歴 史
私たちの教会は、世田谷区にあります朝顔キリスト教会の援助の下、1973年7月1日に南台キリスト教会として、国立相模原病院の前にある南台薬局の二階での集会からスタート致しました。その後、5年ほどした1978年に、広い広場を有している麻溝台自治会館の隣に移って参りました。この移転に伴って、麻溝台キリスト教会と名称を変更いたしました。
現在の教会堂は何度かの増改築を経ていますが、2019年に、高齢者の方々や車いすを利用されている方々とも一緒に礼拝する教会として、エレベーターも設置し、トイレなども新たにいたしました。それは、どんな人とも、一緒に神を礼拝し、そして互いに愛し、互いに愛される、そんな教会を目指す私達の願いからでもあります。私たちの教会は、現在、決して大人数の教会ではありませんが、聖書の語る真の教会を目指しています。一人ひとりが神に愛されている事をしっかりと受け止めながら、神を愛し、互いを愛し、また私たちの知らない方々を愛する教会となりたいと思っています。
そのために、礼拝を重んじるとともに、聖書を学ぶことを大事にしています。皆さん、ご存知の通り、聖書は世界のベスト・セラーです。なぜ、そのように世界中で読まれるかと言いますと、聖書は、永遠の真理、神の言葉だからです。この神の言葉である聖書を読み、聞き、学び、そしてそれを日常生活の中で実践することを目指しています。あのアブラハム・リンカーンが「聖書は神が人類に与えて下さった最大の賜物である」と言いましたが、私たちも同じ思いでいます。その聖書の中から、イエス・キリストというお方をぜひ、皆さんにも知って頂きたいと思っています。私達の罪の身代りに、十字架に架って死なれ、三日目に死からよみがえられて、今も生きておられ、私たちを救い、助け、導いて下さるこのお方をぜひ知って頂きたいと思っています。この機会に、ぜひ、一度、教会に来ていただければ幸いです。私達のホーム・ページを開いて下さって感謝します。神の祝福を祈っています。
牧師の独り言コーナー
このコーナーはその都度、牧師に与えられた御言葉の解説を掲載いたします。
主の導きにより時々文章の更新が計画されております。
麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (1月号)
hi‐b.a. 代表の言葉 「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」
(Tコリント3章6節)
この原稿を書いている朝、書棚から、可愛い、制服を着た女子高校生の絵が描かれた本を手に取った。以前、読んでみようと思って、アマゾンで取り寄せていた本ですが、そのままになってしまっていた。「へ、こんな本を買っていたんだ!」と思いつつ、ぱらぱらとめくってみた。その中で、目に留まったのが「集めるより、育てることを」という文字が目に入った。共感しつつ、その意外性に驚いた。今、中学生や高校生等、教会は必至で集めることに必死なのに、今いる中高生を育てることに、教会の関心を向けて欲しい旨、著者は書いている。この本の著者は、日本の高校生伝道で中心的な働きをしている高校生聖書伝道協会の代表スタッフの川口竜太郎氏だ。中高生を集め、救いに導くことにどの教会も必死なのに、そのことに多くの時間と労力を注いで来た通称「hi‐b.a.」の代表が言うのだから、その言葉に真なるものがあるのだろう、と思った。
麻溝台教会において、『育てる』ことをテーマに、弟子訓練に取り組んできた。その中に、当時の小学6年生や大学2年生もいた。そして時間の経つのも早く3年近くにもなり、大学卒業の時となり、高校生になる時期をまじかに迎える時にまでなった。あっという間のように感じるこの時間、あわてず、あせらず、じっくりと、共に、主のみ言葉に向き合って来た。そして、成長させて下さった神を褒めたたえずにはいられない昨今です。人数は増やせはしなかったが、川口代表が言う「育てる事」の恵みを、主に感謝してもしきれない。
私自身を振り返る時、神が与えてくださった賜物の中に、人を集める能力はどうもなさそうに感じる。もっとあればと思うことは確かにある。以前の教会の後任牧師先生の働きを遠くから眺める時、育てる能力と共に、人を集める賜物の豊かにある事に驚く。このために祈らないわけではない。しかし、神が集めて下さる時を信じつつも、自分に与えられている集める賜物は小さいように、今も思う。教会の皆さんには、大変、申し訳ないと思うが、これが現実です。しかし、主に感謝し、主を褒めたたえる事は、こんな小さな者にも、人を育てる喜びを与えてくださっている事です。何という恵みでしょうか。取るに足りなき者に、神は素晴らしい賜物を与えて下さったのです。賜物の大きさ、小ささに関係なく、人を育てる務めに預からせてくださっている事実に、感謝するのです。
