう。
(2)また、御自身の血統による系図のご家族だけでなく、日曜学校の子供達が次世代のイエス様の信仰と希望と愛の重要な継承者であることをお話下さり、熱心に祈りましょうという事でした。
(3)西山兄や田中姉妹の夫、その他病のある方々の癒しの為に祈りました。
(4)クリスマスが近づいて参りました。準備を始める時期になりましたので、このための祝福を祈ってまいりましょう。安先生がメッセージをして下さいます。
(5)安先生が神様の深いご摂理の中で新しい牧会地として、最善の教会へ派遣されます様に。
(6)私は礼拝後にご聖霊様が導かれれば常に、敬愛する兄弟姉妹と祈り合い、励まし合うように心がけておりますが、先日は複数の共に祈りたい兄弟姉妹が礼拝参加されました。この事を思った時、いつか3〜4人くらいで都合のつく兄弟姉妹同士で声を掛け合い、小さな祈りのグループがたとえ5分でも10分でも良いので共に祈り合えたら良いなと、何か深く教えれた様に思いました。以前に1階集会室で数人でも良いので礼拝後に集まり10分でも良いので小グループ会が出来ればという本多牧師のお話を思い出しました。主の導きがあれば、皆で協力して出来るところから対応出来ればと祈らせていただきました。主の御手にお委ね致します。(主は見ておられます。)   M.O.
(聖書箇所引用は新改訳聖書c日本聖書刊行会)
 
上記日付以降の最新祈祷会報告書は、読者の便宜のため表の最上部に今後記載することといたしましたので、ご承知おき下さい。