主は、人を救い、そして、育てられたお方です。特に、12人という少数の弟子たちを、3年少々をかけて、使徒として働ける主の弟子を育てられました。主は、この12人の弟子を育てることに労力と時間を注がれました。一人は脱落しましたが、後にマッティアとパウロも加えられましたが、少数の少数、11名の弟子達を通して、世界に福音を広げ、主の教会を建て上げ、全人類に救い主を示し、聖書を世界に、そして歴史の中に高く掲げました。主が育てられたのです。パウロもまた、福音を広げると共に、後継者を育てることに力と愛を注ぎました。シラスやテモテ、マルコ等、主の弟子造りにその愛と力を注ぎました。愛する皆さん、祈って下さい。この教会を背負っていく人、また広くキリスト教会で用いられる主の器を、一人でも多く育てることに、これからも奥田先生と共に、用いられたいと願っています。与えられた賜物を、主と、この教会と、広く主の教会の為に、残りの人生、用いられたらと思っています。支えて下さる皆さんの愛と共に、お祈りください。 「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」 (箴言19章21節) |
麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (12月号)
クリスマス・メッセージは喜び 「見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます」
(ルカ2:10)
12月はクリスマス。今、巷では昔ほど、クリスマス賑わいはないように感じます。良いのか、悪いのか、分かりませんが、クリスマス以外にも、楽しみの数が増えてきたように感じます。それで、クリスマスへの関心の薄れてきたのかもしれません。もしかしたら、クリスチャンの中にも、クリスマスへの関心が薄れてきたということがないでしょうか。昔は、クリスマス・キャロリングもあって、一晩中楽しかった、という記憶もある方々も多いでしょう。そんな中、今年のクリスマス・メッセージを『喜びのメッセージ』と題した。どうして、この題にしたかというと、教会員の方々の喜んでいる姿が、あまりにも普通だったからです。クリスチャン、そうキリストの救いは喜びなんだ、と、極めて普通に、皆さんを見て思ったのです。クリスマスだからというわけではありません。
そこで、選んだ箇所があのベツレヘムの羊飼いに現れたみ使いのメッセージ、『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます』のメッセージです。このみ使いのことばを改めて読んで、『そうなんだ、クリスマスは、喜びの時なんだ!喜ぶべき時なんだ!』と、自らに言い聞かせました。しかし、実際、いつものように、説教準備をしている段階で、気づいたことがあります。それは、いろいろな方々の、様々な注解書、または説教集などを読むと、意外にもこの喜びに関する説教がないのです。み使いに関して言えば、マリアやヨセフに対するみ使いの御告げに対する説教や、羊飼い達に対しても、『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が、御心にかなう人びとにあるように』という、この有名なみ使いのメッセージに関しては、多くの方々が注解し、説教しているんですが、少なくても私の手元にあるものを見る限り、喜びのメッセージについてはほぼない。そこで、自分なりの思索、黙想が始まりました。
『喜びがなければキリスト教ではない!』 このショッキングな名言を放ったのは、牧師仲間では誰でも知っているロイド・ジョンズという英国の牧師です。『旧約聖書から福音を語る』という彼の著書の、最後の章の締めくくりで語っています。彼が言いたいのは何か、キリストの福音とは何か、喜びなんだ、ということです。喜びがなければ、喜びがなかったら、それはキリストの福音ではない、と言いたいのです。そして、その本の、本当の最後の最後で、こういうんです。『イエス・キリスト見上げなさい。キリストがして下さった御業を思いなさい。そうして、賛美と喜びに満ちた人生を始めようではないか』と。
もう一人、紹介します。『ナルニヤ国の物語』などで有名なC・S・ルイスも、こう言いました。『喜びは、天国の重要な務めだ!』と。皆さん、天国に行ったら何をしますか。やることいっぱいあるかもしれません。しかし、C・S・ルイスに言わせれば、天国での重要な務めは、喜ぶことだ、というのです。天国は喜びに満ち溢れた所です。悲しまないんです。嘆かないんです。喜ぶんです。それがイエス様にいる天国の姿なんです。
イエス様は、何の為にこの世に生まれましたか。喜びを与える為です。苦難や悲しみに満ちるようなこの地上の歩みの中で、喜びに満ちて生きる者とするために、主はお生まれ下さったのです。『私の兄弟達よ。主にあって喜びなさい(ピリピ3:1)』と聖書は言います |
麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (11月号) 「彼の顔の肌が輝きを放っていた」
(出エジプト34:30)
「神の恵みは何と豊かで大きいのでしょうか!」 そんな思いに満たされた夜のことを少し証しします。麻溝台教会に導かれてきて、主に導かれるまま,自然な形で弟子訓練が導入されてきました。札幌の教会においては、5年くらい、弟子訓練についての説明の時間を持ちながら、教会に弟子訓練を導入しました、この麻溝台教会では一度も公的な説明をしないまま、始まっていきました。何と不思議な主の導きでしょう。それが今、自然な形で、弟子訓練教会として歩んでいます。心から、この主の導きに感謝しています。そして教会全体が、この弟子訓練を重んじ,共にその道を歩むことを喜んでいて下さることにも感謝しています。そして、私の目から見れば、ある意味で、麻溝台教会の全員が弟子訓練受講者のように見えます。これは真に感謝なことです。
そんな中、現在も、多くの方々が実際に弟子訓練を受講し、その恵みを頂いているその姿を見て心から主に感謝し、また感動しています。先日のことです。弟子訓練が終わったその瞬間から、とても表現が難しいのですが、神の恵みに満たされ、受講者一人一人から流れてくるキリストの美しさで、心が満ち溢れ、その恵みに感謝せざるを得ませんでした。布団に入るやいなや再びその恵みに満たされ、感謝と共に、更なる方々に、この弟子訓練をもって、仕えさせて頂きたい旨の祈りを、布団の中で捧げさせて戴きました。
とにかく、美しいのです。受講者の方々中から溢れ流れ、私に伝わり、私を包むその恵みが、とにかく美しいのです。『私達は・・・キリストの芳ばしい香なのです(Uコリント2:15)』というみ言葉がありますが、まさにキリストの香ばしい香り、キリストの美しさが、受講者の方々から見えない形で私に注がれてくるのです。その美しさは、天然の美しさとは違うのです。ましてや人工の美しさとも全く違うのです。キリストにある美しさなのです。心満たし、豊かに、神に感謝と賛美を捧げたくなる美しさなのです。モーセが主の山に登り、主と交わった後、『彼の顔の肌が輝きを放っていた(出エジプト34:30)』とありますが、まさにそのような美しさなのです。でも、モーセ本人は、それに全く気付かないのです・・・それでいいのです、そうです、それでいいのです。ただ主の恵み感謝すればいいのです・・・・。
この恵みは、どこから来るでしょうか。主イエス様です、み言葉です。そして聖霊様です。そして、更に父のなる神の計り知れない愛からです。そうです、三位一体の神の愛と恵みが、罪びとである者に過ぎない私達を、キリストの似姿に変えて下さるその愛と恵みからです。キリストの芳ばしい香ならぬ、キリストの美しさの中に、この三位一体の神は、私達を招き入れて下さるのです。み言葉の恵みをもって成長、成熟させてくださりながらです。何と言う恵み、何という愛でしょうか。弟子訓練を、神はこのような祝福の為に用いて下さっていることに、心からの感謝を捧げるのです。
主は言われました。『私は、私の輝かしい家を更に輝かす(イザヤ60:7)』と。このキリストの美しさの輝きは一人から始まります。一人の成長・成熟から始まります。そして、やがて家全体がこの輝き・キリストの美しさで輝くようになるのです。麻溝台教会の目標は、このキリストの美しさが、家全体で輝きながら、神に栄光を帰する教会になって行くことです。しかし、その目標は、一人の成長から始まります。私達は一人を大事にします。 |
牧師の福音トレインコーナー
このコーナーは教会員の方のためのデボーションコーナです。
本多牧師による日々の聖書黙想日誌や教会の最新情報紙「まな」掲載文等が載せられております。
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